町歩きと短歌

町歩きとは何だろうか

 町歩きは楽しい。しかしよく考えてみると、町歩きと散歩はどこがどうちがうのだろうか。「町歩き」という言葉は広辞苑にも日本国語大辞典にも載っていない。一部の人たちに慣用として使われている言葉だ。私見になるが、散歩と町歩きは町なかを歩くという行為自体は同じでも、その目的がちがう。散歩の目的は気分転換か体力維持といったところだろう。一方、町歩きの目的は知らないものに出会う発見にある。ここが単なる散歩と大きくちがう点なのだ。

 一九八五年頃だったろうか。その頃、私はある仏和辞典の編纂に加わっていて、編集会議のためによく東京に出掛けていた。編集会議は土曜日に開かれる。会議が終わると、出版社の人たちと夕食をとって解散となる。出版社が目黒にマンションを持っていたので、よくそこに泊まらせてもらった。一夜明けると日曜日で、京都に帰る他は特にすることもない。目黒のマンションを出て、急な権之助坂を上り、目黒通りを東に進む。首都高速二号線をくぐって間もなく、緑に包まれた屋敷のような場所に「日本画による初春展」という看板が掲げられていた。こんな所に美術館があったかなと思いながらも入ることにした。長いアプローチを進むと、木陰からクリーム色の建物が見えてくる。建物の入口にある乳白色の大きなガラスに翼を拡げ胸を反らした女神像が浮き彫りになっている。その美しさにうっとりと眺めることしばし、ガラスの隅に目をやるとR. Laliqueとサインがあるではないか。私は驚愕した。ルネ・ラリックといえば高名なフランスのガラス工芸家である。ラリックの作品が人知れずこんな所にあるとは。入場券を買って中に入り、凝った造りの室内装飾にまた驚いた。東京都庭園美術館として知られているその建物は、戦前に皇族の朝香宮邸として建設された日本でただひとつのアールデコの館だったのである。庭園美術館として発足したのが一九八三年の十月というから、私は開館間もない頃に偶然遭遇したことになる。それ以来この美術館が私がとりわけ好む場所となったことは言うまでもない。

 実は私の町歩きには教科書がある。赤瀬川原平、藤森照信、南伸坊編『路上觀察學入門』(筑摩書房、一九八六年)である。赤瀬川原平は前衛芸術家で、尾辻克彦名義で芥川賞を受賞した作家でもある。後に『老人力』(筑摩書房、一九九八年)で「老人力」という言葉を流行させることになる。藤森照信は東京大学生産技術研究所助教授(当時)で専門は建築史。『建築探偵神出鬼没』(朝日新聞社、一九九〇年)など多くの本で建築探偵を名乗る。今では近江八幡にあるラ・コリーナなどの設計で有名な建築家でもある。南伸坊は多芸多才なイラストレーターで文筆家。あるとき三人は意気投合して路上観察学会なる団体を立ち上げるのだが、その源流は早稲田大学の建築学教授であった今和次郎の考現学にあるという。この本にはマンホールの蓋のデザインをスケッチして集めている人や、解体される建築の欠片を集めている人や、女子高校生の制服を観察している人などが登場する。極めつきは赤瀬川の超芸術トマソンだろう。トマソンとは、建物の二階が撤去され用済みなのに残されているどこにも行けない階段や、続きの建物がなくなったため用をなさなくなったドアなどのことで、赤瀬川はそこに「無用の美」を見出そうとした。トマソンとは、その昔、読売巨人軍に入団するもまったく打てなかった助っ人外国人選手の名に由来する。詳しくは赤瀬川原平『超芸術トマソン』(ちくま文庫、一九八七年)に譲る。

 いつのことだったか、東京の京橋を歩いていると、偶然INAXギャラリー(後にLIXILギャラリーと改称、現在は廃館)で開催中の一木努の「建築の忘れがたみ」展に出くわした。一木は『路上觀察學入門』で紹介されていた解体される建物の欠片を収集している人である。偶然に感謝しつつ入場し、展示されている建物の欠片を心ゆくまで鑑賞したのは言うまでもない。ここにもまた町歩きのおかげの発見があった。

