第219回 松村正直『風のおとうと』

この先は小さな舟に乗りかえてわたしひとりでゆく秋の川
 松村正直『風のおとうと』

 掲出歌は句切れのない歌である。このように句切れのない歌を三枝昻之は「流れの文体」と呼ぶ(『現代定型論 気象の帯、夢の地核』)。吉田弥寿夫によれば、句切れのない文体はモノローグ的であり、集団から疎外された単独者のものであるという(『雁』4号)。そこまで言うかという気もしないでもないが、確かにこの歌はモノローグ的であり内省的である。
 もし秋の行楽で遊覧船に乗っているとしたら、小さな舟に乗り換えて船頭も乗せずに一人で川を行くというのはちょっと考えられない。するとにわかにこの歌は幻想性もしくは隠喩性を帯びて立ち上がり、近代短歌の人生派はそこに人生の喩を読み取ることになる。そこまで行かずとも少しくメルヘン的な歌の情景と、下句に句跨がりがある歌のリズムを楽しんでもよかろう。
 『風のおとうと』(2017年)は、『駅へ』(2001年)、『やさしい鮫』(2006年)、『午前3時を過ぎて』(2014年)に続く著者の第四歌集である。短歌総合誌・短歌新聞などの媒体と、自らが編集長を務める結社誌『塔』に発表した歌、歌会に出詠した歌が編年体で収められている。
 本コラムで『午前3時を過ぎて』を取り上げたとき、松村の短歌の特徴として「感情の起伏がある揺れ幅を決して超えないこと」と、「日常のなにげない経験をただ表面的に描くのではなく、その内奥へと柔らかに入り込む心の動き」を挙げた。本歌集においてもその特徴は変わらないのだが、今回は少し違う角度から松村の短歌を見てみたい。
 そのひとつは「日常の中に潜む不穏」である。本歌集には妻の病気と義父の死という作者にとって大きな出来事を詠んだ歌群があるのだが、それを除けば詠まれているのは日常の些細なことである。しかしその中に不穏な気配を漂わせる歌があり、少しばかり目を引く。たとえば次のような歌がそうだ。

隣室に妻は刃物を取り出してざくりざくりと下着を切るも
砲弾のごとく両手に運ばれてならべられたり春のたけのこ
鎌を持つおとこと道ですれ違うおそらくは草を刈るためのかま
片道の燃料だけを積み込んでこの使い捨ての黒ボールペン
竹藪より出で来しひとの右の手に握られており長き刃物は

 一首目、古くなった下着を適当な大きさに切って靴磨きなどに使うのは、どこの家庭でもしていることだろう。しかし隣の部屋から妻が古着を切っている音が響くと、にわかに不穏な気配が感じられる。大ぶりの裁ちばさみだから、聞こえる音は濁音である。二首目、京都は筍の名産地なので、季節になると大きな筍が店先に丸ごと売られている。その形状を「砲弾のごとく」と形容するのはどこかにきなくさい戦争の気配を感じているためだろう。三首目はおそらく農作業をしている人とすれ違っただけなのだろうが、二度繰り返される「鎌」が不吉である。四首目はインクが切れたら捨てられる運命にあるボールペンを詠んだ歌だが、そこに重ねられるのは片道切符で出撃した人間魚雷の特攻である。魚雷とボールペンの形状の類似が発想を導いたものか。五首目もまた刃物の歌で、「長き刃物」が禍々しい。このような歌が生み出される背景には、やはり作者が生きている(そして私たちも生きている)現代の日本社会が影を落としているのだろう。
 もうひとつ取り上げたいのは、ほとんど「ただごと歌」に近いような次の歌である。

ひととせの後に編まれし遺歌集に死ののちのうた一首もあらず
中心でありし場所からひときれの切られしピザを食べ始めたり
道の駅の棚にならびて親のない春のこけしはみな前を向く
上流の橋を見ながら渡りゆくみずからのわたる橋は見えねば

