第73回 松村正直『短歌は記憶する』

 大学の中庭に面した研究室から眺めていると、強い風にあおられるように桜の花びらが木を離れて空高く舞い上がり、光りながらひらひらと落ちていく。眺めていて飽きることのない光景だが、それ見る気持ちの中には震災の犠牲者を悼む想いがいくぶんかある。今年の桜がいちだんと美しく感じられるのはそのせいかもしれない。
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 『早稲田短歌』40号の巻頭に新会長就任インタビューが掲載されている。長らく会長を務めた佐佐木幸綱が、2008年の定年を機に会長職を辞することになった。早稲田短歌会は予算を伴う正式なサークルなので、どうしても会長が必要らしい。まず内藤明に頼もうということになったが、内藤がすでにちんどん研究会 (何の研究会だろう) の会長なので兼務できないことがわかり、数年前に早稲田大学の文化構想学部に教員として着任していた堀江敏幸に白羽の矢が立ったという。堀江といえば「熊の敷石」で芥川賞を受賞した作家であり、面識はないが私と同じ仏文業界の人間である。これには驚いた。早稲田短歌会は新人会員がひきも切らず入会していると聞く。新会長を戴いてのますますの発展を祈りたい。
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 さて、今回取り上げるのは歌集ではなく、松村正直の評論集『短歌は記憶する』(六花書林 2010年)である。松村はすでに歌集『駅へ』(2001年)と『やさしい鮫』(2006年)を上梓しており、大所帯の結社「塔」の結社誌の編集長を務めている。本書は松村の最初の評論集で、同人誌「D・arts」や「路上」「塔」などに掲載された文章が収録されている。油の乗りきった働き盛りを感じさせる活動ぶりである。
 歌人のなかには短歌を作ることに専念し、歌論を書かない人もいる。しかし明治の近代短歌成立以来、歌論と短歌実作が車の両輪のごとく併存してきたことは周知の事実である。現代短歌を牽引してきた三枝昂之、永田和宏、小池光といった歌人たちの仕事においても、歌論は重要な位置を占めている。その理由はおそらく、近代においては (まして現代においては) 何人も無自覚的に歌人であることができないからだろう。現代の歌人は「今なぜ短歌を作るのか」「短歌とは自分にとって何か」という問題を抱え込んでしまっている。だからその問いに答えようとすると、必然的に歌論を書かねばならないのだ。
 松村の歌論へのスタンスは、『短歌は記憶する』という本書のタイトルがよく示している。短歌にはその歌が作られた時代が刻み込まれており、その意味で時代の記憶装置である、とする短歌観である。だからこの評論集には、第三章にいささかの歌人論が収録されてはいるものの、一人の歌人の作品世界に深く分け入って、その美学と作風を詳細に論じるというスタイルの歌論はない。本書の中核を成すのは、第一章「時代と短歌」と第二章「戦争の記憶をめぐって」である。
 第一章「時代と短歌」には、「サブカルチャーと時代精神」「ゴルフの歌の百年」「短歌に見る家屋の変遷」「仁丹のある風景」の4つの文章が収められている。松村がこのようなテーマに立ち向かうときのスタンスは、「短歌は時代を記憶する。人々の記憶をなまなましく封じ込めている。だから、短歌を読むことによって、時代の持つ雰囲気がまざまざと甦ってくるのだ」というあとがきの言葉に象徴されている。では、このようなスタンスから繰り出される手法はどのようなものか。それは、その時代についての文献を可能な限り渉猟し、忘却された些細な事実を丹念に拾い出すという手法である。これは考古学者か文献学者の方法に他ならない。
   たとえば「サブカルチャーと時代精神」でその例を見よう。松村は、「ああ夕陽 明日あしたのジョーの明日さえすでにはるけき昨日とならば」という藤原龍一郎の有名な歌を取り上げ、TVアニメ化された原作の劇画のタイトルは「あしたのジョー」と「あした」が平仮名表記なのに、藤原の歌では「明日」と漢字表記になっている齟齬に着目する。しかもこの歌が後にアンソロジーや現代短歌文庫の藤原龍一郎集に収録されたときには、表記が原作どおりの「あした」に直されている。これは単なる誤記の訂正だろうかという疑問を梃子に、松村は探偵よろしく推理の隘路に入り込むのである。そして短歌の製作年代を手がかりに、藤原の歌の源流には「明日のジョー昨日の情事蓮の花咲いてさよなら言いしひとはも」という福島泰樹の歌があり、さらに、1970年によど号をハイジャックした赤軍派の「我々は”明日のジョー”である」という宣言にたどり着くのである。
