123:2005年9月 第4週 影山一男
または、都市生活者の静かな抒情

星のなき空めざすごと玻璃濡れて
   無人エレベーター夜を昇りゆく

        影山一男『空には鳥語』
 「星のなき空」は都市の夜の空だからこの歌は都市詠である。「玻璃濡れて」だからガラス窓を濡らす雨が降っているのだ。都市だから人がたくさんいるはずなのに,エレベーターは無人で上昇する。そこに都市の持つ空白感と寂寥感とが滲み出ている。映画評論家の加藤幹郎は私の大学の同僚だが,加藤によれば「フィルム・ノワール」,あるいはもう少し広くとってハード・ボイルド映画の特徴は,「夜と雨」だという。映画の冒頭から夜のシーンで雨が降っていたらそれはほぼまちがいなく「フィルム・ノワール」である。「フィルム・ノワール」は「都市」を舞台とした表現であり,20世紀になって人口が稠密になり産業が集積した都市が生み出したものだ。ウォルター・ヒル監督の快作『ストリート・オブ・ファイヤー』(1984年公開)では,撮影のほとんどをシートで遮光して暗くした夜のセットで行なったという逸話があるくらい,都市の表現と夜とは切り離すことができない。世界屈指の密集都市となった東京の住民は星のない夜を浮遊するのだが,その足元の頼りなさと同時に,星はなくとも空へと上昇したいという密かな願望を無人エレベーターが表現している。

 影山一男は1952年(昭和27年)生まれ。高校生であった影山に短歌の手引きをしたのは,社会科教師の奥村晃作だったらしい。大松達知も確か奥村の手引きを受けたはずだ。短歌との出会いは人との出会いだと改めて知る。宮柊二の知遇を得て「コスモス」入会。89年から96年まで「歌壇」編集長を務め,後に柊書房を起こしている。こう書いてきて柊書房の「柊」の字は,師の宮柊二から取ったものだと初めて気が付いた。歌集に『天の葉脈』(1987),『空には鳥語』(1996),『空夜』(2001)がある。今回は『空には鳥語』を読んだ。

 影山の短歌を一口で表現すれば,「都市に住む生活者としての生を静かに見つめる歌」だと言える。「都市」と「生活」は重要なキーワードであり,現代人の多くが都市住民の給与生活者となりおおせた現代にあっては,サイレント・マジョリティーの心情を代表するものだろう。

 都心部の夜の暗澹に螢光し交信を待つ電話ボックス

 赤と黄の電車並べる地下駅の時の窪みに漂ふわれは

 櫛比(しつぴ)せるビル群の上の一つ星あをく照らせり神話なき世を

 しづかなる激湍(たき)のごとしとわがいのち想ふときあり都市に生きつつ

 鴉一羽鳴きてあそべるくさはらに樹の影ふかくわが影あはし

 川越えて東京の夜ぞら青白しわれよりはやく世紀老いゆく

 はつなつの旅の家族の眠る辺にグレゴール・ザムザのごとくわがゐる

 一首目,やはり都市の夜である。夜の暗さを背景として明るく照明されている電話ボックスは,都市の孤独の象徴である。二首目は詞書きに赤坂見附とあるから,地下鉄丸の内線と日比谷線だろうか。地下駅で乗り換えるわずかな時間はまるで時間の窪みのようであり,生の充溢した時間からはほど遠い時間のボロのようなものだ。ここにも都市生活者の浮遊感が色濃く現われている。三首目,高層ビル群の上に輝く星は天狼星か。星はかつてのように地上を神話的に照らすのではなく,ただ青く光るだけである。四首目,都市に生きるみずからの生を滝に喩えているが,わざわざ「激湍」の字を当てている。「湍」は水流の早いことを表わすので,「激湍」は激しく早い流れを意味する。単に静かな滝ではなくその底に激しいものを秘めていると言いたいのである。五首目のポイントは「わが影あはし」で,濃い影を落とす樹木の傍らで淡い影しか持たない〈私〉の希薄さが詠われている。六首目は個人としての時間の流れと世の中の変化を対比した歌で,自分の老化よりも時代の疲弊が深まっていると見ているわけだ。七首目は家族のなかでの自分をカフカの『変身』の主人公ザムザになぞらえている。昆虫に変身したザムザのように,家族のなかでの異質感を感じているということだろう。