 一首目、歌人が亡くなって一年後に遺歌集が編まれた。もう死んでいるのだから、死後の歌が一首もないのは当たり前である。しかし改めてそう指摘されると、ハッとするものがある。歌人が死ぬということは、もう歌が作れなくなるということなのだと得心する。ちなみに師が亡くなって私が感じたのは、学者の死とは膨大な蔵書がもう何の役にも立たなくなるということだ。二首目、丸いピザは誰でも車軸状に切れ目を入れて食べる。食べ始める場所はいちばん尖ったところだが、それは丸い状態のときは円の中心だった場所だ。しかし切り分けるとそれはもう中心ではない。「中心」という特性は「円」という形状との関係性のみに基づくものだとわかる。三首目、生き物ではないこけしに親がないのは当たり前である。また商品として並べられているこけしが前、すなわち客の方向を向いているのもまた当然だ。奥村晃作の「次々に走り過ぎ行く自動車の運転する人みな前を向く」を彷彿とさせるただごと歌である。四首目、自分が渡っている橋は見えないので、上流にかかる別の橋を見ながら渡る。これまた当然と言えば当然のことを歌にしている。
 ユーモアと言うほどのものがあるわけではないのだが、このような歌が放つ脱力感というか肩すかし感というか、そのようなものは決して悪いものではない。むしろ当たり前のことが詠まれているだけに、定型の持つ力が一層強く感じられるという功績もあるかと思う。
 もう少し注目した歌を見てみよう。

烏瓜の揺れしずかなり死ののちに語られることはみな物語
あぜ道の日当たりの良い場所に立つ木の電柱に木の色ほのか
ゆうぐれにドアにドアノブあることのこんなにもなつかしくて 触れたり
人形をあきなう店が地下にあると知りてよりここに階段がある
橋の上に降り出す雨は傘を持つ人と持たざる人とを分かつ
缶詰の中に知らない町がありカラフトマスの中骨がある
コースからしずかに逸れてゆく馬を見ており秋の競馬場にて
かき氷とけて器にくれないのみずをわずかに残せり日暮れ

 一首目は高島野十郎の絵を彷彿とさせる歌だ。壁から垂れ下がった蔓に真っ赤に熟れた烏瓜の実が静かに揺れている。その情景が下句で箴言のように述べられる言葉に諦念を滲ませる。二首目、都会ではもう木の電柱は珍しい。田畑のある農村の情景である。結句の「木の色ほのか」に対象に分け入る目が感じられる。三首目は山崎方代を思わせる歌で、下句が大破調のように見えて実は18音である。四首目は認識の転倒の歌。階段はずっと前からそこにあったのだが、地下の店を知って後に私の認識にその存在が書き込まれる。認識は存在に先行するのである。五首目は動きのある歌。突然の雨に傘を持っている人はおもむろに傘を開いて歩みを変えることはない。一方、傘を持たない人は雨宿りができる場所を求めて駆け出す。「橋の上」が効いている。物陰がないからである。六首目、カラフトマスだから北海道の近海かオホーツク海の遠洋で捕獲され、漁港の工場で缶詰にされたのだろう。そこに知らない町の物語を見ているのだが、この歌では「中骨」が効いている。七首目はいかにも松村らしい歌。場所はのどかな地方の競馬場だろう。他の馬のようにゴールを目指して一直線に走ることができず、コースを逸れる馬に共感を感じているのである。八首目はとりわけ美しい歌だ。かき氷が溶けて器に水が残っているというだけの情景を詠んでどうしてこんなに美しい歌になるのか。あとがきに松村は、「本当の歌の良さというものは、説明したり分析したりできるものではないことを、あらためて強く感じる」と書いているが、そのとおりである。そもそも美とは沈黙を強いるものだからだ。
 一巻を読んで季節は秋が多く時刻は夕暮れが多いことにあらためて気づく。著者不惑の充実を実感させる歌集である。


 

