第323回 松野志保『われらの狩りの掟』

ガラス器の無数の傷を輝かすわが亡きのちの二月のひかり

松野志保『われらの狩りの掟』 

 第一歌集『モイラの裔』(2002年)、第二歌集『Too Young To Die』(2007年)に続く著者の第三歌集である。第二歌集から実に14年の歳月が流れているので、久々の歌集ということになる。そっけない散文的なタイトルが多い昨今の流れに逆らうように、ロマンチシズムに溢れた題名である。「われら」とは誰なのか、何を「狩る」のか、想像が膨らむ。ヘミングウェイが前もって何通りもの小説の題名を用意していたのは有名な話だが、作品のタイトルは重要である。歌集のタイトル論を一度書きたいくらいだ。

 ある人がどんな場所に立っているかは、現在いる場所だけを観察していてはわからない。以前どこにいたのか、そして今後どこに向かおうとしているのかという変化を見ることで、今いる場所がわかる。人の本質は変化の中にこそ顕現するという側面があるからである。

 松野の短歌と言えばBLと打てば響くように答が返って来そうなくらいだが、本歌集を一読してBLの香りが薄れていることに驚いた。第一歌集では自分を「ぼく」と呼ぶ少女とやおいの世界との関係の緊張感が歌集を一貫して流れていて、第二歌集ではそれが「二人の少年」の紡ぐ物語へと変化していた。『われらの狩りの掟』ではそのどちらも影を潜めているのだ。もっとも歌誌『月光』の2021年12月号の特集で、松野はインタヴュアーの大和志保に、今回のBLの元ネタは「戦国BASARA」と「テニスの王子様」と「ゴールデンカムイ」だと明かしているので、私がその方面に鈍くて気づかないだけかもしれない。しかし松野は同時に「メイン食材ではなく隠し味程度に入っている」とも語っているので、やはりBLの香りは前作に比べれば少なくなっているのだろう。とはいえ次のような歌に依然としてそれを感じる人はいるかもしれない。

盲いても構わなかった蝶が羽化するまでを君と見届けたなら

プールのあと髪を乾くにまかせてはまだ誰のものでもないふたり

死もかくのごとき甘さと言いながら口うつされる白い偽薬プラセボ

 本歌集を読みながらあらためて私が感じたのは、「自分の世界」を持っている歌人とそうでない歌人がいるということだ。「自分の世界」と言うとすぐ頭に浮かぶのは、塚本邦雄、井辻朱美、紀野恵、松平修文、といった歌人たちである。初期の黒瀬珂瀾を加えてもいいかもしれない。その世界の立ち上げ方はそれぞれ異なる。塚本は古今東西の文学や映画についての博覧強記と日本の古典への造詣によって、他の追随を許さない美の世界を創り上げた。井辻はファンタジー文学を梃子としてどこにもない世界を描いているし、紀野も古典に立脚しながらフムフムランドという架空の国を作って君臨している。松平は絵画的な幻想に満ちたしかしどこか懐かしい世界を密やかに紡いだ。初期の黒瀬が立ち上げた世界はサブカルを梃子としている。大まかに言うと、このような歌人たちは近代短歌のメインストリームである「写実」と「リアリズム」に背を向けた人たちである。

 一方、近代短歌のメインストリームの上質な部分が実現しようとしているのは、写実を通しての現実の更新だろう。

円形の和紙に貼りつく赤きひれ掬われしのち金魚は濡れる

                  吉川宏志『青蝉』

石段の深きところは濡らさずに雨は過ぎたり夕山の雨

             吉川宏志『鳥の見しもの』

立ち読みをしているあいだ自転車にほそく積もりぬ二月の雪は        

 いささか古い例を持ち出して恐縮だが、こういう業の冴えで吉川の右に出る人はいない。「円形の和紙」は金魚すくいで使うポイだがそうとは言わず、「赤きひれ」というメトニミーで金魚を表す技巧もさることながら、この歌のポイントは、金魚が水中では濡れているように見えず、水から出て初めて濡れて見えるという発見である。同じことは石段の深い所までは濡らさず過ぎたということで驟雨の短さを表した二首目にも、雪が自転車のパイプの上部だけに細く積もっているという三首目にも言える。普段から見ている光景をこのように表現されると、いきなり焦点のピタリと合った眼鏡に掛け替えたように、目の前の現実が今までとは違ってみえる。これが「現実の更新」効果である。

 一方、「自分の世界を持っている人」がなぜ現実とは異なる世界を立ち上げるのかというと、その主な理由は端的に言って「浪漫を追い求める」ことにある。時に「浪漫」は「美」と置き換えてもよい。私たちが日常暮らしている日々にほぼ浪漫の影はない。唯一の例外は激しい恋である。浪漫を追究するためには、埃臭い現実を離脱して別の世界に行かなくてはならない。だから自分の世界を言葉によって立ち上げることになる。

