019:2003年9月 第4週 早川志織
または、ゆっくり溶け出してベゴニアになる〈私〉

木曜の夕べわたしは倦怠を
   気根のように垂らしてやまず

        早川志織『種の起源』

 歌人のなかで、短歌を作ることだけで生活が成り立っている人は、大きな結社の主宰者を除けば稀だろう。この点が小説家との大きなちがいである。歌人は実生活においては短歌以外の職業を持っている。私の印象に過ぎないが、なかでも多いのは出版社の編集者と高校教員のようだ。これは歌人の多くが文学部出身者であることと関係している。出版社と国語の先生は、文学部を卒業した人の定番就職先である。このラインの果てには釈超空(折口信夫)のように、生活全部が国語漬けの国文学者のイメージが控えている。

 ところが歌人のなかには理科系の人もかなりいる。これも小説家との大きなちがいだろう。SFとミステリを除くと、理科系の人で小説家になる人はあまりいない。歌人では、坂井修一が東大の情報科学の教授、永田和宏が京大医学部の再生医科学研究所教授、その子の永田紅は京大理学部の大学院生、小池光は東北大学理学部を出て高校で理科の教員をしている。岡井隆、上田三四二、浜田到は医者である。理科系の人の思考回路と短歌とは、決して水と油のように相いれないものではなく、むしろ引き合う点があるのではないか。

 掲載歌の作者も東京農大を卒業しており、理科系の人である。それは処女歌集『種の起源』の題名にも明らかだ。おそらくは植物・遺伝関係の勉強をしたらしく、歌のなかに植物の名前が数多く詠われている。

 傾けて流す花瓶の水の中 ガーベラのからだすこし溶けていたり

 薄青きセーターを脱ぐかたわらでペペロミアは胞子をこぼしていたり

 異性らよ語りかけるな八月のクレオメが蘂をふるわせている

 アロエベラの花立ちあがる傍に来てわれはしずかに脛を伸ばしぬ

 歌集に折り込まれた栞に、小池光が跋文を寄せていて、そのなかで小池はおもしろい指摘をしている。曰く、「短歌で植物を素材にするとき、ふつうはその植物に蓄積された観念を詠う。桜なら散華の精神、ひまわりなら陽性の若々しさ、紫陽花なら挫折のシンボルというふうに」この方向を徹底させると、短歌に詠み込まれたすべての事物は、シンボルであり隠喩であるということになる。小池には、そのような視点からさまざまな事物を縦横に論じた『現代歌まくら』(五柳書院)という秀作がある。それはさておき、小池は先の引用に続けて、早川詩織の歌に詠み込まれた植物が、その裏側に張り付いた観念から自由であるのみならず、観念からどんどん逃げて行くところが特異だと述べている。確かにそのとおりである。

 これに加えてもうひとつ早川の歌で特異な点は、対象である植物とそれを見ている(詠んでいる)自分との関係の取り方にある。掲載歌では「気根のように」という直喩を用いているのでわかりやすいが、自分と植物が〈自己〉対〈対象〉という対峙する関係ではなく、逆に自分が植物と同化していく感覚が顕著である。「傾けて」の歌のなかのガーベラがすこし溶けているのと同じように、自分の体もまた植物的世界に溶融していくかのごとくである。これは植物に限ったことではない。

 今日われはオオクワガタの静けさでホームの壁にもたれていたり

 露まとう青虫のわれは朝の陽に白き背中をたわめて起きる

 シャワー浴びる男のからだを透視すれば一匹の鯨ただようが見ゆ

 塚本邦雄の短歌の世界は、強烈な観念の世界である。塚本が「赤い旗のひるがへる野に根をおろし下から上へと咲くジギタリス」、「いたみもて世界の外に佇つわれと紅き逆睫毛の曼珠沙華」のように植物を短歌に詠み込むとき、その植物は文字通りの存在ではなく、塚本が詠おうとした観念を表象する象徴である。これは現代短歌が構造的に作り上げた〈世界〉と〈われ〉を拮抗させる対峙関係に、塚本が忠実に従っているからである。

 早川の歌に溢れている特異な身体感覚は、このような〈世界〉と〈われ〉の対峙関係に歌の根拠を求めないという態度に由来するのだろう。男の身体に鯨が透けて見えるように、動物とヒトは進化という連鎖において見れば、断絶ではなく連続している。それはヒトの血液の塩分濃度が海水のそれと同じだという事実や、細胞内のミトコンドリアはもともとは別の生物で、細胞内のエネルギー変換のために体内に取り込んだものだという事実に思い到るとき、私たちが遅まきながら気づくことである。植物ですらも巨視的な進化の階梯においてみれば、ヒトとつながるものだ。早川の身体感覚はおそらくこのような視座に基づくものなのだろう。これは理科系の発想である。ヨーロッパ中世のキリスト教神学と、デカルトに始まる近代哲学は、人間に世界の中心としての特権的地位を与えた。早川の親しむ近代科学の世界では、ヒトは決して特権的な生物ではなく、ただバクテリアから始まる進化の終端に位置しているにすぎない。観念は絶対であるが、進化は相対的である。早川の歌の世界はこのようにヒトが相対化された世界なのだ。そこで詠われた植物や動物が、塚本の歌におけるように観念と直結することなく、ヒトのかたわらにただ〈在る〉存在なのは、むしろ当然と言うべきだろう。早川の歌を読むと、どこかホッとするような開放感を感じることがあるのはそのためである。しょせんヒトといえども、DNAの遺伝情報によって作り上げられたタンパク質の塊にすぎない。もっとも、その塊の上になぜか宿ることになった〈意識〉というやっかいなしろものを考慮しなければの話なのだが。