第10講で主語の定義を検討し、主語とは文に不可欠の名詞・代名詞で、動詞の活用を支配するものであることを見ました。これは確かに主語の定義としての必要条件と言えます。主語ならあまねく持っている特徴を述べているからです。しかしこの定義は主語の文法的な特徴は捉えているものの、主語の意味的な性質については何も述べていません。伝統的な主語の定義には、主語は能動文で動作主 (agent) を表す要素であるということが含まれていました。今回は主語が文の中でどのような意味役割を持っているのかを見ることにしましょう。
まず予備的作業として、動詞を大きく二つの種類に分けます。状態動詞 (verbe d’état) と運動動詞 (verbe d’action) です。
(1) Angéla est italienne.
アンジェラはイタリア人です。
(2) Yves ne sait pas l’adresse de Pierre.
イヴはピエールの住所を知らない。
(3) Claire court à toute vitesse.
クレールは全速力で走っている。
(4) Jean a ouvert une conserve de thon.
ジャンはツナ缶を開けた。
話をかんたんにするために、主語はすべて人にしました。(1)のêtre「〜である」や (2) のsavoir「知っている」などは時間によって変化しない状態を表す状態動詞です。(3)のcourir「走る」や (4) のouvrir「開ける」は時間によって変化する動作を表す運動動詞です。
主語が動作主を表しているのは、動詞が運動動詞である (3)と(4)です。(3)ではクレールは走る人で、(4)ではジャンは缶詰を開ける人です。「何かをする人」であるためには動詞が運動動詞でなくてはなりません。動詞が状態動詞である (1) と (2) では、アンジェラやイヴは「何かをする人」ではありません。(1)でアンジェラは「イタリア人」という国籍を持っている人で、(2)でイヴはピエールの住所という知識を保有していない人です。このようなとき、(1) や (2) の主語は動作主という意味役割ではなく、siège de la prédication「主述関係の座」と呼ぶことがあります。述語が表している状態や性質がある場所というくらいの意味です。(1)ではアンジェラが「イタリア人である」という属性が成り立つ主体であり、(2)ではイヴは「ピエールの住所を知らない」という状態が成り立っている人と言えるでしょう。
では動詞が運動動詞のときは、主語は必ず動作主なのかというと、そうとも言えません。動作主がみずから主体的に行動するものとするならば、それができるのは意志を持つ人間か動物に限られます。意志を持たない無生物は動作主にはなりません。
(5) Le Rhône coule vers le sud.
ローヌ河は南に流れている。
(6) Le couteau est tombé par terre.
ナイフは床に落ちた。
(7) La bombe a explosé.
爆弾は爆発した。
(5) でローヌ河はそうしようと思って南に流れているわけではありません。地形という自然の要因によってそうなっているだけです。(6) でもナイフは自分で落ちたのではなく、誰かが取り落としたのでしょう。(7) でも爆弾が爆発したのは、誰かがスイッチを入れたか、時限装置が作動したせいです。
では (5)〜(7)の主語が動作主でないとすると、それを何と呼べばよいのかという問題が生じます。このような不都合を避けるために、動作主という意味役割から意図性 (intentionalité) を除外しようとする考え方もあります。つまり自分でしようと思ってしたのかどうかとは関係なく、運動の主体となっているものはすべて動作主と呼ぼうということです。このような考え方を採るならば、(5)〜(7)の主語も広い意味で動作主と呼ぶことができます。
(8) Les soldats ont subi une torture.
兵士たちは拷問を受けた。
(9) Jacques a reçu une averse en rentrant de l’école.
ジャックは学校からの帰りににわか雨に遭った。
(8) (9) となるとますます主語を動作主と呼ぶのが難しくなります。(8)では兵士はそうしようと思って拷問を受けたわけではありません。 (9) でもジャックは自分で何かをしたわけではありません。広義の動作主と見なそうとすると、(8)の兵士や (9)のジャックを運動の主体と見なさなくてはなりませんが、 (8) の兵士は拷問という行為の主体ではなく拷問を受ける側です。また (9) でもジャックは雨に降られているので、運動の主体とは言えません。
このような例を見ると、たとえ広い意味に取ったとしても、運動動詞の主語をすべて動作主と見なすのは難しいことがわかります。ではどうして伝統的な主語の定義には動作主という意味役割を含むものが多いのでしょうか。そこにはどうやら二つの理由があるようです。
まず状態動詞と運動動詞の数を較べると運動動詞の方が多いという事実があります。このために動詞の主語は何かの動作・行為の主体と見なされやすいのです。この点で日本語は極端で、状態動詞は「いる」「ある」「できる」「思う」「値する」くらいしかなく、後は「書ける」「見える」などの可能動詞で、これらを除く残りの動詞は全部運動動詞です。フランス語では状態動詞の savoir「知っている」やressembler「似ている」も、日本語の「知る」「似る」は運動動詞です。確かに状態の種類より運動の種類の方が多いので、運動動詞が多いのは言語によらずよく見られることです。
また自動詞より他動詞の方が多いことも挙げられます。他動詞ではPaul a cassé un verre à vin.「ポールはワイングラスを割った」のように、主語は何かの動作をする側で、直接目的補語は動作の影響をこうむる側です。このために主語が動作主である場合が出来事のプロトタイプのように見なされたのだと考えられます。
しかしこの問題には歴史的な背景もあるようです。昔からラテン語・ギリシャ語などの古典語やヨーロッパの他の言語と比較して、フランス語が優れた言語であることが論じられてきました。なかでもよく知られているのはリヴァロルの『フランス語の普遍性について』です(注1)。この文章の中でリヴァロルはフランス語の優れた点として、直接語順 (ordre direct) を挙げています。その部分を引用して拙訳を添えておきます。
Ce qui distingue notre langue des langues anciennes et modernes, c’est l’ordre et la construction de la phrase. Cet ordre doit toujours être direct et nécessairement clair. Le français nomme d’abord le sujet du discours, ensuite le verbe qui est l’action, et enfin l’objet de cette action : voilà la logique naturelle à tous les hommes ; voilà ce qui constitue le sens commun. Or cet ordre, si favorable, si nécessaire au raisonnement, est presque contraire aux sensations, qui nomment le premier l’objet qui frappe le premier. C’est pourquoi tous les peuples, abandonnant l’ordre direct, ont eu recours aux tournures plus ou moins hardies, selon que leurs sensations ou l’harmonie des mots l’exigeaient ; et l’inversion a prévalu sur la terre, parce que l’homme est plus impérieusement gouverné par les passions que par la raison. Le français, par un privilège unique, est seul resté fidèle à l’ordre direct (…).