 このように自分を見つめる視線が周囲に向けられると,次のような歌になる。

 流れには乗りきれず渋谷中央街脚長蜂の群に揉まるる

 浦安駅駅前喫茶「黒猫」(シヤ・ノワール)女子高生等,主婦等棲息

 ノンポリとシラケ世代と呼ばれきて今朝の鏡に濃き髭を剃る

 死語となる言葉のひとつバリケード燠火のごとく胸に明るむ

 くわんぜおんぼさつつぶやくごと聴こゆウォークマンより洩れくるこゑは

 居酒屋に男靴女靴(をぐつめぐつ)の乱れては多く女靴が男靴の上に

 渋谷センター街に溢れる足の長い若者にはついてゆけず,一服しようと駅前喫茶に入るとそこは女子高校生と主婦の溜まり場である。中年のオジサンにはかくも居場所がない。1952年生まれの影山の世代は東大安田講堂攻防戦があった1969年には17歳で,大学に入学したときにはすでに学生運動は下火になっていた。ここより下の世代には政治的無関心が広がり,ノンポリ世代・シラケ世代と呼ばれたこともある。また現代において死語となったのは「バリケード」ひとつではない。このように中年の男の歌には「苦さ」が漂うが,この「苦さ」が「志」と表裏一体の関係にあることは言うまでもない。思えば明治以来の近代短歌は,少なくとも男性陣においてはこの「志」と「苦さ」の綾なすものとして展開してきた。このことを了解するには石川啄木の短歌を思い出してみればよい。短歌に限らず明治以来の近代文学は,「地方出身者が東京に出て志を得んとするも挫折する物語」という側面を強く持ってきたのである。文学の底に降り積もる「ウラミ」の根源はここにある。村上春樹の文学が若者に支持されたのは,村上文学がこの「ウラミ」と無縁な所に成立していたことも大きな理由のひとつだろう。この文脈で考えれば,村上の文学は近代文学と切れていて,影山の短歌の世界は明治以来の正統的な近代文学の系譜に連なるものなのだ。

 おもしろいのは五首目の歌である。電車で隣合わせた若者のウォークマンから低く音が洩れているのだが,それを「くわんぜおんぼさつつぶやくごと聴こゆ」と表現している。ひとつには若者が目を瞑って一心に聴き入る様が,まるでありがたい神託に耳を傾けているようにも見えるからであり,また洩れて来る歌の歌詞が聴き取れず,意味不明のお経のように聞こえるためでもある。この歌を次の歌と比較してみよう。

 ヘッドホンに耳掩ひたる若者がパスの片隅にひとり笑いす  高嶋健一

 ヘッドホンの裡なる界をさまよえる少女の瞳かすかに淫ら  澤辺元一

 高嶋の歌には若者に対する強いいらだちがある。一方,澤辺の歌にはコクーニングする少女の内界への想像による浸透が生むエロティシズムがある。しかし影山の歌にはそのどちらもなく,「ありがたや」と思わず隣の若者に向かって合掌していまいそうなユーモアがある。

 また六首目はよく引用される歌で,居酒屋のあがり口に履き物が散乱しているのだが,なべて女の靴が男の靴の上にあるという風景を詠んでいる。しかしこの歌にもフェミニズムを揶揄するような意図は毛頭なく,ただ日常のユーモアとして詠まれている。ややもすれば影が薄くなりそうな都市生活者の中年男性にとって,このようなユーモアは手強い現実に対処する手段として有効なのだ。そのことは吉岡生夫の歌を見るともっとはっきりしていて,このことは別に書いた。

 さて,影山は宮柊二に師事したことからも知れるように,写実を基本としつつ生活者の抒情を綴るという近代短歌の継承者である。その作風は手堅く破綻がない。しかし破綻がないというところに不満を感じる向きもなくはなかろう。若い歌人たちが技法の面でもテーマの面でも,短歌表現の意図的な拡大を図って様々な実験を試みている現代にあって,影山の近代短歌がいささか古びて見えるのは事実である。しかし影山はそんなことは百も承知だろう。

 『空には鳥語』で私がもっとも心を惹かれたのは次の歌である。                     

 鹹水(かんすい)のごときこの世に漂へば鳴くかなかなよ真水のこゑよ

 「彼の世より呼び立つるにやこの世にて引き留むるにや熊蝉の声」という吉野秀雄の絶唱が頭に浮かぶが,こちらは熊蝉ではなくもっと静かなカナカナである。都市生活者として日々の塵埃にまみれる私たちにとって,短歌は「真水のこゑ」と影山は言いたいのかもしれない。