第154回 松村正直『午前3時を過ぎて』

生きている者らに汗は流れつつ静かな石の前に集うも
           松村正直『午前3時を過ぎて』
 「生きている者」とわざわざ言うことにより、その背後に「死んだ者」の存在が浮かび上がる。ここに言葉の不思議があると私は深く思う。生きているから真夏の炎天下に集う人々に汗が流れる。死者は汗をかかない。「静かな石」も不思議な表現で、石は声を出したり音をたてないので本来静かである。それをわざわざ「静かな石」と置くことにより、普通の石よりもさらに静けさをまとう特別な石であることがわかる。もちろんこれは墓石を指す。この一首に込められているのは死への思いである。私はこの歌集から死への思いを強く感じ取った。
 『午前3時を過ぎて』(2014年)は、『駅へ』(2001年)、『やさしい鮫』(2006年) に続く松村の第三歌集で、第一回佐藤佐太郎短歌賞を受賞することが決まったそうである。評論集『短歌は記憶する』で第9回日本歌人クラブ評論賞も受賞している。大所帯の結社『塔』の編集長を務め、短歌実作・評論の両方で活躍しており、油の乗った年齢に差しかかっていると言えるだろう。
 短歌は文体である。その点から言えば、松村は第一歌集『駅へ』、第二歌集『やさしい鮫』から今回の第三歌集『午前3時を過ぎて』へと到る過程で大きく変化した。
温かな缶コーヒーも飲み終えてしまえば一度きりの関係 『駅へ』
波音に眠れないのだ街灯が照らす私も私の影も
ああ君の手はこんなに小さくてしゃけが二つとおかかが三つ

