第19回 大滝和子『竹とヴィーナス』

人生を乗せいる電車ひとすじの光の詩形そこに射しこむ
                  大滝和子『竹とヴィーナス』
 昨年はリーマン・ショックや派遣切りなど後半に暗い話題が続いたので、新しい年の最初は不景気の影の差していない歌集を選ぼうと、書架の歌集をあれこれひっくり返してみたものの、なかなか見つからない。そうだと思いついたのが大滝和子『竹とヴィーナス』である。実体経済の不景気は困りものだが、心の不景気はもっと恐い。この歌集は心の不景気の影など微塵も見られないという点で、現代では珍しい部類に属する。掲出歌はこの歌集の中で特によい歌というわけではないが、「光の詩形」は短歌の喩とも取れ、新年らしく希望を感じさせるので掲げた。
 大滝はすでに2004年2月の「今週の短歌」で取り上げている。その折りの紹介文を使い回しすると、大滝は「未来」に所属し、「白球の叙事詩(エピック)」で短歌研究新人賞、第一歌集『銀河を産んだように』で現代歌人協会賞を受賞している。第二歌集に『人類のヴァイオリン』がある。『竹とヴィーナス』は2007年刊行の第三歌集である。岡井隆麾下の「未来」には個性的な歌人が蝟集しているが、大滝はその中でも異彩を放つ歌人である。
 あとがきに「心のなかで東が西に語りかけることが多くなった」とあり、また「日本語で歌を詠むと同時に、宇宙言語でもありたいと願っている」とも書かれている。歌集題名の「竹」は東の象徴、「ヴィーナス」は西の象徴だろう。東には植物を、西には人間を 選んだところもおもしろい。西洋文明は人間中心で、東洋文明は自然中心ということだろう。東西の対話という点では大滝にはすでに次のような名歌がある。
観音の指(おゆび)の反りとひびき合いはるか東に魚選(え)るわれは
                   『人類のヴァイオリン』
 この東西の対話は第三歌集でもその深度を深めている。また「宇宙言語」とは気宇壮大なと思われるかもしれないが、収録された歌はその言葉を裏切っていないのである。歌集巻頭の二首を引く。
無限から無限をひきて生じたるゼロあり手のひらに輝く
腕時計のなかに銀の直角がきえてはうまれうまれてはきゆ
 「無限から無限を引く」というスケールの大きな想像力には不景気の影は皆無である。無限大を扱う数学を開拓したのは19世紀後半にドイツで活躍したロシアの数学者カントールだが、さしものカントールも無限がこのように詩歌に詠われるとは思わなかっただろう。本来ならばゼロは無である。しかし無限の彼方まで一度到達してまた戻って来たゼロは、往還した無限量を記憶として内包する豊かな無である。だから手のひらに輝くのだ。二首目の「銀の直角」という美しい形容は、時計の長針と短針が作り出す角度をさす。時計の針は時々刻々と角度を変え、文字盤の至る所で直角を形成する。しかしたまさか生まれた直角は次の瞬間には消えてしまう。無限の時間の流れの中で生成と消滅を繰り返す直角は、生々流転・万物流転(パンタ・レイ)の喩であり、この歌にも途方もないスケールの時間が封じ込められている。大滝の歌の本質は〈私〉の感情を詠う抒情にはなく、この二首のように、小さな〈私〉を包み込み〈私〉を超えた次元の時空間を詠むところにある。
 私が特に仰天したのは次の歌である。
《永遠》を吾はふたつに折り曲げる出逢いたる時境をなして
 時間は現在を境として前方は未来、後方は過去と認識される。しかし時間自体に過去と未来という区別があるわけではない。「〈私〉が現在に在る」というただ一事によってそう認識されるのである。だから境目にいる〈私〉は永遠をふたつに折り曲げると言ってよい。理屈はそうだ。しかしそんなふうに考える人はあまりいない。この歌を読むと、巨人の〈私〉が渾身の力を振り絞って、宇宙空間を棒のように貫く時間をバールのように折り曲げている壮大なイメージが湧く。人間は時空に縛られ支配される存在だが、人間の認識は時空を超えるというのは、パスカル的な想像力である。
 次の歌も同じようにスケールが大きい。
冥王星(プルートゥ)と海王星(ネプチューン)の内外(うちそと)の位置変わる日に売られいるパン
 惑星の順番は「水金地火木土天海冥」と習うが、「海冥」が入れ替わり「冥海」となる時期がある。この交代は地球から何十億kmのかなたで起きている天文現象である。これをパン屋で売られているパンという卑近な日常の出来事と対置することで、途方もない距離を隔てた交感が現出し、この日この時〈私〉がここにいる不思議があぶり出される。
