一切は烏有に帰する悦びへ
火は立ち上がる逝く秋の野に
小笠原和幸『テネシーワルツ』
火は立ち上がる逝く秋の野に
小笠原和幸『テネシーワルツ』
邑書林刊行の「セレクション歌人」叢書で、初めて小笠原和幸の名を知り、その短歌を読む機会を得た。第一歌集『馬の骨』、第二歌集『テネシーワルツ』抄、第三歌集『春秋雑記』完本が収録されている。「セレクション歌人」叢書は、藤原龍一郎と谷岡亜紀がプロデュースしているので、叢書の志向する傾向が明確だが、叢書収録の歌人の一人として小笠原を選ぶという選択は、なるほどと得心させるものがある。
「セレクション歌人」叢書のひとつの特徴は、歌人自らの手になる略歴が巻末に付されているという点である。短歌には経歴からしか明らかにならないようなものもあるため、これが意外におもしろい。殊に小笠原は今まで上梓してきた歌集では、その経歴を明かさなかったようなのでなおさらである。「不確カナ記憶」30首で1984年に短歌研究新人賞を受賞しているが、その後は賞に応募するも連戦連敗だったようだ。1990年に第一歌集『馬の骨』を上梓するが、反響はまったくなく、未だにダンボール箱に初版300部の残部が残っているというのが意外である。というのも、小笠原の短歌は一読すれば強い印象を受け、忘れることのできないざらつきを心に残すからである。
1956年生まれの小笠原の短歌に大きな影を落しているのは、東北岩手に生を受けたという「風土性」、4歳の時に生まれた妹がその年に事故死し、10歳のときに母親が病死するという、家庭内に充満する「死」、そして父の再婚により家庭に継母が住むようになるという「家族性」である。ここから容易に想像できるように、小笠原の短歌には濃密な「物語性」がこめられている。「東北の風土性」と「物語性」とが神社の狛犬のように左右に並ぶと、いやでも寺山修司の名が頭に浮かぶが、事実小笠原は高校生のときに寺山の『書を捨てよ、街へ出よう』に出会って、すっかりヤラレテしまう。めでたく寺山病の患者となり、東北を出奔してほぼ10年近く各地を転々とする。短歌を読むときにまず作者の経歴から入るというのはもちろん邪道なのだが、小笠原のように自らの歌の中に濃密な物語性を塗り込める歌人の場合には、住宅顕信のようなケースとはまたちがった意味で、いやでも経歴もまた短歌の一部となってしまうことを避けるのがむずかしい。歌の屹立を求める作者はこれを嫌うだろうが、少なくとも読者の側から見ればそう言える。
亡母と継母ふたつ血筋は骨肉の果てを草葉の陰のどの位置
三界ニ頸枷四人アリナガラ心ハ別ノ場所ニ置ク術
僻村の秋晴れを行く霊柩車死にたき者の死にたる噂
これの世に畜生として馬の目のすずしや馬の骨となるまで
穢土浄土秋の畑に火を焚けば炎(ほむら)へだてて真向かふ父子(おやこ)
第一歌集『馬の骨』から引用した。ちなみに「亡母」も「継母」も「ハハ」と読ませる。音は同じだが漢字は違う。同じに見えて非なる母である。難解な所はないので一首ごとの解説は不要だろうが、家のなかに亡母と継母と父と私が暮すという環境での、作者の心の置きどころが読みとれる。端的に言えば家庭という「修羅」である。この感情は後に、「ただ二人この家に住む日が来たら継母よ蜆が煮え立つてゐる」という、より短歌的に練れた秀歌となって結実するのだが、『馬の骨』では未だストレートに表現されているというべきか。語法上の特徴としては、「草葉」とか「三界」とか「穢土浄土」、また他の歌では「現当二世」などという仏教用語がよく使われている。こういう用語はいわゆる「手垢のついた言葉」なので、下手に使うと寺の門前に張られている今週の標語のようになるのだが、小笠原はそのことを熟知しつつも歌のなかでよく生かしている。四首目に見られるのは、人間のように修羅を生きる運命から自由な動物の生死の簡潔さへの憧憬である。このような眼差しは、東北の寒村に生まれて農業を営む父を持つという出自なくしては得ることがむずかしい。都市化の一途をたどっている現代短歌の現状で、このような眼差しは奇貨とすべきだろう。