地上なるわれとわが子のさびしさを点景としてカラス飛びゆく
                   『やさしい鮫』
明るすぎる蛍光灯に照らされてわが肉体は影を持たざり
踊り場の窓にしばらく感情を乾かしてよりくだりはじめつ
 一所不住のフリーター生活をして日本全国を旅していた『駅へ』の時代には、口語が中心で短歌的修辞も希薄だったが、第二歌集では文語が基本となり、叙景と叙情とが一首の中に案分して配され、清潔で端正な短歌的文体へと変化している。第三歌集もその延長上にあるのだが、松村の個性がよりはっきりとして来たように感じられる。その第一は、感情の起伏がある揺れ幅を決して超えないこと、その第二は、日常のなにげない経験をただ表面的に描くのではなく、その内奥へと柔らかに入り込む心の動きである。
右端より一人おいてと記されし一人のことをしばし思うも
最後尾と書かれし札を持つ人を目指して行けば後退りゆく
ありふれた老女となりて演壇を降りたるのちは小さかりけり
抜きながらさらに外から抜かれたる自転車あわれ順位を変えず
ひっそりと長く湯浴みをしていたり同窓会より戻りて妻は
 いずれの歌においても詠まれているのは日常の些事であり、大事件はまったく登場しない。淡々と詠まれていて、身を捩るような悲しみも、火を噴くような怒りもない。何も感じていないわけではないのだが、感情の振れ幅がある一定の限度を超えないのである。またこれらの歌では特別な修辞や比喩が用いられているわけではなく、平易な単語と統辞を使いながらも歌のポイントがはっきりしている。
 一首目は集合写真に写っている人の説明に、右端より一人おいて3番目の人というくだりを読んで、一人飛ばされた人に思いを馳せている。飛ばされた人にも人生があり、得意な瞬間もあったのだろう。二首目では、何の行列か、最後尾に付こうと歩を進めるも、次々と人が並ぶため最後尾の札にたどり着けない。人生の比喩のようにも読める歌だが、作者の意図はおそらくそこにはないのだろう。三首目では、演壇で講演していた人が演壇を降りると、どこにでもいる小柄な老女になっていた。思わず「あるある」と言いたくなるが、心理学では威光暗示という。TVでよく見る有名人に実際に会ってみると思ったより背が低いと感じるあれである。四首目、競輪の情景か、前の選手を抜いて順位を上げたと思ったら、他の選手に抜かれてしまう。作者はそこに何かを感じているのだが、そこから転じて自分の感慨を述べることなく終わっている。五首目、長く風呂に浸かっている妻は、おそらく久し振りに同窓会に出席し、身に浴びた何かを洗い流しているのだろう。いずれの歌にも余計な説明がなく、作者の心情の吐露もない。一見淡々と経験を詠んでいるのだが、そのどこが作者の心の琴線に触れたかがよくわかる作りになっている。
 80年代は「修辞ルネサンス」(加藤治郎)と言われるくらい、いわゆるニューウエーヴ短歌を中心に修辞に工夫が凝らされた。修辞は言語の表現面であり、言語記号の表現面(シニフィアン)に注目が集まったのである。しかし時は流れ、現在の若手歌人は「一周まわった修辞のリアリティ」(穂村弘)へと雪崩を打ったように移行し、修辞は希薄になった。すでに述べたように松村の短歌にも特別な修辞や比喩は見られないので、現代の若手歌人の潮流の一角をなすように見えるかもしれないが、その見方は少しちがう。現代の若手歌人のフラットな文体は、いわば「宴の後」のフラットさだが、松村は宴を経験せず独自に今の文体に到達しているからである。同じような修辞の武装解除に見えても、歌の手触りがちがう。より正確に言うと、松村に修辞がないわけではないのだが、修辞の跡が見えないのだ。
古畳積みあげられて捨てられるまで数日を庭先にあり
橋の上にすれ違うときなにゆえに美しきか人のかたちは
空ビンの底に明るき陽はさして大型船の沈みいる見ゆ
明るくて降る天気雨 人生の曲がり角にはたばこ屋がある
店員にやさしく服を脱がされて少年となる春のマネキン
 一首目は小池光の歌集にあってもおかしくない歌だが、廃棄を待つ古畳が庭先に積まれているというだけの情景を詠っている。句跨りと「数日を」の助詞が効いている。二首目、橋は松村にとってキーワードとなるアイテムのようだが、確かに浮世絵版画などでも橋を行く人を描いたものが多い。絵になるのだろう。三首目は荒井由美の往年の歌を思い出させる。窓辺に置かれたボトルシップを詠んだものとも、空きビンを見ての想像ととってもよい。四首目はいささか雰囲気の異なる歌で、「人生の曲がり角にはたばこ屋がある」が箴言のように響く。五首目、服を脱がされて初めて少年になるという発見と、季節を春にしたのが効果的だ。
墓地に咲く花は何ゆえにこんなにもきれいでしょうか人もおらぬに
生前に続く時間を死後と呼ぶ咲ききわまりて動けぬ桜
てのひらに包むりんごの皮を剥く遠からず来る眠りのために
店の壁にかかる手形の朱の色を付けし右手はこの世にあらず
ベランダに鳴く秋の虫 夫婦とは互いに互いの喪主であること
薄日さす葉桜の道 死ののちに生前という時間はあって
ゆびさきに石の凹みは触れながらやがて読めなくなる文字たちよ
 死への思いを詠んだ歌を引いてみた。二首目と六首目は歌集のなかではずいぶん離れているが、こう並べてみると対をなす。「生前」という言葉は、誰かが死んで初めて使われる言葉である。「死後」も同様だ。ここに引いた歌のように直接に死を詠んでいない他の歌にも、静かな死への思いが流れているように私は感じた。
抱かれて五条の橋を渡りくる赤子と遭えり日の暮れるころ
「この道は八幡社には行きません」遠くラジオの演歌ながれて
入ってはいけない森へ入りゆくわれを探して呼ぶ兄のこえ
ゆるやかに左へ逸れてゆく道はどこへ行く道か地図にはあらず
 第一歌集『駅へ』に収録された「あなたとは遠くの場所を指す言葉ゆうぐれ赤い鳥居を渡る」「自転車が魚のように流れると町は不思議なゆうやみでした」という歌が私は特に好きで、すぐに覚えてしまったのだが、松村の歌にはときどきこのように不思議な異界を感じさせるものがあって、それがとてもよいと思っている。『午前3時を過ぎて』にも上に引いたような歌があり、ここにも橋と鳥居のある神社が登場している。一首目は京都の五条大橋の情景で、何の変哲もない日常的情景ながら、五条の魔力のせいかどこか怪しい雰囲気が漂う。
 本歌集が第一回佐藤佐太郎短歌賞を受賞することになったのは当然だろう。作者壮年の充実した歌集である。

