永遠と聞きまちがえてあの夏を泳ぎつづける遠泳の子よ
「えんえい」を「えいえん」と聞きまちがえる、ありそうなことだ。単語の中で音が入れ替わる言いまちがいを言語学では「音位転倒」(metathesis) という。子育てをした人ならば覚えがあるだろう。子供はある時期「きつねさん」を「つきねさん」と言ったり、「たかしまや(高島屋)」を「たかしやま」と言うことがある。日本語は音節言語なので、常に〈子音+母音〉の音節単位で入れ替わる。英語ではそうではなく、well oiled bicycle「よく油をさした自転車」が well boiled icicle「よく茹でたつらら」のように、音素単位で入れ替わる。オックスフォード大学の教授だった Spoonerがよくこの言いまちがいをしたことから、spoonerismと呼ばれることもある。
作者が一時勤務していた高校は海の近くにあり、夏の遠泳は恒例行事だったという。その実体験からの発想だが、永遠の夏を泳ぎ続ける少年という想像に詩がある。「あの夏」とはいつの夏なのだろうという謎もあり、想像がさらに膨らむ。いろいろなことを想像させるのはよい歌である。
作者の貝澤は1992年生まれの歌人で、「かりん」に所属し、現在編集委員を務めている。『ダニー・ボーイ』は昨年(2024年)刊行された第一歌集。松村正直、井上法子、坂井修一が栞文を寄せている。
本歌集には、大学入学時から現在までの9年間に詠んだ歌が収録されているので、高校生活、受験、大学入学、卒業、就職という人生航路の激変期が含まれている。その中で一貫しているのは、作者の言語への興味である。それは大学に入学して学ぶ外国語にロシア語を選択したというところから始まっている。
文学部一年ロシア語クラスには十九人集まり「猛者」と呼ばれる
ウクライナ生まれロシア語教授からウクライナ風のロシア語学ぶ
教科書をひらけばモスクワの匂い 君をサーシャと呼ぶ日々がある
キャンパスの片隅にただ格変化唱えて眠るだけだった夏
窓に春の雪散りたればチェロキー語〈重大な危機〉ウビフ語〈消滅〉
私も大学でフランス語を教えていたが、新入生がどの言語を選ぶかは国際情勢に影響を受ける。1990年に東西ドイツが再統一された時には、ドイツ語を選ぶ学生がどっと増えた。ロシアのウクライナ侵攻でロシア語を選択する学生はきっと減っただろう。作者が入学したのはそれよりずっと前だが、ロシア語を選択する学生は当時から少なかった。それはロシア語の学習がとても難しいからである。そもそもキリル文字から覚えなくてはならない。だから「猛者」と呼ばれているのだ。
ロシア語とウクライナ語やポーランド語はスラブ語族に属し、互いによく似ている。またウクライナ東部にはロシア系住民が住んでいて、地政学的に複雑な様相を呈している。だからウクライナ生まれのロシア語教師がいても不思議はない。ロシア語を学ぶ人を悩ませるのは、四首目にあるように複雑な語形変化だ。五首目のチェロキー語はネイティヴ・アメリカンのチェロキー族の言語で、ウビフ語はコーカサス地方の言語。1992年に最後の話者が死亡して絶滅したとされている。ユネスコは絶滅危機言語レッド・ブックをまとめて警告を発しているが、近い将来多くの言語が絶滅すると考えられている。言語の死は一つの世界観の死である。作者はそのことに思いを馳せているのだ。
作者はロシア文学研究には進まず、最終的にはアイルランド文学を学ぶ。研究テーマを選ぶのが卒論ではいちばん難しい。きちんとテーマ設定が出来れば、もう半分書けたも同然だ。だが学生たちはその一歩手前で悩むのが常である。
「ヒーニーで卒論を書く」師に告げし夏の日、僕は詩人になった
石段に腰掛けて読むヴァージニア・ウルフの黒き髪揺らす風
大学院を出て何になる キャンパスの夏の密度に責め立てられて
樹木医という職業もあることを木の根に深く腰かけながら
秋になればと君は笑ってやりすごす謝辞から書き始める卒論を
シェイマス・ヒーニー (1939〜2013) は北アイルランド出身の詩人。1995年にノーベル賞を受賞している。アイルランドは多くの文学者を生み出した土地だ。三首目にあるように、学生はある時期になると卒業して就職するか、それとも大学院に進学して研究者になるか大いに悩む。悩んだ末に四首目にあるように樹木医になるとか、田舎で農業をするなどという思いがふと頭をよぎることもある。卒論は謝辞から書き始めてはいけない。卒論を書くときまず作るのは参考文献表で、そこに並べた文献を読みながら全体の設計図(アウトライン)を作る。設計図にしたがって本体を書いたら結論を書き、最後に序論を書く。謝辞はそのまた後である。
作者は大学を卒業後、高校の英語教師になる。若い生徒たちとの触れ合いから生まれた歌は、新人の感性が生み出したものであり、その時にしかない輝きがある。