第一歌集『馬の骨』ですでに明滅しており、第二歌集『テネシーワルツ』で炸裂するのは、「人の生とはすべからく死へと至る道にすぎない」と断ずる人生観である。
鈍牛が乾草を食む鈍重に生を咀嚼し死を消化する
方形の卓に三人(みたり)が坐するまま我ら泉下の者となるべし
よく冷えた西瓜四半分皿に置くいづれ一人の生き死にである
生キ死ニニ意味無シソレハソレデイイノダガ蒼穹ヘ号砲ガ鳴ル
この人生観はヨーロッパの文学・絵画でよく見られる Memento Mori「死を思え」というテーマと一見似ているようだが、実はだいぶちがう。「生とは徒労であり、人は生まれて飯を食い、子を成して死ぬだけである」という即物的無常観は、やはり仏教の国に生を受けた者ならではのものだろう。その文学的類縁種を探せば、おそらく深沢七郎の名があがるにちがいない。『楢山節考』「月のアペニン山脈」『笛吹川』などで深沢が執拗に表現したのも、このような即物的な東洋的無常観であった。深沢もまた、故郷山梨の土俗性を自分の文学の糧としていた点も、岩手出身の小笠原と共通するかもしれない。
第二歌集『テネシーワルツ』ではかなり激烈に表現されているこの人生観は、第三歌集『春秋雑記』になるともう少し穏やかな諦観の風情を漂わせ始める。
あたらしき畳の上は何もなくしづかに冬の光をまねく
知己の死を話柄としつつ老父母の朝餉そのままとどこほりなし
食卓に卵(らん)ひとつあり一日のそしてすべての始まりとして
しらほのねとひとかたまりとなりしかばすなはち立つる物質の音
蹶然と土筆出てくる生まれてくるこの世のことは承知の上だ
木に残る桃が順次に落下してしづかに腐る真昼の家郷
「生には意味がない」と感じつつもそのことに煩悶していた年代を過ぎ、作者は意味のない生をとにかくお迎えが来るまでは生きるという思いに着地したかのようである。
『新潮』2004年6月号で、車谷長吉が小笠原の歌評を寄稿している。車谷長吉といえば『赤目四十八瀧心中未遂』などの著者で、最後の私小説作家といわれている人である。車谷はこの文章のなかで、せめて文士や歌人は「生の目的は死であると覚悟したところで、文学に対処してほしい」と信条を披瀝して、小笠原はその覚悟がある近年珍しい人だと誉めている。続けて「生の目的は死である」と思い定めて生きるのはさぞかし辛かろうが、そういう人は「物のあわれ」を知る人だと断じ、それが真の歌人の運命であると結んでいる。車谷と言えば「文学の鬼」である。「文学の鬼」とは、全生活を文学に捧げ尽くし、そのためには女房を苦界に沈めることも厭わない人をいう。ちなみに車谷の奥さんは詩人高橋順子で、別に苦界に身を沈めているわけではないが。その車谷が認めたのだから、小笠原もまた「文学の鬼」なのである。短歌の世界で文学の鬼というと、穂村弘のような短歌が認められるようならば、自分は東京は青山墓地の茂吉先生の墓前で割腹すると言った石田比呂志や、「無名鬼」を主宰し自刃して果てた村上一郎などが頭に浮かぶ。私は好きで短歌を読んでいるだけなので、こういう人たちが怖くてならない。いきなり面と向かって、「お前には短歌に命を捧げる覚悟があるのか !」などと詰問されたら、「いえ、ありません、すみません」とひたすら謝って赦しを乞うしかない。
小笠原の短歌にも似たような雰囲気が漂っているので、作者のこういう文学に対する姿勢が肌に合わない人は、何首も読むと心にアトピー反応を起こすかもしれない。心を大根おろしにかけられているような気がすることもある。そういう人は第三歌集『春秋雑記』になると多く見られる次のような、静かに覚悟を詠う歌を読むのがよろしい。
しづまれる皿四枚が打ち合ひて音をたてたり小さき地震(なゐ)に
この世のこと隈なく余すところなく暴いて夏の朝日が昇る
みづからを嚆矢となして明けなづむ沍寒の空へ一羽飛び立つ
躓いたお前をこえてゆくものは秋の終りの風のみならず