 すでに2冊の歌集で大滝の野球好きはよく知っているのだが、大滝は理科系出身なのだろうか。理科系に馴染みの深い用語をよく使っている。
亡き父のDNAが吾(あ)に買わす「エジプト象形文字解読法」
とおい宇宙からやって来て泣きはじむ元素周期律表のFe(てつ)
きょうもまたシュレディンガーの猫連れてゆたにたゆたに恋いつつぞいる
わが服の襞描きいる画家のまえ無限数列おもいて座る
複数のはじめは2ならず3なりと記すわが手のさみしくもあるか
正多面体の種類を想いつつ眠らな、四、六、八、十二、二十
 大滝は特に数列や周期律表のように、数字や元素が規則的に並んでいるものを好むようだ。「シュレディンガーの猫」は量子力学の生みの親シュレディンガーが確率論的世界観を説明するために用いた比喩。無限数列ではきっと大滝はフィボナッチ数列が好みだろう。1, 2, 3, 5, 8, 13….のように、次項が前のふたつの項の和である数列で、ヒマワリの種の配列や巻き貝の貝殻の螺旋など自然界に多く見られる。「複数のはじめは2ならず3なり」は私にもわからない。言語でよって複数の前に双数というカテゴリーがあることを言っているのか。
 このような大滝の歌の中の〈私〉は、近代短歌が前提とした生活者で抒情の座としてのそれとは私性において遠く隔たっている。
ビッグバンのころの素粒子含みいるわれの手なりや葉書持ちおり
電線のなか流れゆくわたくしよ又三郎に吹かれ揺れいる
 大滝の〈私〉は近代が前提としたデカルト的な意識の座としての〈われ〉ではなく、太古のビッグバンの記憶を素粒子レベルで保持するような時間的広がりを持つ〈私〉であり、また時には電流へと変身して電線を流れることもあるように万物と交感する〈私〉なのである。これは前衛短歌が作り出した拡大された〈私〉でも、80年代からのライトヴァースやニューウェーブ短歌が前景化した浮遊するポップな〈私〉でもない。意外に山中智恵子の巫女もしくは呪者としての〈私〉と近いかもしれないとも思う。
 大滝の感応的想像力は遠く離れた物を近づけるため、上句と下句の間に跳躍があることが多い。この跳躍があまり大きいと歌意が取れなくなる。
球場のむこうへ続くプラタナス 日曜は月曜を妬んでいるか
素足にて夜のしずけさ昇りゆく階段はふと葡萄のごとし
もしかして君のトーテムは鰐ですか入れてくださいこの角砂糖
声帯をなくした犬が走りゆく いたしましょうねアジュガの株分け 
泣きながら雨のなかへと駆けてゆく賢治と賢治 とおい御陵(みささぎ)
 プラタナスと日曜月曜、階段と葡萄、トーテムの鰐と角砂糖、声帯をなくした犬とアジュガの繋がりは大滝だけに開示された秘密なのかもしれないが、読者にはちょっとついていけない。また五首目のように結句に「とおい御陵」のように関係のないものを配して落とすのは、岡井隆直伝の「未来」のお家芸だと確か誰かが書いていた。
 最後に私が最も感じ入った歌を引く。
洋梨のなかに洋梨棲みつづけナイフちかづく瞬間ありぬ
存在の釣糸ひかり魚たちは捕えられゆくとき立ちあがる
母生きてヴァージンオリーヴオイル持ち我へ手渡すそのたまゆらよ
 洋梨の中に洋梨が棲んでいて、果物ナイフで皮を剥いたときにほんとうの洋梨が姿を現すという捉え方は独自である。はっと息を呑む思いがする。二首目は魚釣りの情景なのだが、釣り上げられた時に魚が垂直になる様を「立ちあがる」と形容することによって、存在の不思議が表現されている。三首目はこの歌集の白眉と言える歌。大滝のお父上は亡くなっているがご母堂は健在である。生きている人を「母生きて」とすることはふつうはしない。それを敢えてすることは、とりも直さずその裏側に死んだ時を想定し、「もう死んでいる未来」から「まだ生きている現在」を眺めていることになる。だからその存在はたまゆらなのであり、まるで母親の像に紗がかかったように、あるいはだんだん影が薄くなっていくようにも感じられる。それは命という蝋燭を見ているようだ。
 宇宙的スケールの歌を詠む歌人には井辻朱美がおり、種の境界をやすやすと越えるのは早川志織である。また強い交感力を持つ歌人には水原紫苑がおり、乾いた認識の歌を詠むのは香川ヒサがいる。しかし大滝の歌の世界はこれらの歌人ともまた肌合いの違う独特の世界であり、荻原裕幸が「デジタル感覚」と形容したのも故なきことではない(『短歌研究』2000年6月号)。しかし0と1や3の歌を作っているからといって、大滝の個性は「デジタル感覚」ではなく、何光年の距離をもワープし何万年もの時間を跳び越えて展開される存在論的想像力であり、この点において大滝は他に似る者のない歌人たりえているのである。

