第125回 松本典子『ひといろに染まれ』

この愛に根づけと絡め取られさうで跳ねる 金の鈴跳ねる 空へと
                松本典子『ひといろに染まれ』
  『ひといろに染まれ』は、2003年に上梓された第一歌集『いびつな果実』から7年を経て刊行された松本典子の第二歌集である。刊行からすでに時間が経っているが、取り上げる機会を逸していたので今回触れてみたい。
 第二歌集の重みは歌人なら誰でも知るところだ。「歌人にとってほんとうに大事なのは第二歌集だ」という意味のことを小池光がどこかで述べていた。また第二歌集は歌人のスタンスが最もよくわかる。第一歌集における歌人の立ち位置をAとし、第二歌集での立ち位置をBとする。AからBへの変化を見ることで、翻ってAがさらによく理解できるようになる。つまりAからB へと移動することによって、「ああ、あの人がもといたAとはこういう位置だったんだ」とわかるようになるのだ。静止状態は把握しにくいが、変化は目につきやすいからである。
 では松本は第一歌集から第二歌集までの間にどのように変化したか。掲出歌と歌集題名がひとつのヒントになる。『いびつな果実』には相聞歌が多く、師の馬場あき子をして、これほど人を思う歌ばかりの歌集も珍しいと言わしめたほどである。それは「ひとつの恋との出会いが、私と、私の歌とに、はげしい変化をもたらすことになった」(「濃き情念」『現代短歌最前線新響十人』)からである。ゆえに山下雅人は、「(作者は)本質的に世界を恋愛感情を通して認識する歌人であろう」と評した(同書)。
 ところが掲出歌は愛に絡め取られることを嫌い、空へと跳ね飛ぶことを希求した歌である。韻律は五・七・六・八・七と破調で、特に下句に破調感が強い。これは意図したもので、四句として「跳ねる金の鈴」と八音をなすべきところを「跳ねる 金の鈴」と割って一字空けを入れ、結句にも同じ処理を施して、鈴が跳ねる躍動感を演出しているのである。束縛からの解放を希求する歌を、類像的 (iconic)に表現している。
 また歌集題名は次の歌による。
ひといろに染まれと迫る街をいま振り切って風に飛ばすルイガノ
 歌集題名が『ひといろに染まれ』と命令形なので、そのように命令しているのかと思いきや、暗黙の圧迫のごとく身に迫る圧力を振り切り軽やかに脱出する歌なのである。ちなみにルイガノとはカナダの自転車メーカーの Louis Garneau。正しくはルイ・ガルノーと読む。ここでのルイガノはスタイリッシュなスポーツ・バイクのこと。掲出歌・歌集題名ともに、歌の基調主題が「束縛からの解放」であることは自明だろう。これこそが松本におけるA地点からB地点への変化に他ならない。もっともそれは一度の決断によって得られたものではなく、日々の逡巡のなかからようやく掴み取ったものだろう。次のような歌がそれを示している。
「ほんとうの希ひはなにか」響動とよみたる冬の汽笛にきびすを返す
拠るべなき潔さまだ持てぬわが寒風に〈ビッグ・イシュー〉をひぬ
 本歌集を一読して改めて感じるのは、松本の歌は「身熱を感じさせる歌」だということだ。これは低体温の歌が多い現代短歌シーンにおいては奇貨とすべきことである。松本が所属する「かりん」は、近代短歌と現代短歌の接続に意を払う結社であることも関係していよう。また松本が伝統芸能に関係する仕事に就いており、自らも能楽をたしなむことも看過できない。伝統芸能においては身体性が重要な役割を果たすからである。
 本歌集において松本は、歌の主題に広がりを与えることに腐心している。その結果として、第一歌集に較べて相聞は減り、それに代わって家族や職場や社会事象を主題とする歌が増えている。
 家族は老い始めた母親と子供を産んだ妹だが、すでに亡い父親も記憶の中の人として登場する。
編み棒をあやつる指のやはらかさ老母から消えひときはの寒
軍装の父にわが指とどまれば冬の陽がアルバムを熱くす
鷹羽根のやうな硬さでしろき老い棲みはじめたり母の睫毛に
なかでも妹の出産は大きな事件だったらしく、関係する歌が多く収録されている。
