王紅花『窓を打つ蝶』書評

 『星か雲か』に続く著者第五歌集だが、著者にとっては特別な歌集にちがいない。最愛の伴侶松平修文の逝去とその後に作られた歌を含むからである。松平は二〇一七年の十一月にほの暗い始原の地トゥォネラへと旅立った。本歌集の第一部と第二部は截然と分断されている。第一部は松平がいた世界、第二部は松平がいない世界である。

重篤の病に臥せる人の耳死に神のごと敏くあるなり

輸血停止申し出し翌る朝きみの山を眺むる水色の目よ

病院に人溢れ暗く動きをりわれら昨日までこの中にありき

凄まじき形相に向かひ合ふ時のありき死へ向かふあなたとわたし

花守となりて夜ごとに水をやる部屋に溢れてむせかへる供花

 松平と王は手と手を取り合い病と闘うが、薬石効なく松平は旅立つ。四首目を読めば二人がどのように死と向き合ったかが知れて心を打つ。

つまとよく歩きし名栗川に来てしばらく泣けり揺るる枯れ芒

死んでゐるあなたは仏間にわたくしは生きて汚した洗ひ物干す

コロッケが二つ そのなんでもないことの なんでもないそのコロッケ二つ

寝室の薔薇柄カーテン見覚えてゐるでせう夜はそこへり来よ

 最愛の人を失い作者は文字通り空洞と化したことは想像に難くない。普段ならば二人分四つ買っていたコロッケが、一人分の二つになったという些細な変化にも心が締め付けられる。想いが溢れて破調になっている。到る所に松平の影が揺曳する本歌集は文字通り慟哭の書である。

 とはいえ王の歌風の特質にも触れておかねばらならない。集中の次のような歌に立ち止まった。

毒ガスをあぐる硫黄山廻りつつ老若男女何故かにやつく

イヌシデは地方によりてアヲシデ、アカシデ、シロシデと呼ばれて

公衆浴場にひとりとなりしとき老女は犬掻きをしてみる

 硫化水素の漂う山で人々がにやついたり、イヌシデの名に地方差があったり、銭湯で老女が犬掻きしているなどというごく些細なことを王はよく取り上げて歌にする。それは王の歌の源が、何かの出来事と心が触れ合った時のかすかな摩擦感にあるからだろう。それをそのまま歌にするところに王の歌風の特質がある。結果として乾いたユーモアの漂うこのような歌に作者の目から見た世界の捉え方が透けて見えるようだ。最後に特に印象に残った歌を挙げておく。

バス停に本読む老人ひとよ桜散るこの世の何を知らむとや急く

『短歌往来』2021年3月号に掲載