039:2004年2月 第3週 大滝和子
または、はるかかなたにあるものと感応する魂

家々に釘の芽しずみ
  神御衣(かむみそ)のごとくひろがる桜花かな

                  大滝和子
 小林恭二『短歌パラダイス』(岩波新書)の歌合二十四番勝負において、並み居る歌人たちをうならせ、小林をして「背筋に寒いものが走った」と書かせた名歌である。「釘の芽がしずむ」という表現から、市川昆が好んで映画に撮ったような、黒光りのする柱のある薄暗い日本家屋の室内が連想される。視線を移すと、一転して光溢れる庭に咲き誇る桜が目に入る。内と外、静と動、影と光の対比の鮮やかな歌である。何より桜の咲く様を「神御衣のごとく」と表現する措辞が衝撃的だ。

 作者の大滝和子は1958年生まれ、岡井隆の結社「未来」に所属し、「白球の叙事詩(エピック)」で短歌研究新人賞、第一歌集『銀河を産んだように』(砂子屋書房)で現代歌人協会賞を受賞している。第二歌集に『人類のヴァイオリン』(砂子屋書房)がある。

 現代短歌の担い手の多くは女性である。男性歌人はどちらかと言うと影が薄い。平安時代の古典和歌の世界でも女流歌人は活躍し、あまたの名歌を残しているのだから、不思議ではないという考え方も成り立つ。しかし、これはちょっとちがうと思う。どのようにちょっとちがうのか、きちんと説明しようとするとなかなか難しい。私にはそれだけの短歌史の知識もない。しかし、大滝和子の短歌を読むと、そのあたりの事情が薄明かりに照らすように、ほんのり解る気がする。それは例えば、『銀河を産んだように』に次のような歌を見つけるときだ。