 前置きが長くなったが、松野はもちろん自分の世界を持っている歌人である。松野は本歌集のあとがきに、「私にとっての短歌とはずっと、失われたもの、決して手に入らないものへの思いを注ぎ込む器だった」と書いている。決して手に入らないものの代表格は絶対的な愛への希求である。それに手が届かなければ届かないほど、遠くにあればあるほどそれは激しく美しく輝く。松野がやおいやBLに傾倒するのは、やおいやBLが描く世界が、女性である松野にとって決して手の届かないものだからに他ならない。

日蝕を見上げたかたちで石となる騎士と従者と路傍の犬と

武器を持つ者すべからく紺青に爪を塗れとのお触れが届く

革命を遂げてそののち内裏には右近のからたち左近の柘榴

荒天に釘ひとつ打つ帰らざる死者の上着をかけておくため

アストンマーティン大破しておりその窓にかこち顔なる月をうつして

 松野が描く世界の特徴は、どこの国かいつの時代かがまったくわからないという点にある。たとえば一首目では騎士と従者が登場するがもちろん現代にそんな者はいない。二首目は戒厳令か武装蜂起を彷彿とさせる歌だが、これもどこの国かわからない。三首目に到っては内裏と右近・左近が出てくるので日本のことかと思うと、配されているのは桜と橘ではなくからたちと柘榴である。歌の中に散りばめられているアイテムは現実に対応するのではなく、かといって単なる心象風景を描くためのピースでもなく、思う存分浪漫を注ぎ込める世界を押し上げるために使われているのだ。その意味ではこのメソッドはRPG的想像力と姉妹関係にあると言えるかもしれない。

巻き戻すビデオグラムに抱擁は下から上へと降る花の中

さきの世のついの景色かゆらめいて水の下より見る花筏

 しかしどこの国のどの時代かわからないアイテムを積み重ねても、単純に異世界が現出するわけではない。そこには一定の工夫が必要である。その工夫のひとつは視点の転換である。たとえば一首目では、ビデオの録画を巻き戻すと、降り散る桜の花びらが下から上に向かって降っているように見えると詠われている。それはいわば時間を巻き戻しているのと同じことである。二首目ではふつう上から眺める花筏を水中から仰ぎ見るという視点の転換が衝撃的だ。作中主体が潜水しているわけではなく、おそらくエヴァレット・ミレ描くオフィーリアのように土左衛門になって流されているのである。

ウェルニッケに火を放てそののちの焦土をわれらはるばると征く

わだつみの岸にこの身を在らしめて針のごとくに降り注ぐ雪

この掌のつぶての無力ほろほろとアイスクリームの上のアラザン

 一首目は歌集の帯に印刷されている歌である。ウェルニッケ野とは大脳左半球にあり言語理解を司る部位のこと。そこに火を放つとは、この世に溢れている無意味な言葉を焼き尽くせということだろう。そうして焦土と化した原野にこそ新しい詩の言葉は生まれるという覚悟の表明である。とは言うものの作者は自らの言葉の無力さも自覚している。三首目にあるように、自分が投げつける言葉の礫は非力で、氷菓の上に散らされたアラザンのようなものだと慨嘆するのである。

 本歌集を読んで「おやっ」と思ったのは、第2部冒頭の「放蕩娘の帰還」である。

絶えるともさして惜しくもない家の門前に熟れ過ぎた柘榴が

ピンヒールのブーツで萩と玉砂利を踏みしめ帰る また去るために

井戸水にひたせば銀を帯びる梨捨てたいほどの思い出もなく

秋茄子がほどよく漬かるころ祖母の遺言状に話は及び

午後の日に背を向けて座す伯母たちの足袋はつか汚れつつあり

 どうやら作中の〈私〉は、祖母が亡くなり遺産の分配を相談する親族会議のために、長年足を向けることのなかった故郷の生家に戻って来ているらしい。ここには異世界を立ち上げるアイテムはなく、松野の短歌にはかつてないほど現実に接近している。詠まれている内容はもちろん虚構だとしても、山梨県の甲府で少女時代を過ごし、大学に進学してここを出て行きたいと切望していた過去の自分がどこか投影されていることはまちがいない。

 『月光』2021年12月号の特集を読んで、松野の卒論が森茉莉だったと知ってなるほどと得心した。また短歌を始めたきっかけが雑誌『MOE』で林あまりが選歌を担当していた短歌投稿コーナーだとも語られていた。『MOE』からは東直子も世に出ているし、穂村弘のデビューにも林あまりが深く関わっていたのだから、今の短歌シーンにとって林の果たした役割は加藤治郎と並んで大きかったのだとあらためて思った次第である。

