第219回 松村正直『風のおとうと』

この先は小さな舟に乗りかえてわたしひとりでゆく秋の川
 松村正直『風のおとうと』

 掲出歌は句切れのない歌である。このように句切れのない歌を三枝昻之は「流れの文体」と呼ぶ(『現代定型論 気象の帯、夢の地核』)。吉田弥寿夫によれば、句切れのない文体はモノローグ的であり、集団から疎外された単独者のものであるという(『雁』4号)。そこまで言うかという気もしないでもないが、確かにこの歌はモノローグ的であり内省的である。
 もし秋の行楽で遊覧船に乗っているとしたら、小さな舟に乗り換えて船頭も乗せずに一人で川を行くというのはちょっと考えられない。するとにわかにこの歌は幻想性もしくは隠喩性を帯びて立ち上がり、近代短歌の人生派はそこに人生の喩を読み取ることになる。そこまで行かずとも少しくメルヘン的な歌の情景と、下句に句跨がりがある歌のリズムを楽しんでもよかろう。
 『風のおとうと』(2017年)は、『駅へ』(2001年)、『やさしい鮫』(2006年)、『午前3時を過ぎて』(2014年)に続く著者の第四歌集である。短歌総合誌・短歌新聞などの媒体と、自らが編集長を務める結社誌『塔』に発表した歌、歌会に出詠した歌が編年体で収められている。
 本コラムで『午前3時を過ぎて』を取り上げたとき、松村の短歌の特徴として「感情の起伏がある揺れ幅を決して超えないこと」と、「日常のなにげない経験をただ表面的に描くのではなく、その内奥へと柔らかに入り込む心の動き」を挙げた。本歌集においてもその特徴は変わらないのだが、今回は少し違う角度から松村の短歌を見てみたい。
 そのひとつは「日常の中に潜む不穏」である。本歌集には妻の病気と義父の死という作者にとって大きな出来事を詠んだ歌群があるのだが、それを除けば詠まれているのは日常の些細なことである。しかしその中に不穏な気配を漂わせる歌があり、少しばかり目を引く。たとえば次のような歌がそうだ。

隣室に妻は刃物を取り出してざくりざくりと下着を切るも
砲弾のごとく両手に運ばれてならべられたり春のたけのこ
鎌を持つおとこと道ですれ違うおそらくは草を刈るためのかま
片道の燃料だけを積み込んでこの使い捨ての黒ボールペン
竹藪より出で来しひとの右の手に握られており長き刃物は

 一首目、古くなった下着を適当な大きさに切って靴磨きなどに使うのは、どこの家庭でもしていることだろう。しかし隣の部屋から妻が古着を切っている音が響くと、にわかに不穏な気配が感じられる。大ぶりの裁ちばさみだから、聞こえる音は濁音である。二首目、京都は筍の名産地なので、季節になると大きな筍が店先に丸ごと売られている。その形状を「砲弾のごとく」と形容するのはどこかにきなくさい戦争の気配を感じているためだろう。三首目はおそらく農作業をしている人とすれ違っただけなのだろうが、二度繰り返される「鎌」が不吉である。四首目はインクが切れたら捨てられる運命にあるボールペンを詠んだ歌だが、そこに重ねられるのは片道切符で出撃した人間魚雷の特攻である。魚雷とボールペンの形状の類似が発想を導いたものか。五首目もまた刃物の歌で、「長き刃物」が禍々しい。このような歌が生み出される背景には、やはり作者が生きている(そして私たちも生きている)現代の日本社会が影を落としているのだろう。
 もうひとつ取り上げたいのは、ほとんど「ただごと歌」に近いような次の歌である。

ひととせの後に編まれし遺歌集に死ののちのうた一首もあらず
中心でありし場所からひときれの切られしピザを食べ始めたり
道の駅の棚にならびて親のない春のこけしはみな前を向く
上流の橋を見ながら渡りゆくみずからのわたる橋は見えねば