第73回 松村正直『短歌は記憶する』

 大学の中庭に面した研究室から眺めていると、強い風にあおられるように桜の花びらが木を離れて空高く舞い上がり、光りながらひらひらと落ちていく。眺めていて飽きることのない光景だが、それ見る気持ちの中には震災の犠牲者を悼む想いがいくぶんかある。今年の桜がいちだんと美しく感じられるのはそのせいかもしれない。
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 『早稲田短歌』40号の巻頭に新会長就任インタビューが掲載されている。長らく会長を務めた佐佐木幸綱が、2008年の定年を機に会長職を辞することになった。早稲田短歌会は予算を伴う正式なサークルなので、どうしても会長が必要らしい。まず内藤明に頼もうということになったが、内藤がすでにちんどん研究会 (何の研究会だろう) の会長なので兼務できないことがわかり、数年前に早稲田大学の文化構想学部に教員として着任していた堀江敏幸に白羽の矢が立ったという。堀江といえば「熊の敷石」で芥川賞を受賞した作家であり、面識はないが私と同じ仏文業界の人間である。これには驚いた。早稲田短歌会は新人会員がひきも切らず入会していると聞く。新会長を戴いてのますますの発展を祈りたい。
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 さて、今回取り上げるのは歌集ではなく、松村正直の評論集『短歌は記憶する』(六花書林 2010年)である。松村はすでに歌集『駅へ』(2001年)と『やさしい鮫』(2006年)を上梓しており、大所帯の結社「塔」の結社誌の編集長を務めている。本書は松村の最初の評論集で、同人誌「D・arts」や「路上」「塔」などに掲載された文章が収録されている。油の乗りきった働き盛りを感じさせる活動ぶりである。
 歌人のなかには短歌を作ることに専念し、歌論を書かない人もいる。しかし明治の近代短歌成立以来、歌論と短歌実作が車の両輪のごとく併存してきたことは周知の事実である。現代短歌を牽引してきた三枝昂之、永田和宏、小池光といった歌人たちの仕事においても、歌論は重要な位置を占めている。その理由はおそらく、近代においては (まして現代においては) 何人も無自覚的に歌人であることができないからだろう。現代の歌人は「今なぜ短歌を作るのか」「短歌とは自分にとって何か」という問題を抱え込んでしまっている。だからその問いに答えようとすると、必然的に歌論を書かねばならないのだ。
 松村の歌論へのスタンスは、『短歌は記憶する』という本書のタイトルがよく示している。短歌にはその歌が作られた時代が刻み込まれており、その意味で時代の記憶装置である、とする短歌観である。だからこの評論集には、第三章にいささかの歌人論が収録されてはいるものの、一人の歌人の作品世界に深く分け入って、その美学と作風を詳細に論じるというスタイルの歌論はない。本書の中核を成すのは、第一章「時代と短歌」と第二章「戦争の記憶をめぐって」である。
 第一章「時代と短歌」には、「サブカルチャーと時代精神」「ゴルフの歌の百年」「短歌に見る家屋の変遷」「仁丹のある風景」の4つの文章が収められている。松村がこのようなテーマに立ち向かうときのスタンスは、「短歌は時代を記憶する。人々の記憶をなまなましく封じ込めている。だから、短歌を読むことによって、時代の持つ雰囲気がまざまざと甦ってくるのだ」というあとがきの言葉に象徴されている。では、このようなスタンスから繰り出される手法はどのようなものか。それは、その時代についての文献を可能な限り渉猟し、忘却された些細な事実を丹念に拾い出すという手法である。これは考古学者か文献学者の方法に他ならない。
   たとえば「サブカルチャーと時代精神」でその例を見よう。松村は、「ああ夕陽 明日あしたのジョーの明日さえすでにはるけき昨日とならば」という藤原龍一郎の有名な歌を取り上げ、TVアニメ化された原作の劇画のタイトルは「あしたのジョー」と「あした」が平仮名表記なのに、藤原の歌では「明日」と漢字表記になっている齟齬に着目する。しかもこの歌が後にアンソロジーや現代短歌文庫の藤原龍一郎集に収録されたときには、表記が原作どおりの「あした」に直されている。これは単なる誤記の訂正だろうかという疑問を梃子に、松村は探偵よろしく推理の隘路に入り込むのである。そして短歌の製作年代を手がかりに、藤原の歌の源流には「明日のジョー昨日の情事蓮の花咲いてさよなら言いしひとはも」という福島泰樹の歌があり、さらに、1970年によど号をハイジャックした赤軍派の「我々は”明日のジョー”である」という宣言にたどり着くのである。
