第314回 奥村知世『工場』

ある覚悟静かに示すヘルメット血液型を大きく書いて

奥村知世『工場』 

 工場で働く作業員が被るヘルメットに自分の血液型が、たとえば「O型」とか「B型」のように大きく書かれている。なぜ書かれているかというと、事故に遭って怪我をして病院で輸血を受けなくてはならなくなったときに、血液型を調べる手間を省くためである。ということはそのような事故が十分起こり得るような、危険を伴う職場だということになる。ヘルメットに書かれた血液型が「ある覚悟」を示しているのはこのためである。

 本歌集は「心の花」に所属する作者が2021年に上梓した第一歌集である。書肆侃侃房の新鋭短歌シリーズの一巻として出版された。監修と解説は藤島秀憲が担当している。本歌集は現代にあって独自の異彩を放っていると言わねばならない。作者はかなりハードな業務の工場に勤務していて、本歌集に収録されている歌の多くは工場での労働を主題としているからである。

夏用の作業着の下をたらたらと流れる汗になる水を飲む

昼休み防塵マスクのゴムの跡くっきりさせて社食へ向かう

ミドリ安全帯電防止防寒着「男の冬に!」の袋を破る

油圧式フォークリフトはカクカクと冬の寝起きのオイルはかたい

男らの血管のように配管が浮き出る黄昏時の工場

 過不足なく言葉を選んで詠まれているので歌意は明確で、解説の必要はなかろう。防塵マスクが必要で、別の歌にもあるが安全靴を履いて働く職場である。

 かつて近代短歌には職場詠・職業詠というジャンルがあった。特にプロレタリア短歌では当然のことながら労働の歌が作られた。しかし現代短歌では徐々に職場詠・職業詠は少なくなっている。そのためもあってか、『短歌研究』2020年3月号では「歌人、『わが本職』を歌う」という特集を組んでいるほどだ。ちなみに本歌集の作者奥村もこの特集に寄稿している。自らの仕事の現場を詠う職場詠・職業詠が減少したのは、生活即短歌というアララギ的リアリズムが重んじられなくなったためだろう。生活と短歌の距離は時代によって小さくも大きくもなるが、ニューウェーヴ短歌・ポストニューウェーヴ短歌を経た現在では、生活と短歌の距離はかつてなく離れている。そんな中で自らの労働現場をリアルに詠う奥村の短歌は、ひときわ異彩を放っていると言えるのである。

 上に引いた五首目のように、夕暮れ時に照明で煌煌と照らされた工場の景観を詠んだ歌がないわけではない。今で言うなら「工場萌え」である。

銀色に装置かがやき工場は城なせり惨苦茅屋ヤンマーヘーレンの彼方

                   前田透

川上は長く夕光をとどめつつ迷彩剥げし工場群見ゆ

                  宮地伸一

 しかしながら近代短歌に散見されるこのような歌は、産業の振興とともに出現した工場群やコンビナートという新しい風景を詠んだ都市詠である。工場の中で働いているという職場詠・職業詠ではない。そこがちがう点だろう。

 本歌集には男ばかりの職場でいわゆるリケジョとして働く違和感を詠んだ歌も散見される。

実験室の壁にこぶしの跡があり悔しい時にそっと重ねる

労災の死者の性別記されず兵士の死亡のニュースのごとく

プレハブの女子更衣室に女子トイレ暗い個室に便座はピンク

実験の組成の相談ひとさじの試薬を砂金のごとくにすくう

職場では旧姓使用 家族とは違う名字のゼッケン付ける

 作者はどうやら実験室で研究開発を行う部署で働いているようだ。うまく行かない時は壁を拳で叩く人もいるのだろう。労災の死者はまるで戦死者のようだというところに労働環境のシビアさがうかがえる。

 本歌集に収録された歌は上に引いたような職場詠が多いのだが、もうひとつの幹を成すのは家族詠である。作者は働きながら二人の子供を産み育てているのだ。

保育園のにおいする子を風呂に入れ家のにおいにさせて眠らす

子の影をはじめて作る無影灯長男次男は手術で生まれ

太陽を抱えるように二歳児は水風船を両手で運ぶ

スリッパが私の分だけ傷みゆく主婦とは主に家にいるもの

父親のみ「不存在」という項もあり保育園申請理由記入書

 子供を育てた人ならばわかるが、保育園のにおいというのは確かにある。無影灯は手術室で用いられる照明。影のない胎内から生まれた我が子の初めての影を作ったのが無影灯だというところには、ハッとさせられる発見がある。保育園の申込書には、理屈の上では「母不在」もありうるのだが、実際にあるのは父不在の項目だけだという。育児の負担が母親に局在している証左だろう。

 理科系の人ならではの歌もある。

近づけばよりひかれあう寂しさはファンデルワールス力の正体

はなかなる水平線を切り取って実験台に置くメニスカス

 ファンデルワールス力とは分子間に働く引力のこと。メニスカスは試験管などに液体を入れたとき、壁面に当たる部分が表面張力によって盛り上がる現象をいう。このように理科系の専門用語から発想を飛ばして抒情を発生させる手法はとてもよい。ちなみに上の二首は、2017年の短歌研究新人賞の候補作になった「臨時記号」の中にあり、目にした記憶があった。

工場の道路に花びら降り積もりフォークリフトの轍がのびる

嘘という臨時記号よ二歳児の言葉のしらべに黒鍵混じる

フライパンにバター落として溶けるまでふと長くなる十月の朝

投げられた花びらはすぐ掃除され花だけを吸う掃除機がある

ひそやかに温湿度計ふるわせて私の吐く息課長の吐く息

噴水に子どもが次々入りゆく夏に捧げる供物のように

 職場と日々の仕事をリアルに歌に詠むときに問題となるのは、いかにして抒情詩としてのポエジーを立ち上げるかである。労働のシビアさは読む人の共感を得ることはあっても、それだけでポエジーは発生しない。何らかの言葉の技法が必要である。上に引いた一首目では、フォークリフトといういかにも無骨な運搬器具と桜の花びらの「取り合わせ」がポエジーを生む。二首目では幼子の嘘をピアノの黒鍵に喩える「喩」である。三首目のポイントは「ふと長くなる」にある。物理的時間が長くなることはないので、これはその折りの作者の心理を表している。四首目は何の情景だろうか、「花だけを吸う掃除機」に意外性がある。ゴミパックを捨てるために取り出すと、中には花びらがぎっしり詰まっているのだろうか。五首目では部屋にいる人の吐く息に湿度計が反応するという微細な点がポイントである。六首目は子供を夏の神に捧げる供物に喩えた「喩」だ。

 こうして見ると奥村は明らかに「人生派」の歌人で「コトバ派」ではない。言葉の統辞法を日常のそれとは違ったものにしたり、本来は共存しない言葉をぶつけて発する火花をポエジーに昇華したり、言葉の意味を脱臼することで非日常の空間にダイブするということがない。そのような手法を少し試してみると、表現の幅が拡がるように思う。