 また「短歌に見る家屋の変遷」では、「鏡なすガラス張窓影透きて上野の森に雪つもる見ゆ」など、子規の歌にガラス窓を詠んだ歌が多いことに注目する。そしてこのガラス窓は、1899年(明治32年)に弟子の高浜虚子らによって据え付けられたものであること、国産ガラスは明治36年に初めて製造されたので、当時は輸入品しかなく高価なものであったことを探り出す。子規が喜んでガラス窓を詠んだ歌を多く残したのには、このような事情があったのである。ガラスはもとはビードロ、あるいはギヤマンと呼ばれており、ガラスという言葉自体も明治時代になって普及した新しい言葉だったという。短歌を時代の記憶装置と見る松村の短歌観がよく発揮された探索だ。
 なかでも私が楽しんだのは「仁丹のある風景」で、琺瑯看板でお馴染みの仁丹のヒゲ男の顔は、京都の町名表示板には必ず付いていたものだ。この文章で松村は、仁丹の野立て看板の減少から説き起こし、製造元の森下仁丹の歴史や広告戦略に触れ、昔の短歌にいかに仁丹の広告塔を詠んだものが多いかを明らかにしている。今では見られないが、昔は天を突くような巨大な仁丹の広告塔があったらしい。町歩きと建築探偵が趣味の私には、仁丹の広告がかつて日本の風景の一部を形作っていたことは、とりわけ興味深く感じられる。その名残りは京都の町名表示板に残る仁丹のヒゲ男として、今でも見ることができる。
 仁丹と戦争との関わりは、第二章「戦争の記憶をめぐって」への橋渡しの役割を果たしているだろう。第二章で松村は、短歌に詠まれた軍馬がたどった運命、靖国神社、終戦記念日、ヒロシマなど、戦争と短歌の関わりという難しい問題にも切り込んでゆく。街歩き好きの私には「サンシャインビルの光と影」がとりわけ興味深かった。池袋のサンシャインビルが先の大戦の戦犯が勾留・処刑された巣鴨プリズンの跡地に建設されたということは知っていたが、松村の調査はここでも周到で細かい。隣接した小公園がかつての刑場で、そこにひっそりと記念碑が建っていることは知らなかった。
 『塔』2011年3月号に谷村はるかが本書の書評を書いている。あるトピックをめぐる短歌を集めてそこから見えて来るものをあぶり出す松村の手法を、谷村は「輪切り手法」と呼び、その調査の周到さは認めているものの、おおむね批判的立場に終始している。谷村の論点は二つある。その一は、本書における松村の短歌の読みが外堀から埋めるような読み方で、短歌の内実に迫っていない浅い読みだという点。その二は、松村がしばしば「日本人」を短歌の読みの枠組みとしていることで、もっと根源的な「人間」を枠組みとすべきだという批判である。
 いずれも一見するともっともな批判で、谷村と同じ土俵で反論することは難しい。しかし松村の土俵は谷村と同じではない。批判その一について言うと、松村の本書における関心事は短歌の読み自体ではなく、短歌と時代との関わりである。そこから「輪切り手法」が生まれたのだから、谷村の批判は、「そんなことに関心を持つな」と松村に言うに等しい。その二についても似たことが言える。私たちはもちろん人間として生きているのだが、同時に日本人としても生きており、それ以外に、会社の社員だったり、町内会の役員だったり、はたまた誰かの愛人として生きていたりするのである。以下のもろもろを省略して、いちばん大きな枠組みだけで生きろと言うのは不当である。短歌がその他もろもろの細部を掬い上げるのに適した詩型であることは、多くの人が認めるところではないか。
 松村は結社誌「塔」でずっと「高安国世の手紙」を連載している。結社「塔」の創設者であった高安が残した手紙をたんねんに読み解く作業だが、そこでも松村の関心の中心は時代との関わりである。「塔」の2010年12月号の年間回顧座談会で、大辻隆弘はこの松村の連載に注目し、高安が戦争にノータッチだった理由の一つがドイツ文学専攻だったからだと書いたことに言及している。なるほどと納得させられる指摘で、もし敵国だったフランス文学専攻だったら弾圧され、ノータッチではいられなかっただろう。戦後になって桑原武夫が「第二芸術論」を著して俳句や短歌などの伝統詩型を攻撃したのは、桑原がフランス文学専攻だったことと無関係ではない。
 しばしば言われることだが、真実は細部に宿る。『短歌は記憶する』はそのことを改めて教えてくれる書物である。蛇足ながら造本の良さも印象に残る。