第410回  穂崎円『オメラスへ行く』

死にたいと殺してやるの境目に差し込みひらくうつくしい傘

 穂崎円『オメラスへ行く』

 作者の穂崎円ほさきまどかは1981年生まれ。2012年頃から作歌を始めたとプロフィールにある。2019年に第30回歌壇賞候補、2019年に第1回笹井宏之賞の最終選考候補、今年 (2025年) 第68回短歌研究新人賞の最終選考を通過している。掲出歌は笹井宏之賞に応募した連作「くりかえし落日」の中の一首である。

 『オメラスへ行く』は今年 (2025年)の9月に刊行されたばかりの著者第一歌集で、佐藤弓生、東直子、岩川ありさが栞文を寄せている。岩川は早稲田大学教授で、現代日本文学、フェミニズム、クィアやトラウマ研究の専門家ということだ。歌集題名の「オメラス」とは、SF作家のアーシュラ・ル=グインの短編『オメラスから歩み去る人々』から採られている。架空の世界オメラスはみんなが幸福に暮らす場所だが、その安寧は一人の子供の不幸の上に成り立っているという設定の思考実験的デストピア小説である。小説ではオメラスから人が出て行くのだが、歌集題名ではオメラスに行くと方向性が逆になっている。そこに何かの著者の意図があるのだろう。

 余談になるが、アーシュラ・ル=グインの父親は人類学者のアルフレッド・クローバーで、母親シオドーラは『イシ ─ 北米最後のインディアン』を著した文化人類学者という家系である。ル=グインのSFに異世界構築型の小説が多いのは両親の影響だろう。

 著者の穂崎について私は何も知らないが、巻末のプロフィールに、BL短歌合同誌「共有結晶」vol.2-4編集部と、二次創作短歌非公式ガイドブック主催とある。BLとはboys’ loveの略で、男性同士の同性愛を扱った小説やコミックスに使われる用語で、BL短歌とはその短歌版である。また「二次創作」とはコミックスやアニメの登場人物を素材として自由に創作することをいい、コミケ(コミック・マーケット)に多く出品されている。また収録された短歌の初出を見ると、SFウェブマガジンなどが含まれており、サブカルチャーの世界と親和性の強い人物と見受けられる。『ヴァーチャル・リアリティー・ボックス』と題された私家版の歌集もあるようで、SFの世界とも通じているらしい。

ないことになるはずはなく薄明ににごった水の匂いがのぼる

死んでのち行く場所のこと まだ何の証も持たぬ査証ビザ欄の白

生きものは重たいにおい。雨の夜に捲り続けたグレッグ・イーガン

パスポート開いたままで押し出して許されるまでの霧の湖

光へと指紋をひたしながら待ついつか遺跡に変わる空港

 巻頭の「オデッセイ」と題された連作から引いた。三首目のグレッグ・イーガンはオーストラリアの覆面SF小説家。『しあわせの理由』、『ディアスポラ』などが邦訳されている。穂崎はあとがきで、「短歌をつくることは『本当のことを』『ありのままに』書くべきだ、それは誰にでも障害なくできることのはずだという要請・見解への苛立ち」を綴っている。生活実感と写生という近現代短歌の王道を真っ向から否定しているわけだ。ではそれに代わる作歌の手法として穂崎がめめざすものは何かというと、それは詩や小説などと同じ位相の創作としての短歌だと思われる。想像力を解き放って、ル=グインのように私たちが生きている現実とは異なる世界を創り上げること。連作「オデッセイ」では古代ギリシアの物語が枠組として利用されていて、テーマは「果てしない旅」である。査証、パスポート、空港などのキーワードからそれが読み取れる。このような作歌姿勢をとる作者の短歌を読むときには、歌の中に作者の生活の断片や、作者が投影された〈私〉を探すのは無意味だ。言葉の作り出す異世界に身を委ねるしかない。

 とはいえ短歌は抒情詩なので、どうしても歌の基底に何らかの感情が流れるのを避けることができない。また歌に使われた語彙から作者の心の傾きを感じ取ることもできる。そのような感情のベースラインを読み取ると、いくつかのキーワードが得られる。その一つは「喪失」である。