 

町歩きと都市の風景

 町歩きをするとき、どのようなものに目を留めるかは人によってちがうだろう。行き交う人を眺める人もいれば、公園や民家の庭の花を愛でる人もいるだろう。私は特に建物と地形に注意を引かれる。建築はもともと好きで、とりわけ明治・大正期の洋館や擬洋風建築を見るのが好きだ。東京には池之端の旧岩崎邸や、駒場公園の旧前田侯爵邸、若松河田にある旧小笠原伯爵邸など洋館建築がたくさん残っている。しかし今回は建築ではなく地形の話をしたい。

 地形にもいろいろあるが、私が特に好きなのは坂と路地と階段である。NHKのテレビ番組「ブラタモリ」や、『タモリのTOKYO坂道美学入門』(講談社、二〇〇四年)でよく知られているように、タレントのタモリは日本坂道学会副会長を僭称するほどの坂道愛好者である。また最近は、皆川典久『東京スリバチ地形散歩』(洋泉社、二〇一二年)、『東京23区凸凹地図』(昭文社、二〇二〇年)といった本も次々に刊行されて、ちょっとした地形ブームの観もある。

 ただ私が住んでいる京都は地形愛好家には不向きな土地である。なだらかな京都盆地には、市内に吉田山、船岡山、双ヶ丘という平安京造営時にランドマークとなった低い岡はあるものの、それを除けば平らな土地で起伏に乏しい。東山には清水寺に続く清水坂や産寧坂があるが、いつも観光客で一杯で散策には向かない。

 これにたいして横浜や神戸や長崎のような港町は坂が多く、それが独特の町の風情を醸し出している。港町に坂が多いのは、大型船が接岸するためには水深が深くなくてはならず、海岸近くまで山が迫っている地形が適しているからである。平地が狭いために、山が造成されて宅地になり、住宅がどんどん山を上っていくので坂が多くなる道理だ。中には長崎のオランダ坂のように観光名所になって歌謡曲に歌われる坂もある。神戸のハンター坂なども名高い。坂には名前が付いているものが多いが、それは正式な名称ではなく地元の人が付けた俗称である。京都の東山七条に「女坂」という坂があるが、それは坂を上った所に京都女子中学・高校・大学があって、毎朝大勢の女子生徒・女子学生がこの坂を上ることに由来する。

 海外の港町では特にポルトガルのリスボンが記憶に残る。大航海時代の出発点となったこの町は、七つの丘の上に築かれたと言われているほど坂が多い。市内には黄色いレトロな路面電車が走っていて、まるでケーブルカーのように坂を上る様子に驚かされる。また旧市街のアルファマ地区はうねうねと狭い道が続いておりまるで迷宮のようだ。アルファマの「アル」はアルコール、アルハンブラの「アル」と同じくアラビア語の定冠詞で、その昔、この土地を支配していたムーア人が築いた市街ということだ。庶民が暮らす地区なので、道端で七輪でイワシを焼いていたりする。

 都市の景観を形作る上で、公園などの緑地や河川沼沢は大きな役割を果たす。緑地は日陰を作り市民の憩いの場になるし、町を流れる川の河川敷や土手は散歩やジョギングに好適な場所である。しかし町の表情を作る上で坂が担っている役割も大きい。

 東京はそのことがよく感じられる町である。東京は北西から拡がる武蔵野台地が浸食されてできた土地であり、北西から南東に向かって五本の指を拡げた手のひらのような形をしている。指の部分が尾根筋で、指と指の間が谷筋である。そこに高低差が生じ、尾根筋と谷筋をつなぐ坂が生まれる。

 東京の高低差は驚くばかりで、それを実感するのは地下鉄に乗っている時だ。丸ノ内線で淡路町から御茶ノ水に差し掛かると、神田川を越える時に地上に出る。御茶ノ水から本郷三丁目を通って後楽園の駅に着くときにも地下から地上に出る。いずれも谷筋に差し掛かって土地が低くなったからである。極めつきは銀座線に乗って渋谷に到着する時だろう。ひと駅手前の表参道までは地下なのに、渋谷に着く直前に地上に出て、ホームは駅ビルの三階にある。渋谷駅は渋谷川が浸食した深い谷底に位置しているのである。