「セレクション歌人」叢書『小笠原和幸集』に収録された歌論を見ると、歯に衣着せぬ物言いの人のようだ。特定の短歌の師もなく結社にも所属しない小笠原は、まさに孤高の人の名がふさわしい。おもしろい歌人であり、短歌界はその成果を正当に評価すべきだろう。
「セレクション歌人」叢書のひとつの特徴は、歌人自らの手になる略歴が巻末に付されているという点である。短歌には経歴からしか明らかにならないようなものもあるため、これが意外におもしろい。殊に小笠原は今まで上梓してきた歌集では、その経歴を明かさなかったようなのでなおさらである。「不確カナ記憶」30首で1984年に短歌研究新人賞を受賞しているが、その後は賞に応募するも連戦連敗だったようだ。1990年に第一歌集『馬の骨』を上梓するが、反響はまったくなく、未だにダンボール箱に初版300部の残部が残っているというのが意外である。というのも、小笠原の短歌は一読すれば強い印象を受け、忘れることのできないざらつきを心に残すからである。
1956年生まれの小笠原の短歌に大きな影を落しているのは、東北岩手に生を受けたという「風土性」、4歳の時に生まれた妹がその年に事故死し、10歳のときに母親が病死するという、家庭内に充満する「死」、そして父の再婚により家庭に継母が住むようになるという「家族性」である。ここから容易に想像できるように、小笠原の短歌には濃密な「物語性」がこめられている。「東北の風土性」と「物語性」とが神社の狛犬のように左右に並ぶと、いやでも寺山修司の名が頭に浮かぶが、事実小笠原は高校生のときに寺山の『書を捨てよ、街へ出よう』に出会って、すっかりヤラレテしまう。めでたく寺山病の患者となり、東北を出奔してほぼ10年近く各地を転々とする。短歌を読むときにまず作者の経歴から入るというのはもちろん邪道なのだが、小笠原のように自らの歌の中に濃密な物語性を塗り込める歌人の場合には、住宅顕信のようなケースとはまたちがった意味で、いやでも経歴もまた短歌の一部となってしまうことを避けるのがむずかしい。歌の屹立を求める作者はこれを嫌うだろうが、少なくとも読者の側から見ればそう言える。
亡母と継母ふたつ血筋は骨肉の果てを草葉の陰のどの位置
三界ニ頸枷四人アリナガラ心ハ別ノ場所ニ置ク術
僻村の秋晴れを行く霊柩車死にたき者の死にたる噂
これの世に畜生として馬の目のすずしや馬の骨となるまで
穢土浄土秋の畑に火を焚けば炎(ほむら)へだてて真向かふ父子(おやこ)
第一歌集『馬の骨』から引用した。ちなみに「亡母」も「継母」も「ハハ」と読ませる。音は同じだが漢字は違う。同じに見えて非なる母である。難解な所はないので一首ごとの解説は不要だろうが、家のなかに亡母と継母と父と私が暮すという環境での、作者の心の置きどころが読みとれる。端的に言えば家庭という「修羅」である。この感情は後に、「ただ二人この家に住む日が来たら継母よ蜆が煮え立つてゐる」という、より短歌的に練れた秀歌となって結実するのだが、『馬の骨』では未だストレートに表現されているというべきか。語法上の特徴としては、「草葉」とか「三界」とか「穢土浄土」、また他の歌では「現当二世」などという仏教用語がよく使われている。こういう用語はいわゆる「手垢のついた言葉」なので、下手に使うと寺の門前に張られている今週の標語のようになるのだが、小笠原はそのことを熟知しつつも歌のなかでよく生かしている。四首目に見られるのは、人間のように修羅を生きる運命から自由な動物の生死の簡潔さへの憧憬である。このような眼差しは、東北の寒村に生まれて農業を営む父を持つという出自なくしては得ることがむずかしい。都市化の一途をたどっている現代短歌の現状で、このような眼差しは奇貨とすべきだろう。
第一歌集『馬の骨』ですでに明滅しており、第二歌集『テネシーワルツ』で炸裂するのは、「人の生とはすべからく死へと至る道にすぎない」と断ずる人生観である。
鈍牛が乾草を食む鈍重に生を咀嚼し死を消化する