身籠もれるいもうとと知るわが胸の託卵したるごときをぐらさ
わが持たぬ赤ん坊にてゆふだちの熱きに熟るる牡丹の重さ
ひとの児を抱きてわが児となすこころ姑獲鳥つめたき夢にきて啼く
子から眼をはなさず左右さうに振れてゐる母性パラボラアンテナに見ゆ
ねむられず夜に触るななめドラム式洗濯機そのまあるいおなか
 妹の出産を喜び赤子を愛でる歌や、母性の発揮に感嘆する歌と並んで、自らは産まぬことを選んだ屈折した感情が「託卵」「姑獲鳥うぶめ」やドラム式洗濯機の丸みなどによって表現されている。
 次は社会事象に眼を向けた歌で、最初の二首は秋葉原通り魔事件、次の二首はイラク派兵を主題としている。
通り魔のニュースもやがて風化して路上にわれは眼鏡を洗ふ
にんげんの沸点の低さ風刺してバナメイ海老のまつ赤なスウプ
飛んでみろ、爆ぜろと栗を火に投ぐる大いなる手よ 派兵決まりぬ
くりを焼きさんま焼き秋を焼きつくすわれが知らざる焼け野のにほひ
 このような歌に果たして松本らしさが出ているかは微妙なところだが、作者としては表現の地平を拡大しようとする試みだろう。
 私がおもしろいと感じたのは、もっと何気ないことを詠んだ歌である。
建築士なるいもうとが産みし児をはからむと取りいだす矩尺かねじゃく
ときところ選べず生きて〈老祥記〉の熱きマントウ食みゐたる昼
截ちわりし摘果のすいくわまばゆくて無辜の月ともいふべき白さ
オフィス街行き交ふひとら秒針のいづれも違ふ文字盤に見ゆ
わづかのま拠るパーキング・エリアにも〈前向き〉なること求められゐつ
ひとも車もミニチュアなれば「愛せる」とおもふ東京タワーの上で
海の賊いのちを懸けて追ふゆめの在り処かたれと打つ牡蠣の殻
やがて減る家族と知らぬ幸福感IKEAへのシャトルバスに満ちゐつ
 一首目、赤子の身長を計測するのに建築に用いる矩尺を取り出すという、目的と手段のずれが何ともおもしろい。二首目の老祥記は神戸南京町の肉まんの名店(ただし関西では豚まんと呼ぶ)。人間は生まれる時と場所を選べないという実存主義的感慨と、湯気の立つ豚まんの熱さという日常性の取り合わせがポイント。三首目、間引きされた西瓜を詠んだ歌で、ポイントはもちろん「無辜の月」にある。西瓜に人生があるかどうかは知らないが、まだ小さな実のうちに間引きされたので人生に汚れておらず無辜なのだ。その裏側には年齢を重ねた自分はもはや無辜ではないという想いがあろう。四首目は、腕時計の時針と分針はみな同じ時刻を指していても、秒針だけはまちまちだという小さな発見の歌。確かに秒針まで合わせる人は少ないだろう。短歌はこのような小さな発見の表現に向いている。五首目は駐車場の壁面に「前向きで駐車してください」とある張り紙を詠んだもの。もちろん「前向き」は自動車の向きを表すのだが、何事につけ積極的にチャレンジすることが求められる現代の風潮を風刺している。六首目は誰しも一度は感じたことのある感情。上から展望した街は人も建物も車も小さくて愛おしく見える。その理由は、遠く離れた上からは小さな罪や瑕疵は見えないからであり、また少しだけ神様の視点に立つからだろう。七首目は少しトーンが異なるカッコイイ系の歌。「海の賊」とは村上水軍か。牡蠣打ちは牡蠣の殻から身を取り出すことで冬の季語である。琵琶で語る平家物語に通じるか。八首目、現在の幸福感のかなたに未来の喪失感を見る歌で、重層的な視点が歌に奥行きを与えている。
 最後に一首。虚空に投げられた帽子が一瞬にして月へと化身する瞬間が美しい。
ジャグラーが辞儀ふかくして投げあげる白帽昼の月となりたり

第15回 松本典子『いびつな果実』

われをめがけ降る雪のあれ たれのたれの脚注でもなき道をゆくとき
                   松本典子『いびつな果実』
 近代短歌の歩みを歴史的に概観するとき、作風や意匠の違いは流派個人によりまちまちであっても、共通してその底を流れている希求は個の解放だろう。短歌ではアララギ系より明星系にそれが強く見られるといった濃淡の差はあれ、小説も含めた近代日本文学の一大テーマが個の解放だったのだから、それも驚くには当たらないと言えるかもしれない。明治期に西欧から移入された近代小説よりも古い伝統を引きずった短歌の世界でも、子規の改革によって短歌が個を詠うものとなって以来、歌は個の器として多く機能してきたのである。