 また「短歌に見る家屋の変遷」では、「鏡なすガラス張窓影透きて上野の森に雪つもる見ゆ」など、子規の歌にガラス窓を詠んだ歌が多いことに注目する。そしてこのガラス窓は、1899年(明治32年)に弟子の高浜虚子らによって据え付けられたものであること、国産ガラスは明治36年に初めて製造されたので、当時は輸入品しかなく高価なものであったことを探り出す。子規が喜んでガラス窓を詠んだ歌を多く残したのには、このような事情があったのである。ガラスはもとはビードロ、あるいはギヤマンと呼ばれており、ガラスという言葉自体も明治時代になって普及した新しい言葉だったという。短歌を時代の記憶装置と見る松村の短歌観がよく発揮された探索だ。
 なかでも私が楽しんだのは「仁丹のある風景」で、琺瑯看板でお馴染みの仁丹のヒゲ男の顔は、京都の町名表示板には必ず付いていたものだ。この文章で松村は、仁丹の野立て看板の減少から説き起こし、製造元の森下仁丹の歴史や広告戦略に触れ、昔の短歌にいかに仁丹の広告塔を詠んだものが多いかを明らかにしている。今では見られないが、昔は天を突くような巨大な仁丹の広告塔があったらしい。町歩きと建築探偵が趣味の私には、仁丹の広告がかつて日本の風景の一部を形作っていたことは、とりわけ興味深く感じられる。その名残りは京都の町名表示板に残る仁丹のヒゲ男として、今でも見ることができる。
 仁丹と戦争との関わりは、第二章「戦争の記憶をめぐって」への橋渡しの役割を果たしているだろう。第二章で松村は、短歌に詠まれた軍馬がたどった運命、靖国神社、終戦記念日、ヒロシマなど、戦争と短歌の関わりという難しい問題にも切り込んでゆく。街歩き好きの私には「サンシャインビルの光と影」がとりわけ興味深かった。池袋のサンシャインビルが先の大戦の戦犯が勾留・処刑された巣鴨プリズンの跡地に建設されたということは知っていたが、松村の調査はここでも周到で細かい。隣接した小公園がかつての刑場で、そこにひっそりと記念碑が建っていることは知らなかった。
 『塔』2011年3月号に谷村はるかが本書の書評を書いている。あるトピックをめぐる短歌を集めてそこから見えて来るものをあぶり出す松村の手法を、谷村は「輪切り手法」と呼び、その調査の周到さは認めているものの、おおむね批判的立場に終始している。谷村の論点は二つある。その一は、本書における松村の短歌の読みが外堀から埋めるような読み方で、短歌の内実に迫っていない浅い読みだという点。その二は、松村がしばしば「日本人」を短歌の読みの枠組みとしていることで、もっと根源的な「人間」を枠組みとすべきだという批判である。
 いずれも一見するともっともな批判で、谷村と同じ土俵で反論することは難しい。しかし松村の土俵は谷村と同じではない。批判その一について言うと、松村の本書における関心事は短歌の読み自体ではなく、短歌と時代との関わりである。そこから「輪切り手法」が生まれたのだから、谷村の批判は、「そんなことに関心を持つな」と松村に言うに等しい。その二についても似たことが言える。私たちはもちろん人間として生きているのだが、同時に日本人としても生きており、それ以外に、会社の社員だったり、町内会の役員だったり、はたまた誰かの愛人として生きていたりするのである。以下のもろもろを省略して、いちばん大きな枠組みだけで生きろと言うのは不当である。短歌がその他もろもろの細部を掬い上げるのに適した詩型であることは、多くの人が認めるところではないか。
 松村は結社誌「塔」でずっと「高安国世の手紙」を連載している。結社「塔」の創設者であった高安が残した手紙をたんねんに読み解く作業だが、そこでも松村の関心の中心は時代との関わりである。「塔」の2010年12月号の年間回顧座談会で、大辻隆弘はこの松村の連載に注目し、高安が戦争にノータッチだった理由の一つがドイツ文学専攻だったからだと書いたことに言及している。なるほどと納得させられる指摘で、もし敵国だったフランス文学専攻だったら弾圧され、ノータッチではいられなかっただろう。戦後になって桑原武夫が「第二芸術論」を著して俳句や短歌などの伝統詩型を攻撃したのは、桑原がフランス文学専攻だったことと無関係ではない。
 しばしば言われることだが、真実は細部に宿る。『短歌は記憶する』はそのことを改めて教えてくれる書物である。蛇足ながら造本の良さも印象に残る。 