トランクを開ければすでに干上がってもう語られぬ係累たちよ

Longとはつまり一生、と気が付いてそれからずっと白夜のなかを

はじいても音を立てないプロフ写真砕かれていく暗い雑踏

生きるためのまぼろしをもう信じないまた起動するスクリーンセーバー

 二首目の詞書きに添えられたLong Covidとは、新型コロナウイルスに罹患した後に長く残る後遺症のこと。四首目のスクリーンセーバーをもう知らない人もいるだろう。パソコンのモニターがブラウン管だった頃に、画面の焼き付きを防止するために流す画像のことで、私は空飛ぶトースターを使っていた。これらの歌に通底するのは何かを失ったという感覚である。ゲームやアニメの世界では核戦争で荒廃した世界などが舞台になることがよくあるので、そんな設定と関係しているのかもしれない。

 もう一つよく出くわすテーマは「死」である。

くりかえし死ぬ狼の疾走を硝子をへだてて雨などと呼ぶ

キューブラー・ロスの受容は五段階ここは踊り場のような明るさ

まだ死ぬと知らない頃の君の声どの声の君も死ぬって知らない

うたふとき口腔暗く光りたりいかな死者にも翼のなくて

 二首目のキューブラー・ロスは精神科医で、人が死を告げられたときにそれを受け入れるのには五つの段階を踏むと提唱したことで知られる。歌の中の「ここ」は私たちが生きている今・ここである。何人も生の果てには死が待っている。現在はロスの五段階のどの段階かと問うているのだ。三首目には物故した歌手のアルバムを聴いているという背景がある。このように繰り返し現れる主題を通じて、作者の心がどこに向かって傾いているかを感じ取ることができる。言葉を使う以上、それは避けられずどこかに着いて来るものだ。

 集中には音楽のライブを詠んだ歌や、アイルランドの文化や音楽に想を得た歌もあるのだが、ちょっと不思議なのは「カタコンベの魔女」と題された連作である。

被災地に行きて目視で数へよと長(おさ)は言ひきと遠風にこゑ

表下にアステリスクの付記増えぬ─調査時点、地震なゐ、津波、死者

死者達の数の寄せくる気配して紙の真白をしばし恐れつ

 東日本大震災を背景とした連作だと思われる。ここでは旧仮名が使われているが、それは著者によると異なる「声」を持つためだという。歌の中の〈私〉はどうやら震災対策本部のような部署で、震災で亡くなった人のリストと統計を作成する仕事をしているらしい。短歌は創作という立場をとる作者だが、現実の共鳴はいやおうなく伝わって来るということか。

それぞれに悲鳴を上げる方法は異なっていて静かな水面

書棚にも水際のありてあふるれば鳥野辺のごと積まれ行くのみ

差し出せば両のてのひら湿らせる死者の名前のごとく流水

折れ曲がる自分の影に囲まれてヴァイオリン弾きが弾く変拍子

海馬という無性の馬を曳きながらひたすらに行く霧雨のなか

海よりも遠い記憶を懐かしみひとは左右に耳たぶひらく

花びらは音もたてずにひび割れて終わらない神さまの金継ぎ

美しい古代神話のように見るWikipedia・ブラキストン線の項

 特に心に残った歌を引いた。最後の歌のブラキストン線とは、本州と北海道の間にある生物境界線のこと。二首目は大いに共感した歌だ。書棚の水際とは、本が置かれた場所とまだ置かれていない場所の境目だろう。本が増えると水際はどんどん後退する。やがて置く場所がなくなり、本は床に山積みされることになる。愛書家なら誰もが知っていることだが、本は背表紙が読めて、すぐ取り出せるように書架に縦に並んでいないといけない。横向きに山積みされた本はやがて死ぬ。本にも生命というものがある。歌の中の「鳥野辺」が平安京以来死者の遺骸を風葬していた場所をさすのなら、「鳥辺野」が正しいのではなかろうか。「ヴァイオリン弾きが弾く変拍子」の増音破調や、「終わらない神 / さまの金継ぎ」の句割れ・句跨がりなど韻律に関わる修辞もうまく処理されている。

 一風変わったテイストを持つ歌集で、現在の短歌シーンでは伝統的な写生・写実によらない歌風を持つ作者が増えていることを感じさせる。