039:2004年2月 第3週 大滝和子
または、はるかかなたにあるものと感応する魂

家々に釘の芽しずみ
  神御衣(かむみそ)のごとくひろがる桜花かな

                  大滝和子
 小林恭二『短歌パラダイス』(岩波新書)の歌合二十四番勝負において、並み居る歌人たちをうならせ、小林をして「背筋に寒いものが走った」と書かせた名歌である。「釘の芽がしずむ」という表現から、市川昆が好んで映画に撮ったような、黒光りのする柱のある薄暗い日本家屋の室内が連想される。視線を移すと、一転して光溢れる庭に咲き誇る桜が目に入る。内と外、静と動、影と光の対比の鮮やかな歌である。何より桜の咲く様を「神御衣のごとく」と表現する措辞が衝撃的だ。

 作者の大滝和子は1958年生まれ、岡井隆の結社「未来」に所属し、「白球の叙事詩(エピック)」で短歌研究新人賞、第一歌集『銀河を産んだように』(砂子屋書房)で現代歌人協会賞を受賞している。第二歌集に『人類のヴァイオリン』(砂子屋書房)がある。

 現代短歌の担い手の多くは女性である。男性歌人はどちらかと言うと影が薄い。平安時代の古典和歌の世界でも女流歌人は活躍し、あまたの名歌を残しているのだから、不思議ではないという考え方も成り立つ。しかし、これはちょっとちがうと思う。どのようにちょっとちがうのか、きちんと説明しようとするとなかなか難しい。私にはそれだけの短歌史の知識もない。しかし、大滝和子の短歌を読むと、そのあたりの事情が薄明かりに照らすように、ほんのり解る気がする。それは例えば、『銀河を産んだように』に次のような歌を見つけるときだ。

 くるおしくキスする夜もかなたには冥王星の冷えつつ回る

 白鳥座(シグナス)の位置もかすかに移りたり君への手紙かきおえ仰げば

 はろばろと熱く射しくる日輪光われの頬にて旅おわるあり

 胎内にわれを編みているときの母の写真とまむかいにけり

 大海(わたつみ)はなにの罪かや張りめぐるこの静脈に色をとどめて

 一首目では、部屋の中で恋人とキスする自分と、太陽系の最も外側を公転する冥王星が対置されている。狂おしいキスは熱く激しく、冥王星は静かで冷たい。本来ならば両者の間には何の関係もない。しかし、この歌は明らかに両者の間に、目には見えない密やかな関係の糸があることを詠っている。そこがこの歌のポイントであり、すべてである。このように、本来離れたもののあいだに成立する関係性の感得はひとつの感応であり、どうやら女性は目に見えない感応を感じる能力が高い。そして短歌という定型は、日常の常識ではあり得ないような感応を、説明的にではなく、感覚的に提示するのに適した形式である。

 二首目はたぶん恋人に長い手紙を書いているのだ。手紙を書き終わって夜空を仰ぐと、白鳥座の天球上の位置が少し変化している。その変化は時間経過の関数なのだが、目には見えない時間が白鳥座の位置の変化に写像されているところがポイントである。つまり、恋人に寄せる思いが、天球上の白鳥座の位置変化という壮大なスケールに変換されているわけだ。

 このスケール感は三首目にも顕著である。頬に射す陽光を、ただ暖かいと感じれば、それは普通の感覚だ。大滝はこれを、太陽に発して1天文学単位、すなわち1億4959万7870kmの宇宙空間を通り抜けて自分の頬で終わる旅だと感覚している。

 四首目と五首目は、空間的なスケール感が時間的なスケール感に転化したケースである。妊娠した母親の写真のなかに胎児の自分がいる。現在の自分と母の胎内の自分とが、何十年という時を隔てて相まみえている不思議がある。五首目はもっと時間幅が長く、進化の過程で海水と同じ塩分濃度を持つようになったヒトの血液を詠ったものである。

 大滝の短歌はこのように、大きな距離で隔てられた空間上のふたつの地点、長い時間で隔てられた過去と現在のあいだで〈感応する自己〉という基本的な図式のもとに成立している。大滝の短歌は、その感応の言語的表出なのである。

 『人類のヴァイオリン』でもこの図式は変わらないが、詠われる内容はもっと細やかになり、感覚も鋭敏になる。

 このノブとシンメトリーなノブありて扉のむこうがわに燦たり

 観音の指(おゆび)の反りとひびき合いはるか東に魚選(え)るわれは

 まぼろしの家系図の影ながく曳き青年は橋わたりつつあり

 暴風雨ちかづきてくる夜の卓まぶたを持たぬ魚食みており

 ドアのこちら側にノブがあれば、反対側にもあるというのは常識である。しかし、部屋の中にいてドアを閉めた状態で、こちら側のノブだけを見つめているとき、反対側のノブは決して見ることのできないものである。だから、ふたつのノブはドアの裏と表という隣り合わせにありながら、私と冥王星と同じくらい遠くにあるものでもある。この感応はすごい。また二首目の歌では、中国の観音像と遙か東方の日本にいる自分とが、市場の店先で魚を選ぶ指先の反りにおいて繋がり合い感応するところに、新鮮な発見がある。集中の白眉と言ってよい。

 だからこのような鋭敏な感応がないとき、大滝の短歌は次のように平凡なものになる。

 ブランコに吊されている亜麻色の髪の人形うごくともなし

 カーテンが拳のごとく結ばれるさみしき窓をわれは見たりき

 もちろん大滝にも、暗く鬱屈する内面や心の闇がないわけではなかろう。それは時折顔を出す次のような歌に垣間見ることができる。

 あたらしき闇たたえつつ白真弓ひきしぼるごと汝(な)を遠ざかる

 わが耳を前菜のごと眺めいる我あり暗き稲妻たてり

 しかし、大滝は鬱屈する内面を、水槽でハムスターを飼育するように飼い慣らしたりはしない。雨の釣り人のように自己の内面だけに屈み込むこともない。それはひとえに、大滝が〈ここにいる自分〉と感応する〈遙かかなたにあるもの〉との関係性に自己を開いているからである。