 私の東京の定宿は本郷の東大正門に近い所にある。東大が建てられたのは本郷台地の上、本郷通りは尾根筋のいちばん高い所を通っている。だから右へ曲がっても左に曲がっても下り坂になる。この辺りには、菊坂、鐙坂、本妙寺坂、無縁坂など風情のある名を持つ坂が多く、独特な町の景観を形成している。

 江戸の昔から高低差は身分の差であり貧富の差であった。幕府は武士が住む武家地と町人が暮らす町人地を区別していた。開けていて日当たりの良い尾根筋は武家地で大名屋敷が建てられた。現在の東京大学の敷地の赤門のあるあたりは加賀百万石の前田家の屋敷跡である。一方、町人地は日当たりと水はけの悪い谷筋に多く、小商いで暮らす町人や職人が住んでいた。時代劇で描かれる長屋の道がよくぬかるんでいるのはこのためである。菊坂を下った所にある樋口一葉の旧宅跡を見れば当時の様子を忍ぶことができる。坂を上ることは社会階級を上昇することであり、富と権力を手にすることである。一方、坂を下ることは階級を滑り落ちることであり、貧窮と同義である。坂の上を見つめる眼差しには憧れと同時に諦めもあっただろう。

 

坂の象徴的意味

 坂は文学作品や映画などにもよく登場する。石坂洋次郎の『陽のあたる坂道』、江戸川乱歩の『Ⅾ坂の殺人事件』、スタジオジブリの『コクリコ坂から』、コミックの『坂道のアポロン』、さだまさしの『無縁坂』などではタイトルになっているし、ゆずのヒット曲『夏色』で主人公は長い長い下り坂を自転車で走る。坂には何か人を引きつけるものがあるようだ。

 私は三省堂の『現代短歌大事典』も『岩波現代短歌辞典』も日頃からよく使っているが、編集方針がちがっていておもしろい。『現代短歌大事典』は歌人をよく拾っているが、『岩波現代短歌辞典』では事物が多く立項されている。例えば「橋」は大項目で見開き二頁を占めていて、執筆は高橋睦郎である。その中で高橋は、橋は具体的には川や谷のあちら側とこちら側を結ぶもので、抽象的にはこの世界と異界とを結ぶものであると論じている。事物は詩歌においてしばしば象徴的意味を帯びる。俳句や短歌は、背後に象徴的意味を引き連れた語彙を好んで用いることで、言葉の経済効率を高め、含意や暗喩や行間の意味を作り出す。これが制度化されたものが俳句の季語だろう。和歌では歌枕がそれに当たる。

 『岩波現代短歌辞典』には「坂」も立項されていて、坂を上ることに理想実現の過程やあるべき現実への希望というプラスのイメージが、坂を下ることには理想からの後退、失意と挫折というマイナスのイメージが付着しているとある。例歌として引かれているのは次の佐佐木幸綱の歌である。

山王坂を共に上りし日を語る梨の木坂を下りたる日も  佐佐木幸綱

 この歌では、山王坂は大志を抱いた青年時に上り、梨の木坂は老境を迎えて下る坂として描かれている。梨の木坂は国会図書館の横に、山王坂は衆議院第一議員会館と第二議員会館の間にあり、山王日枝神社に続く道である。地図で見ると、ごく近くにある二本の坂であることに改めて気づく。若い頃と老年に差し掛かった現在とで、心のあり処は変化してはいないことを示しているのかもしれない。

 上り坂が青春と上昇のイメージを持つことを示すのならば、国語の教科書にも載っている次の歌の方がふさわしかろう。

のぼり坂のペダル踏みつつ子は叫ぶ「まっすぐ?」、そうだ、どんどんのぼれ  

                            佐佐木幸綱

 次に挙げる歌では坂の上に童謡教室がある。坂の上は山の手で、裕福な人たちが暮らす場所である。自宅で童謡教室を開いているのはそんな未亡人だろうか。立ち漕ぎで坂を上る〈私〉の心の中にはそんな暮らしへの憧れがあるにちがいない。