 このような歴史的背景を踏まえて掲出歌を読むとき、この現代短歌が近代短歌の王道を深く踏まえていることが感じられるだろう。「真砂なす数なき星の其の中に吾に向ひて光る星あり」という、青年の矜恃に溢れた子規の歌を思い出させる。「われをめがけ降る雪のあれ」という力強い断定は、命令形の乏しくなった現代短歌では珍しいほどの直情を感じさせる。「たれの脚注でもなき道」という喩にさらに「たれの」をかぶせた三句は、定型の要である三句五音をあえて六音に増音することで淀みを作り、沈み込むような深い断定を生み出している。これにより孤独を怖れずに自分一人の生を生きたいという願いが、力強い措辞によって表現されていると言えよう。
 松本典子は1970年生まれ。1997年頃から作歌を始めて「かりん」に入会。2000年に「いびつな果実」50首で角川短歌賞を受賞している。同年受賞は佐々木六戈。松本は作歌を始めてから3年で受賞したことになる。『いびつな果実』は2003年に刊行された第一歌集で、受賞作を含む350首を収録している。序文は師である馬場あき子。歌集題名は「乳ふさのあはひを風が吹きくだるわれは君よりいびつな果実」から採られており、男性にはない乳房を持つ女性の体のことだとわかる。
 一読して気付くのは相聞の多さである。「一巻のほとんどが人思う歌で埋まっている歌集は近年珍しい」と馬場も書くほどである。いくつか引いてみよう。
君以外だれも容れずにびんと鳴る弓弦のごときわれの右側
つねにつねに瞠(みきらき)しまま口づける男なり 時雨やや強まりぬ
朝なさな覚めやらぬままに啜るカフェ君の唯一のわれであれかし
われはわれの海図をひろげ航(わた)りゆくごとく凛々しく君は恋ひたき
蜻蛉(せいれい)の捕らへどころも覚えそめ歩く速度をゆるめゆく恋
君の名を口にする時われはまた小さく息を整へてゐつ
 一首目、恋人以外の人を自分の右側に歩かせないという堅い決意が、びんと張った弓弦(ゆづる)という喩によって表されている。持ち出されたアイテムの伝統性も相俟って、古風さを感じさせる恋人の姿である。二首目では四句の句割れ「男なり時雨」が一字空けによって分断されていて、動から静へ、外界から内面への移行が効果的に表現されている。四首目は掲出歌と同じく直情の強度を感じさせる歌で、海図の喩によって一首に大きな広がりが出ている。五首目の意味は、子供がトンボを捕らえるときに、体のどの部分を指で掴めばよいかを覚えるように、恋人の間でも相手とテンポを合わせたり、相手を思うように動かしたりするコツを会得したということだろう。下句の「歩く速度をゆるめゆく恋」が恋の深まりをうまく表現していて、表現のポイントが高い。
 どれも相手にまっすぐに向き合う歌で、斜に構えたり被害者意識に溺れるようなことがまったくない。これが松本の美質であり、現代短歌シーンでは貴重な資質となりつつある。もはや絶滅危惧種と言ってもよい。それは人と人との関係において、まっすぐ向き合うことが難しくなっている現代社会の反映かもしれない。松本の歌がどこか古風な印象を与えるのは、近代短歌の伝統を重んじる「かりん」の会風と馬場あき子の薫陶によるものだけではなく、歌の随所に示されている「まっすぐさ」が、今ではまるで昭和の遺風のように懐かしくすら感じられることによる。
 80年代中期のライトヴァースの興隆から90年代前期のニューウェーヴ短歌の勃興にまたがる時期に起きたのは、修辞という短歌の形式面での変化・革新だけではなく、「世界の見え方」の地滑り的変容であった。この変容は、マクロなレベルでは「トータルな世界認識の不可能性」(世界の断片化)として、ミクロのレベルではディスコミュニケーション(人間の分断化)として発現した。この時代の空気を先取りするかのように、ひりひりする皮膚感覚で表現したのは早坂類だろう。