古典語や他の現代語と較べたとき、わが国の言語の特色は語順と文の組み立て方にある。この語順は常に直接的でなくてはならず、必然的に明晰なものである。フランス語ではまず文の主語を述べ、次に行為を表す動詞を置く。そして最後に行為の対象を述べる。これが万人にとって自然な論理である。これこそ常識というものである。ところがこの語順は推論にとって実に好適で必然的ではあるものの、感覚の命じるところとはほぼ逆となる。なぜなら感覚においては、私たちの五感が最初に捉えた対象をまず名指すからである。このような理由によって、あらゆる民族は直接語順を捨てて、感覚や語の調和が命じるままに、程度の差はあれ奇抜な言い回しを採用した。こうして地上に倒置がはびこることとなった。というのも人間は理性よりも感情に支配されることが多いからである。特別に選ばれたフランス語のみが変わることなく直接語順に忠実に従っている。
リヴァロルはこの引用にあるように、〈主語─動詞─目的語〉という語順を直接語順 (ordre direct) と呼び、それがもっとも理性にかなった語順であるとしています。この文章が書かれたのは18世紀の啓蒙主義の時代で、数年後にはフランス革命が勃発するという頃です。「理性」は人間を正しく導くものとして重んじられていました。そして〈主語─動詞─目的語〉という直接語順の裏側には、〈動作主─動作─被動作主〉という意味役割が張り付いています。直接語順は動作主から被動作主へと向かう動作の方向をそのまま表したものとされているのです。上の引用のすぐ後によく知られたCe qui n’est pas clair n’est pas français. 「明晰でないものはフランス語ではない」という文章が続きます。
リヴァロルはこのように直接語順をフランス語の明晰さと普遍性の鍵と考えたのです。驚くのはこの直接語順の神話が現代でも生きているということです。フランス学士院 (Institut de France) の名誉総裁 (chancelier) であったド・ブロイ (Gabriel de Broglie) がアカデミー・フランセーズの代表団長として2014年に北京を訪問した折に、「フランス語の美しさ」(La beauté de la langue française) と題する講演を行いました。その一節を引いてみましょう。(注2)
Le principal caractère c’est l’ordre direct. Le français obéit à l’ordre direct. (…) La langue française commence par ce qui commande la compréhension, le sujet, puis par ce qui découle de ce qui vient d’être dit, c’est-à-dire que l’ordre rigide des mots est régi par leur fonction et leur rapport. La proposition principale vient avant la proposition subordonnée. Le sujet vient avant le verbe qui exprime l’action et le verbe est suivi de ses compléments directs, puis indirects qui indiquent les conditions dans lesquelles le sujet a agi. C’est cela l’ordre direct.
フランス語の重要な特性は直接語順です。フランス語は直接語順に従います。(…)フランス語では文の最初に理解の要となる主語を置きます。次に置かれた主語から発するものを述べます。つまり単語の厳格な順序はその機能と関係によって支配されているのです。主節は従属節の前に置きます。主語は行為を表す動詞の前に来ます。そして動詞の後には、主語がどのような条件で働きかけたかを示す直接補語と間接補語が続きます。これこそが直接語順です。
まるで18世紀の亡霊が現代に蘇ったようですね。現代の言語学では、〈主語─動詞─目的語〉という語順が「最も理性にかなった」ものだということは否定されています。主語をS、動詞をV、目的語をOと書くと、順列組み合わせによって次のような6通りの語順が可能になります。ある統計によれば(注3)、世界中の言語でそれぞれの語順の占める割合は次のようになっています。
SOV 39% SVO 36% VSO 15% VOS 5% OSV/OVS 5%
フランス語のようなSVO言語は36%を占めていますが、日本語のようなSOV言語は39%あり、それより多くなっています。SVO言語以外の語順の言語を話している人が合わせて64%もいるのですから、その人たちが「理性にかなっていない」言語を話しているとは考えられないでしょう。自分たちの言語のSVOという語順が最も良いものだというのは、よく見られる自民族中心主義 (ethnocentrisme) に他なりません。
では直接語順というのも一種の幻想なのでしょうか。いえいえ、そんなことはありません。フランス語が直接語順を好む言語であるということは厳然たる事実です。また〈主語─動詞─目的語〉という統語構造の裏側に〈動作主─動作─被動作主〉という意味役割が張り付いているというのも、フランス語という言語の大きな特徴となっています。このことはすぐ後にお話する無生物主語構文を理解するのに大いに役立つでしょう。
(注1)Antoine de Rivarol, De l’universalité de la langue française, 1784.
(注2)https://www.academie-francaise.fr/la-beaute-de-la-langue-francaise
(注3)クロード・アジェージュ『言語構造と普遍性』白水社、1990.