坂の上の童遙教室ジクザグに自転車漕ぎゆく腰を浮かせて  石井絹枝

 その一方、次の桑原の歌では坂の上は理想や憧れのある場所ではない。しかし病む老妻を車椅子に乗せて押す作中の〈私〉にとっては、ただひとつ希望の残された場所である。

坂の上に湧く白き雲 いまはただその雲めざし車椅子押す  桑原正紀

 上り坂とは反対に、歌に描かれた下り坂には失意と敗北のイメージが色濃く漂う。

昭和四十年以来わが身は長き坂まろび来し如くまろびゆく如し     佐藤佐太郎

昭和二十三年十八歳じゅうはち心朽ちき神田駿河台一口いもあらい坂     石田比呂志

 佐藤の歌の坂は特定の坂ではなく喩として置かれている。まさに「坂を転がり落ちるごとく」である。石田の歌に登場する一口坂は靖国神社の近くにある。そう詠まれてはいないが、作中の〈私〉はこの時坂を下っていただろう。

 坂が帯びる象徴的意味はこれに留まるものではない。梅内美華子の『現代歌枕』(NHK出版、二〇一三年)には、坂が境界でもあることが書かれており、その例として『古事記』の黄泉比良坂が挙げられている。黄泉比良坂は生者の暮らすこの世と死者のいる黄泉とをつなぐ坂である。梅内は次の歌を引いている。

陽が落つる奈良油坂不可思議な楽をまとひて迦楼羅は来たる   永井陽子

うらぶれて九段の坂をくだりゆく亡者の群れか聲なくすぎむ   一ノ関忠人

 永井の歌の迦楼羅かるらは鳥の姿で描かれることもある仏教の守護神で、当然ながらこの世のものではない。油坂(油阪)は近鉄奈良駅から東に続く坂で、交通量の多い道である。こんな場所に異形のものが出現するのかと少し驚く。一ノ関の歌に登場する九段坂は靖国神社に続く道である。したがって坂を下る人たちは参拝を終えた戦没者の遺族と考えるのが妥当だが、それはいまだに大陸の草原や南洋の海底に屍を残す死者の姿と重なる。いずれの歌でも坂は現世と異界を接続する通路として描かれている。言うまでもなく、そのような通路に近づくのは危険なことであり、戦慄を覚える経験なのである。

 このような坂の持つシンボリスムは、そもそも坂が上にある高い場所と下にある低い場所を結ぶ機能を持つところから来るのだろう。「結ぶ」ということは、本来は異なるもの、左右に分かれているものを接続することをいう。このために坂は、橋や鳥居など結界を表すものと同じように、私たちが暮らしているこの世界と、それとは異なる世界、つまり死後の世界や現世を超えた神秘的世界の境界と見なされるのだろう。

 

短歌に詠まれた坂

 今回は『岩波現代短歌辞典』の初句索引と、『角川現代短歌集成』の語句索引を活用して、「坂」が詠み込まれた短歌を探してみた。坂の歌は『角川現代短歌集成』第一巻「生活詠」の中の「都市・街・町」の一角に集められているが、それ以外の場所にも散在していて、存外数が多い。