ほら貝を持たぬ新人教師われチョークに袖を汚していたり
ナイフなど持ち込み禁止の校舎にもどこかに潜むべし蝿の王
男子四十人このB組に不時着す誰が最初のラルフになるか
プラナリアのいのちの重み問われればゆらぎはじめるひとつのいのち
留学生駆け抜ける二区ああそれを孤独と呼ぶかアラン・シリトー
二首目の「蝿の王」はゴールディングの小説『蝿の王』(Lord of the flies)から。「蝿の王」とは誰の心にも潜む悪を表している。少年たちが無人島に漂着する物語で、三首目のラルフは聡明なリーダーの名。しかしやがて少年たちに芽生える悪の心のために殺されそうになる。五首目のアラン・シリトーはイギリスの小説家。『長距離ランナーの孤独』で知られる。ジョン・オズボーンらと同じく「怒れる若者」世代の小説家である。五首目は高校生が出場する駅伝の光景だろう。
このような歌に貝澤の想像力の質が見てとれる。それは「文学を参照しつつ現実を理解する」という態度である。それは貝澤が読んできたヒーニーを初めとする文学作品によって培われた想像力である。ただしそれは現実から遊離したブキッシュな机上の空論ということではない。自らが触れる現実を理解するために文学を参照枠とするということだ。人の進むべき道は古来より物語の形をとって示されることが多い。それは人の心が物語に感応しやすいからである。現実に向き合うのに文学を参照するという態度は本歌集に一貫して認められ、貝澤の歌のバックボーンとなっている。
また本歌集を通読して気づくのは、世界各地での紛争や戦争に触れた歌の多さである。
緑風にテロのニュースは消えてゆきシャツに夏日の汗染みはじむ
ゲリラとはもっとも容易く〈せんそう〉を指すなりビニール傘突き破る
世界の果てに手負いの空があることの〈さくら通り〉の花冷えの雨
キーウの空を翔けたる航空機の数多イーゴリ・シコルスキーの夢に
傘をひらけば雨に打たれずに済むことを雨なきガザのはるかに濡れる
銃声とまちがうほどの雨を聴くミネストローネに口よごしつつ
一首目はスリランカを訪れていたときに起きたテロに触れた歌。四首目はロシアによるウクライナ侵攻を踏まえた歌である。シコルスキーはキーウ出身の航空機開発者で、アメリカに移って起こしたヘリコプターの会社が世界的に名高い。五首目は今でも続くイスラエルとガザを拠点とするハマスの戦争である。貝澤がこれほどまでに世界各地の戦争に触れた歌を詠むのは、学生時代にウクライナ出身の先生にロシア語を学んだことや、アイルランド文学を学んだことと深く関係しているだろう。北アイルランドも紛争の地だった時代がある。TVの報道だけを見て海外の戦争を詠うのはよくないという意見もあるが、必ずしもそうとも言えない。三首目のように世界にはいつも手負いの空があることを意識し、六首目のように戦争の影にたいして自分ははたしてイノセントかと問う良心を詠む意味はあるだろう。
地球儀の海の部分が色あせて地理教室に海のしずけさ
パーカーの肩にしずかに降る雪をしずかに殺してしまう手のひら
落ちてくるさくらの花を打ちかえす野球部のあほの袖のかがやき
暗闇にも言葉は生れてなめらかにルイ・ブライユの指先の詩よ
やがて死ぬホッカイロ手につつむとき星の寿命がそのなかにある
ニュータウンの同じかたちの屋根を打つ直線するどく冬の驟雨は
駿馬そう驟雨に似たる響きあり世界は残像なのだ いつでも
心に残った歌を引いた。こう書き写していると、歌人には好みの言葉があることに気づく。貝澤は「しずけさ」「しずかに」や、「驟雨」が好きなようで、複数の歌に使われている。四首目のルイ・ブライユは点字を考案したフランス人。小学校の教科書に載っているそうで、ある程度の年齢の人はみんな知っているだろう。光のない闇の中で点字で詩を書く詩人という姿はいたく想像力を刺激する。五首目の「ホッカイロ」は使い捨てカイロの商品名。使い捨てカイロは24時間程度で冷たくなり、星の寿命はそれよりずっと長く何十億年単位だが、どちらにもやがて訪れる終わりがあるというのは同じだ。最後の歌の意味はとりにくいが、おそらく事件が報道される時にはすでに事件は起きており、私たちは常に事後にしか世界を認識できないということだろう。
最後に歌集題名の「ダニー・ボーイ」について。これはアイルランド民謡で、恋人に別れを告げる歌だが、子供を戦地に送り出す親の歌とも解釈できるという。貝澤の歌に通底するこの世界はいつもきな臭いという思いからつけたものと思われる。
青春の逡巡、新米教師の日々、そして教室にも潜む悪意や権力構造などを詠んだ歌には貝澤が真摯に現実に向き合う姿があり好感が持てる。ややもすれば〈私〉が希薄になりがちな今の短歌シーンにあって、この歌集には〈私〉がたっぷり含まれている。
短歌もまた抒情詩のひとつである。作者は青春時代に望んだように詩人になったと言えるだろう。それは幸福なことである。