生きてゆく理由は問わない約束の少年少女が光る湘南
居てもいい場所ではなくて片すみのスケートボードをながく見ている
うつくしい朝のしたくを整えて整えて待つ深夜の一人
これらの歌を収録した『風の吹く日はベランダにいる』は93年の刊行である。その後に登場したポストニューウェーヴ世代の若い歌人たちの歌の基調には、それを主要なテーマとするか、それとも歌の低音部に低く響かせるかのちがいはあれ、ディスコミュニケーションの影が揺曳している。そんななかで松本の「まっすぐさ」はますます希少なものと見えてくるのである。
 これは大学で近代日本文学を学んだ後、国立能楽堂を経て国立劇場調査資料部に勤務し、みずからも能楽に親しんでいるという松本の経歴にも関係があるかもしれない。本歌集にも伝統芸能に関係する歌が収められている。
金泥の眼もて泣きゐる面に対(む)きわが剥落の箇所を押さへつつ
ゆづられぬ恋と思はむ時にこそわが取り出だす〈陵王〉の面
君が舞ふ邯鄲のゆめ万象のひとつにして万象を統べたり
 最初の二首は古典芸能のアイテムを借りて感情を表現したもの。一首目の「面」は能舞の面で、面と対峙することで自らの心の剥落を意識している。二首目の「陵王」は、古代中国のある国の王が優しい面立ちであったことから、敵と戦うときに恐ろしげな形相の面を付けて大勝したという故事にちなむ舞で用いられる面をさしている。だから作者が恋敵と戦う時に取り出す面は鬼のような形相の面なのである。三首目の邯鄲も中国の故事にちなむ能舞の曲目で、眼の前で舞われている舞はひとつの現象にすぎないが、舞台の上では世界の中心となるという一瞬の奇蹟を詠っている。古典芸能に材を得た歌は、ややもすれば門外漢には近寄りがたいものになりがちだが、その弊に陥ることなくうまく消化されている。
 松本の「まっすぐさ」は日常の感情の揺れ動きを詠んだ歌にも現れている。
みづからを荷ひ過ぎぬやう三十歳(さんじふ)の夏はじめての日傘を選ぶ
手ばかりは母に似たると湯上がりの肌(はだへ)にシッカロール置きゆく
液状のかなしみ掬ひやうもなく屈めばわれの犬寄り来たる
やはらかく子をなさぬこと問われゐて牡蠣鍋の湯気あはあはと立つ
父の茶碗われの茶碗は仕舞はれてあり独りゐの母のくりやに
 働く日常と家族との関係が細やかに詠われており、これも近代短歌の王道だと改めて感じさせる歌群である。〈私〉の内面や感情という「近景」と、世界の命運という「遠景」の中間に位置し、伸ばせば手の届く距離にある「中景」を構成するのは家族・友人・職場・通勤電車からの風景などであり、近代短歌はこれらの主題を詠うことで成立した。ポストニューウェーヴ世代の若い歌人たちの歌からこの「中景」が欠落していることは、しばしば指摘されることである。松本の歌には「中景」がしっかりと軸としてあり、それを中核として「近景」とわずかな「遠景」が配されているところに安定感が感じられるのだろう。
何よりも疾く色づかな秋風に新しきリップスティックを購ひぬ
片方のパンプスを脱ぎ足裏(あなうら)をあそばせている夜の地下鉄
ほどかるる帯に呼吸を吹きかえし身は捩れつつひらく朝顔
表紙絵の二尾の鮎と見てあればふいに波立つ車窓のひかり
 一首目に歌われた女性ならではの心の華やぎ、二首目の倦怠感の漂う夜の風景などに見られる身体感覚もまた松本の歌を清新なものにしている。三首目は着物の柄のことだろうか、それとも自分の身体の喩か、判然としないながらも魅力的な世界である。四首目は本か雑誌の表紙の絵が引き金となって起きる一瞬の感覚の覚醒を詠って美しい歌となっている。
 『いびつな果実』に収録された歌を辿ると、作者の個を生きる覚悟とまっすぐな眼差しが紙背から伝わって来る。このような歌に出会えることもまた、短歌を読む深い喜びのひとつである。短歌表現の先鋭性に焦点を当てる立場から見れば、松本の歌はひょっとしたら周回遅れに見えるかもしれない。しかしみずからの個としての生を生きることに較べれば、表現の先鋭性など何ほどのものかと思える日もあることも、また事実なのである。