 くるおしくキスする夜もかなたには冥王星の冷えつつ回る

 白鳥座(シグナス)の位置もかすかに移りたり君への手紙かきおえ仰げば

 はろばろと熱く射しくる日輪光われの頬にて旅おわるあり

 胎内にわれを編みているときの母の写真とまむかいにけり

 大海(わたつみ)はなにの罪ありや張りめぐるこの静脈に色をとどめて

 一首目では、部屋の中で恋人とキスする自分と、太陽系の最も外側を公転する冥王星が対置されている。狂おしいキスは熱く激しく、冥王星は静かで冷たい。本来ならば両者の間には何の関係もない。しかし、この歌は明らかに両者の間に、目には見えない密やかな関係の糸があることを詠っている。そこがこの歌のポイントであり、すべてである。このように、本来離れたもののあいだに成立する関係性の感得はひとつの感応であり、どうやら女性は目に見えない感応を感じる能力が高い。そして短歌という定型は、日常の常識ではあり得ないような感応を、説明的にではなく、感覚的に提示するのに適した形式である。

 二首目はたぶん恋人に長い手紙を書いているのだ。手紙を書き終わって夜空を仰ぐと、白鳥座の天球上の位置が少し変化している。その変化は時間経過の関数なのだが、目には見えない時間が白鳥座の位置の変化に写像されているところがポイントである。つまり、恋人に寄せる思いが、天球上の白鳥座の位置変化という壮大なスケールに変換されているわけだ。

 このスケール感は三首目にも顕著である。頬に射す陽光を、ただ暖かいと感じれば、それは普通の感覚だ。大滝はこれを、太陽に発して1天文学単位、すなわち1億4959万7870kmの宇宙空間を通り抜けて自分の頬で終わる旅だと感覚している。

 四首目と五首目は、空間的なスケール感が時間的なスケール感に転化したケースである。妊娠した母親の写真のなかに胎児の自分がいる。現在の自分と母の胎内の自分とが、何十年という時を隔てて相まみえている不思議がある。五首目はもっと時間幅が長く、進化の過程で海水と同じ塩分濃度を持つようになったヒトの血液を詠ったものである。

 大滝の短歌はこのように、大きな距離で隔てられた空間上のふたつの地点、長い時間で隔てられた過去と現在のあいだで〈感応する自己〉という基本的な図式のもとに成立している。大滝の短歌は、その感応の言語的表出なのである。

 『人類のヴァイオリン』でもこの図式は変わらないが、詠われる内容はもっと細やかになり、感覚も鋭敏になる。

 このノブとシンメトリーなノブありて扉のむこうがわに燦たり

 観音の指(おゆび)の反りとひびき合いはるか東に魚選(え)るわれは

 まぼろしの家系図の影ながく曳き青年は橋わたりつつあり

 暴風雨ちかづきてくる夜の卓まぶたを持たぬ魚食みており

 ドアのこちら側にノブがあれば、反対側にもあるというのは常識である。しかし、部屋の中にいてドアを閉めた状態で、こちら側のノブだけを見つめているとき、反対側のノブは決して見ることのできないものである。だから、ふたつのノブはドアの裏と表という隣り合わせにありながら、私と冥王星と同じくらい遠くにあるものでもある。この感応はすごい。また二首目の歌では、中国の観音像と遙か東方の日本にいる自分とが、市場の店先で魚を選ぶ指先の反りにおいて繋がり合い感応するところに、新鮮な発見がある。集中の白眉と言ってよい。

 だからこのような鋭敏な感応がないとき、大滝の短歌は次のように平凡なものになる。

 ブランコに吊されている亜麻色の髪の人形うごくともなし

 カーテンが拳のごとく結ばれるさみしき窓をわれは見たりき

 もちろん大滝にも、暗く鬱屈する内面や心の闇がないわけではなかろう。それは時折顔を出す次のような歌に垣間見ることができる。

 あたらしき闇たたえつつ白真弓ひきしぼるごと汝(な)を遠ざかる

 わが耳を前菜のごと眺めいる我あり暗き稲妻たてり

 しかし、大滝は鬱屈する内面を、水槽でハムスターを飼育するように飼い慣らしたりはしない。雨の釣り人のように自己の内面だけに屈み込むこともない。それはひとえに、大滝が〈ここにいる自分〉と感応する〈遙かかなたにあるもの〉との関係性に自己を開いているからである。