010:2003年7月 第1週 松村正直
または、現代の一所不住の短歌は西へ東へ

あなたとは遠くの場所を指す言葉
      ゆうぐれ赤い鳥居を渡る

         松村正直『駅へ』
 「山のあなたの空遠く」で知られるように、日本語のア系統指示詞は遠称であり、遠くを指す言葉である。それはいいのだが、作者は「赤い鳥居を渡る」と言う。鳥居はふつう「くぐる」もので、「渡る」のは橋である。とするとこの歌では鳥居が、こちら側とあちら側を結びかつ隔てる橋と捉えられていることになる。ゆうぐれという逢魔が時に鳥居を渡るというのは、作者があちら側に行くということであり、そこに非日常的な不思議な空気が流れるのである。

 処女歌集『駅へ』(ながらみ書房,2001年)の「あとがき」によれば、作者は22歳のときに「いろいろな町に住んでみたい」と思い、東京を離れて北海道から九州までフリーターをしながら転々と移り住んだという。放浪歌人の種田山頭火は乞食坊主となって各地を流浪したが、現代版の一所不住はフリーターという生き方を選ぶのである。収録された歌のなかには、しがらみのない一人暮しの自由さと淋しさが詠われている。しかし、ここには山頭火のような壮絶さや悲愴感はなく、あくまで淡々としている。

 二年間暮らした町を出ていこう来た時と同じくらい他人か

 温かな缶コーヒーも飲み終えてしまえば一度きりの関係

 天井の広さすなわちこの部屋の広さ どこに何を置こうが

 波音に眠れないのだ街灯が照らす私も私の影も


この歌集のいちばんの特徴は、ほぼ制作順に歌が並べられている点である。だから歌集を繙く読者は、作者の作歌態度と短歌技法の深化と同時に、作者をとりまく人間関係の変化もまた感じ取る仕掛けになっている。初めのうちは孤独の影が深かった歌の世界にも、少しずつ「他者」の匂いがするようになる。

 君の手の形を残すおにぎりを頬張りたいと思う青空

 ああ君の手はこんなに小さくてしゃけが二つとおかかが三つ

 君がもうそこにはいないことだけを確かに告げて絵葉書が着く

やがて作者は「結婚しない・就職しない・定住しない」という誓いを破り、結婚することになる。ただし同居はしない結婚のようだ。まだ他者のいる世界に踏み込むことができないのである。

 君の住む町の夜明けへ十二時間かけてフェリーで運ばれて行く

 主食にはなりそうもない品々がままごとのように並ぶ食卓

 ぼくたちやがて一緒に暮らすだろうそれがいつかと君は聞くけど

歌集の最後に近くなって、作者がなぜ意図的に一所不住の人生を選択したかが明かされるのだが、推理小説のネタばらしのようになるので、ここには書かない。一見すると気楽なフリーターという生き方を選んだ現代のどこにでもいる青年のように見えるが、実は心に重いものを抱えていたのだということが最後にわかる。

 もういくつか気になった歌をあげておこう。

 自転車が魚のように流れると町は不思議なゆうやみでした

 ゆうぐれは行方不明の道ばたのくぼみに残る昼間の光

 大地深く降り沈む雪軽さとは軽い重さのことでしかなく

 夢かたり終えれば妙に寒々と梅酒の梅が露出している

歌集のなかには「ゆうぐれ」「ゆうやみ」の歌が目につく。孤独と寂寥を一日のうちで最も身に染みて感じる時間だからか。しかし、作者はそれもあくまでライトに淡々と詠うのである。平井弘、村木道彦らに始まり、俵万智の成功で燎原の火のごとく短歌界に拡がったライト・ヴァースは、放浪歌人の歌にもその影を落としているのである。