 先に述べた異界との境界というシンボリズムの作用で、坂は幻想的・神秘的な出来事が起きる場として描かれることがよくあるようだ。

坂くだる少女の爪のはらはらと散るくれなゐを聴きつつゆくも   水原紫苑

坂道をゆつくりゆらゆら下りてゆく紋白蝶を二つ引き連れて    小寺三喜子

漂ふはしんのみならずひらひらとまひるましろき坂くだりたり    高嶋健一

春かぜに乗って無人の乳母車嘘つき坂を登りて消えつ       石田比呂志

乳母車突き放す手は見えねども坂の真上に夕陽のありつ      宮原望子

 水原はもともと幻想的な歌風の歌人だが、この歌でも坂を下る少女の爪が剥がれ落ちるというあり得ない光景が美しく詠まれている。小寺の歌では作中の〈私〉が紋白蝶を連れていて、高嶋の歌では名指されてはいないものの坂道をひらひらと下っているのは紛れもなく蝶である。前者では蝶を引き連れた〈私〉に超常的なオーラがあり、後者では蝶そのものが異界からの使者のようだ。また石田の歌では無人の乳母車が坂を上るというあり得ない光景が詠まれている。「嘘つき坂」は創作で、この歌も実は嘘なんだよという仕掛けだろうか。作者の「アカンベー」が見えるようだ。宮原の歌は、乳母車が姿の見えない人物によって押し出され、今にも坂を転がり落ちる瞬間のようで、これも恐ろしい。この歌に描かれているのは純粋な悪意である。

 次に挙げる歌で坂は歌人の人生の機微や境遇を映してさまざまな陰翳を帯びて描かれている。

夜の坂を電車くだりぬいきの哀しみながく揺るる思ひぞ    筑波杏明

目白坂地獄胸坂さび朱なすきみの子守りてのぼりくだりき    山田あき

犬はここに今死にゆかん遠き坂の傾斜がふしぎに美しくして   真鍋美恵子

忽然としてひぐらしの絶えしかば少年の日の坂のくらやみ    佐藤通雅

 一首目の作者の筑波杏明は、「まひる野」所属の歌人で、警視庁機動隊の隊長であった。歌集『海と手錠』には、「われは一人の死の意味にながく苦しまむ六月十五日の警官として」という樺美智子の死を悼む歌が収録されている。筑波は貧しい農村に生まれ、民衆の側に所属する自分と警察官という職務の矛盾に苦しんでいた。電車がゆっくり下る夜の坂はそのような筑波の生の哀しみを象徴しているかのようだ。

 二首目の山田あきの夫は坪野哲久で、二人はプロレタリア短歌と左翼運動に打ち込んだことで知られる。検挙もされていて、当然ながら生活は苦しかった。この歌で坂は生活の困難の象徴として描かれている。目白坂は文京区関口にあり、目白台を上る坂で突き当たりには明治の元勲山縣有朋旧宅の椿山荘がある。一方、地獄胸坂は実在しない。しかし椿山荘と東側にある新江戸川公園(肥後細川庭園)の間に胸突坂という急坂がある。すぐ近くに関口芭蕉庵があり、松尾芭蕉が神田上水の改修工事に携わっていた頃住んだ場所と言われている。

 三首目の真鍋の歌は愛犬が死を迎えた時の歌だろう。遠い坂は実在の坂ではなく、これからあの世へと旅立つ愛犬が辿る坂かもしれない。

 四首目の佐藤の歌に描かれるヒグラシは、朝と夕方に鳴く蟬である。ヒグラシが忽然と鳴き止んだのだからおそらく夕方だろう。外で遊んでいたらおもいのほか早く日が暮れてしまった。夕闇に襲われた佐藤少年は心細くなった。その目に坂は恐ろしいものが隠れている場所と映ったのかもしれない。

友待つと思ひてくだり妻待つと思ひてのぼるわが柿生坂    岩田 正

その後の道玄坂をくだりゆく左の路次は罪のごとくにて    二宮冬鳥

吾とともに移ろふごとき星屑を仰ぎ登りぬ往診の坂      林 宏匡

 柿生坂は岩田の歌集の題名にもなっているが、妻との静かな暮らしを象徴するかのようだ。一方、二宮の歌には何やらほの暗いムードが漂う。渋谷の道玄坂を上ったところにある円山町にはその昔花街があり、今はその名残としてラブホテルが建ち並ぶ。道玄坂を下る男には心にやましいことがあるのだろう。三首目の林は北海道の根室で暮らした医師である。冬空に輝く星辰は、病者のもとへ往診に向かう自分を励ますために付き従うかのごとくである。医師はそれに力を得て凍てついた北国の坂を上る。

 坂は街に起伏と陰影と独特の風情を生み出すが、短歌に詠まれた坂もまた、作者の人生と境涯を暗示するアイテムとしてさまざまに詠まれている。それを巡るのは短歌の中の町歩きと言えるかもしれない。

 

「横浜歌人会会報」123号 (2022年12月)に掲載

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