時の重量 佐久間章孔『州崎パラダイス・他』書評

 『州崎パラダイス・他』は『声だけがのこる』から三十年振りに刊行された佐久間の第二歌集である。『声だけがのこる』が出版された一九八八年は、リクルート事件が世を騒がせ、竹下内閣によって消費税が導入され、昭和天皇の重い病状が報じられた年だ。わずか一週間で終わった昭和六四年を除けば実質的に昭和最後の年と言ってよい。『州崎パラダイス・他』はそれから三十年目の今年(2018年)上梓された。奇しくも今上天皇の退位によって平成は三十年をもって幕を閉じることになる。つまり第一歌集と第二歌集を隔てる空白がぴったり平成と重なっているのだ。『州崎パラダイス・他』が平成最後の年に刊行されたことに、不思議な暗合を感じないわけにはいかない。

 本歌集は三部構成からなる。第一部「州崎パラダイス」、第二部「ニッポン」、第三部「残照」である。州崎は現在の東京都江東区東陽町一丁目の旧町名で、明治時代から遊郭が置かれていた。終戦後は州崎パラダイスという名の赤線地帯となり、一九五八年の売春防止法で姿を消した。第一部の主要なテーマはこの赤線地帯の思い出と、佐久間の故郷と思われる鬼怒川流域の村の遠い記憶である。

胸を病む出戻り女の洗い髪見知らぬ世界があやしく匂う

早熟の男子二人が月に舞う謎のあなたに手招きされて

こわごわと綱に手をかけ暗い声で「足が冷たい、おろしてやろう」

あの町は陽炎のなか バラックの低い家並みと白い埃の

鬼怒の里に月出るころ川番の小屋の戸が開く 暗く軋みつつ

自転車の錆びたチェーンを替えたくて兎を全部売ったさ ごめん

 一見すると昭和ノスタルジーと思われるかもしれないが、まもなく終わろうとする平成の世を間に挟んで眺めると、望遠鏡を逆さにして眺めたような神話的世界のように見える。本歌集の底を流れているのは『声だけがのこる』を染め上げていた「残党の抒情」(田島邦彦他編『現代の第一歌集』の「刊行のころ」)から神話世界への飛翔である。

 本歌集にも、「ぼくたちは永久反対運動装置 時代遅れのハモニカ吹いて」「綿火薬の製造法のなつかしさ額にぬるりとヤバイ汗流れ」のように、戦後という時代の殿艦たらんとする思想兵の述懐がないわけではない。しかしもはやそれは遠い残響として届くにすぎない。

 本歌集で異彩を放つのは第二部「ニッポン」である。萩原朔太郎の「日本への回帰」の引用をエピグラフとし、「舞神」「埋神」「戦神」「境神」「無言神」「鬼神」「喪神」など佐久間の想像による神を題とする歌が並ぶ。

燃ゆる火を踏みつつ踊れ荒舞を舞初めてよりはや幾年

切っ先の紅を拭きとり目を閉じる 海原千里越え来しものを

戦舟が海の向こうで燃えている押して渡れと告げたばかりに

生き恥をさらして待てどこの胸に深き御声は二度と届かぬ

神々は隠れませども歌うがごとく祈りは残る 花は菜の花

 時代を撃つ思想兵として歌集全体をひとつの喩とした『声だけがのこる』から三十年を経過すれば、さすがにもはや今は戦後ではない。佐久間がさまざまな神を招喚するのは、ある時は時代を劫火で焼き尽くし、またある時は慚愧の念を刃に変えて振り下ろし、戦後の昭和という時代に引導を渡して荘厳するためである。こうして初めて佐久間は戦後という呪縛から自由になる。

 こう考えればなぜ第三部が「残照」と題されているのか納得がいく。時代の熱はもはや灰の中の埋み火でしかない。

終焉いやはての身に降り注ぐ薄ら日よ幼年の庭にわれをかえせよ

行く先は何処か知らず 減じゆく薄ら日に白く晒されながら

光る海に散らばるさき島々の破船(ふね)は入江に打ち上げられて

 第一歌集が時に俗謡めいて剽軽な調べを帯びていたのに較べると、本歌集の調べはなべて重い。それはとりも直さず佐久間が生きて来た時間の重さである。友達どうしのおしゃべりのようなポップでライトな口語短歌が溢れる現代にあって、佐久間の歌い口の重さは異質に感じられるかもしれない。しかし本歌集を読む人は必ずや歌の底に流れる時間の重量を感じ取ることだろう。

 

『月光』2018年12月 57号掲載