 一首目、歌人が亡くなって一年後に遺歌集が編まれた。もう死んでいるのだから、死後の歌が一首もないのは当たり前である。しかし改めてそう指摘されると、ハッとするものがある。歌人が死ぬということは、もう歌が作れなくなるということなのだと得心する。ちなみに師が亡くなって私が感じたのは、学者の死とは膨大な蔵書がもう何の役にも立たなくなるということだ。二首目、丸いピザは誰でも車軸状に切れ目を入れて食べる。食べ始める場所はいちばん尖ったところだが、それは丸い状態のときは円の中心だった場所だ。しかし切り分けるとそれはもう中心ではない。「中心」という特性は「円」という形状との関係性のみに基づくものだとわかる。三首目、生き物ではないこけしに親がないのは当たり前である。また商品として並べられているこけしが前、すなわち客の方向を向いているのもまた当然だ。奥村晃作の「次々に走り過ぎ行く自動車の運転する人みな前を向く」を彷彿とさせるただごと歌である。四首目、自分が渡っている橋は見えないので、上流にかかる別の橋を見ながら渡る。これまた当然と言えば当然のことを歌にしている。
 ユーモアと言うほどのものがあるわけではないのだが、このような歌が放つ脱力感というか肩すかし感というか、そのようなものは決して悪いものではない。むしろ当たり前のことが詠まれているだけに、定型の持つ力が一層強く感じられるという功績もあるかと思う。
 もう少し注目した歌を見てみよう。

烏瓜の揺れしずかなり死ののちに語られることはみな物語
あぜ道の日当たりの良い場所に立つ木の電柱に木の色ほのか
ゆうぐれにドアにドアノブあることのこんなにもなつかしくて 触れたり
人形をあきなう店が地下にあると知りてよりここに階段がある
橋の上に降り出す雨は傘を持つ人と持たざる人とを分かつ
缶詰の中に知らない町がありカラフトマスの中骨がある
コースからしずかに逸れてゆく馬を見ており秋の競馬場にて
かき氷とけて器にくれないのみずをわずかに残せり日暮れ

 一首目は高島野十郎の絵を彷彿とさせる歌だ。壁から垂れ下がった蔓に真っ赤に熟れた烏瓜の実が静かに揺れている。その情景が下句で箴言のように述べられる言葉に諦念を滲ませる。二首目、都会ではもう木の電柱は珍しい。田畑のある農村の情景である。結句の「木の色ほのか」に対象に分け入る目が感じられる。三首目は山崎方代を思わせる歌で、下句が大破調のように見えて実は18音である。四首目は認識の転倒の歌。階段はずっと前からそこにあったのだが、地下の店を知って後に私の認識にその存在が書き込まれる。認識は存在に先行するのである。五首目は動きのある歌。突然の雨に傘を持っている人はおもむろに傘を開いて歩みを変えることはない。一方、傘を持たない人は雨宿りができる場所を求めて駆け出す。「橋の上」が効いている。物陰がないからである。六首目、カラフトマスだから北海道の近海かオホーツク海の遠洋で捕獲され、漁港の工場で缶詰にされたのだろう。そこに知らない町の物語を見ているのだが、この歌では「中骨」が効いている。七首目はいかにも松村らしい歌。場所はのどかな地方の競馬場だろう。他の馬のようにゴールを目指して一直線に走ることができず、コースを逸れる馬に共感を感じているのである。八首目はとりわけ美しい歌だ。かき氷が溶けて器に水が残っているというだけの情景を詠んでどうしてこんなに美しい歌になるのか。あとがきに松村は、「本当の歌の良さというものは、説明したり分析したりできるものではないことを、あらためて強く感じる」と書いているが、そのとおりである。そもそも美とは沈黙を強いるものだからだ。
 一巻を読んで季節は秋が多く時刻は夕暮れが多いことにあらためて気づく。著者不惑の充実を実感させる歌集である。