方形の卓に三人(みたり)が坐するまま我ら泉下の者となるべし
よく冷えた西瓜四半分皿に置くいづれ一人の生き死にである
生キ死ニニ意味無シソレハソレデイイノダガ蒼穹ヘ号砲ガ鳴ル
この人生観はヨーロッパの文学・絵画でよく見られる Memento Mori「死を思え」というテーマと一見似ているようだが、実はだいぶちがう。「生とは徒労であり、人は生まれて飯を食い、子を成して死ぬだけである」という即物的無常観は、やはり仏教の国に生を受けた者ならではのものだろう。その文学的類縁種を探せば、おそらく深沢七郎の名があがるにちがいない。『楢山節考』「月のアペニン山脈」『笛吹川』などで深沢が執拗に表現したのも、このような即物的な東洋的無常観であった。深沢もまた、故郷山梨の土俗性を自分の文学の糧としていた点も、岩手出身の小笠原と共通するかもしれない。
第二歌集『テネシーワルツ』ではかなり激烈に表現されているこの人生観は、第三歌集『春秋雑記』になるともう少し穏やかな諦観の風情を漂わせ始める。
あたらしき畳の上は何もなくしづかに冬の光をまねく
知己の死を話柄としつつ老父母の朝餉そのままとどこほりなし
食卓に卵(らん)ひとつあり一日のそしてすべての始まりとして
しらほのねとひとかたまりとなりしかばすなはち立つる物質の音
蹶然と土筆出てくる生まれてくるこの世のことは承知の上だ
木に残る桃が順次に落下してしづかに腐る真昼の家郷
「生には意味がない」と感じつつもそのことに煩悶していた年代を過ぎ、作者は意味のない生をとにかくお迎えが来るまでは生きるという思いに着地したかのようである。
『新潮』2004年6月号で、車谷長吉が小笠原の歌評を寄稿している。車谷長吉といえば『赤目四十八瀧心中未遂』などの著者で、最後の私小説作家といわれている人である。車谷はこの文章のなかで、せめて文士や歌人は「生の目的は死であると覚悟したところで、文学に対処してほしい」と信条を披瀝して、小笠原はその覚悟がある近年珍しい人だと誉めている。続けて「生の目的は死である」と思い定めて生きるのはさぞかし辛かろうが、そういう人は「物のあわれ」を知る人だと断じ、それが真の歌人の運命であると結んでいる。車谷と言えば「文学の鬼」である。「文学の鬼」とは、全生活を文学に捧げ尽くし、そのためには女房を苦界に沈めることも厭わない人をいう。ちなみに車谷の奥さんは詩人高橋順子で、別に苦界に身を沈めているわけではないが。その車谷が認めたのだから、小笠原もまた「文学の鬼」なのである。短歌の世界で文学の鬼というと、穂村弘のような短歌が認められるようならば、自分は東京は青山墓地の茂吉先生の墓前で割腹すると言った石田比呂志や、「無名鬼」を主宰し自刃して果てた村上一郎などが頭に浮かぶ。私は好きで短歌を読んでいるだけなので、こういう人たちが怖くてならない。いきなり面と向かって、「お前には短歌に命を捧げる覚悟があるのか !」などと詰問されたら、「いえ、ありません、すみません」とひたすら謝って赦しを乞うしかない。
小笠原の短歌にも似たような雰囲気が漂っているので、作者のこういう文学に対する姿勢が肌に合わない人は、何首も読むと心にアトピー反応を起こすかもしれない。心を大根おろしにかけられているような気がすることもある。そういう人は第三歌集『春秋雑記』になると多く見られる次のような、静かに覚悟を詠う歌を読むのがよろしい。
しづまれる皿四枚が打ち合ひて音をたてたり小さき地震(なゐ)に
この世のこと隈なく余すところなく暴いて夏の朝日が昇る
みづからを嚆矢となして明けなづむ沍寒の空へ一羽飛び立つ
躓いたお前をこえてゆくものは秋の終りの風のみならず
「セレクション歌人」叢書『小笠原和幸集』に収録された歌論を見ると、歯に衣着せぬ物言いの人のようだ。特定の短歌の師もなく結社にも所属しない小笠原は、まさに孤高の人の名がふさわしい。おもしろい歌人であり、短歌界はその成果を正当に評価すべきだろう。