松野志保歌集『Too Young to Die』書評:砕け散った世界に生きる二人の少年の物語

  歌人が第一歌集の出版まで漕ぎつけるのはたいへんなことだと聞く。しかしもっと重要なのは第二歌集だとも言われる。第一歌集ではまだ萌芽的であった歌人の個性が、第二歌集で確立されるからである。二〇〇二年に『モイラの裔』でデビューした松野志保がこのたび世に問うた第二歌集『Too Young to Die』は、その意味で期待を裏切らない一冊となっている。
 ワカマツカオリの描く少年のイラストが飾る表紙と、ヴィヴィアン・ウエストウッドの店の名前から採ったという歌集題名が前景化する主題は「少年」である。少年性は一人称を「ぼく」で通した『モイラの裔』にすでに胚胎していたが、『Too Young to Die』でこの主題はさらに深化され、「二人の少年」というより明確な像を結ぶに至った。
いつか色褪せることなど信じないガーゼに染みてゆくふたりの血
この夜の少しだけ先をゆく君へ列車よぼくの血を運びゆけ
ぼくたちが神の似姿であるための化粧、刺青、ピアス、傷痕
脱ぎ捨てる乳白のシャツこの胸に消えない傷をつけてほしいと
 ほのかに血とエロスの匂いのする耽美的な少年の世界が、想像力を飛翔させ、歌想を汲み出す源泉となっているのは疑いない。この世界につらなる作品には確かにツインで登場する少年が多い。ヘッセ『デミアン』のジンクレールとデミアン、宮澤賢治『銀河鉄道の夜』のジョバンニとカンパネルラ、萩尾望都『ポーの一族』のエドガーとアラン、荒川弘『鋼の錬金術師』のエドとアルなど、枚挙に暇がない。なぜ少年は二人でやって来るのか。その理由にはアンビバレントな要素が内在していることに注意しよう。二人という最小対の関係は、ジンクレールとデミアンのように、時に導師と弟子の二項関係を形成し、十九世紀西欧に成立した成長物語ビルトゥングス・ロマンの基盤となる。二人の少年は対関係を梃子に成長しやがて大人になる。しかし、別の斜面においては、二人という対関係は外部世界を故意に遮断し、内部に閉じこもる繭化コクーニングの危険も孕んでいる。この場合、少年は成長するのではなく、逆に成長して大人になることを頑なに拒否する。松野の短歌に登場する二人の少年は、どうやら後者のようなのだ。
創を持つ果実の甘さ鳥籠の外の世界がこわれるときも
どこへ往くことも願わぬふたりには破船のようにやさしい中庭パティオ
繭に閉じこもる甘美さと行き場のなさがむせ返るように共存している。そして『Too Young to Die』が描いてみせる繭化した二人の少年を取り巻く世界は、黙示録的終末観が色濃く漂う世界なのである。
またひとつピアスの穴をやがて聞くミック・ジャガーの訃報のために
癒されたいわけじゃなかったこの傷のほかには何も持たないぼくら
ひび割れた鏡に映る世界その欠片ひとつひとつを雨が打つ
灰の降りやまぬ世界に生まれたから灰にまみれて抱き合うぼくら
炉心隔壁シュラウドがひび割れてゆく幾千の夜をひたすらその身に溺れ
 ではなぜ松野はこの主題に拘泥するのだろう。もちろんそこには個人的嗜好が働いている。同人誌『Es空の鏡』に寄稿した「元やおい少女の憂鬱」と題された文章のなかで、松野は自分の「やおい」的傾向を率直に告白している。「やおい」とは、「ヤマなし」「オチなし」「意味なし」の頭文字を繋げたもので、元来は少年同士の恋愛を主題とする少女マンガの一ジャンルであるBL (boy’s love) をさす。「やおい」の世界は、少女たちの想像力と物語を希求する秘やかな願望の回収装置として働いてきた。
 このような個人的嗜好レベルの事情を、短歌という創作の地平に引き上げて考えると、「やおい」的世界に深源を持つ「少年性」という主題は、歌の中にひとつの仮構的世界を構築し、日常世界から失われたロマンを育む土壌となっている。それゆえに、この土壌から滋養を吸収する松野の短歌は、近代短歌のセオリーであった写実からは遠く、身辺詠も職場詠も家族詠も見られない。家族も友人も登場せず、舞台はどこであってもよく、どこでもない場所である。
 松野の短歌が描くこのような世界設定が、電脳仮想空間で展開されるRPG(ロール・プレイング・ゲーム)に酷似しているという点に注意しよう。その点に私は一抹の危惧の念を覚えざるをえないのである。
 なぜ危惧の念を覚えるかというと、RPGの世界はつまるところ「セカイ系」だからである。「セカイ系」とは、平凡な日常(近景)と世界の命運に関わる大事件(遠景)とを直結する思考様式をさし、その特徴は、家族・地域・社会といった〈中景〉がすっ飛ばされるという点にある。家族・地域・社会などの中間項は、〈私〉にストレスフルな拘束を課す鬱陶しい装置だが、本来は〈私〉と〈世界〉とを媒介する役割を果たしている。「セカイ系」はこの中間項を大胆に省略する。「セカイ系」の思考様式が出現したのは、哲学者リオタールのいう世界を解釈する「大きな物語」が二十世紀終盤に消滅したためであることは確かだろう。短歌の世代論的には、一九七〇年代始めに生まれた団塊ジュニア世代からその傾向が強く見られる。十代後半の思春期にバブル経済の崩壊を目撃した世代で、七三年生まれの松野はこの世代に属している。
 短歌がこの世を生きる〈私〉の表現であるならば ― そうではないという考え方ももちろんありうるが ―、〈私〉はどこかでこの世と切り結ばねばならない。そして、ここでいう「この世」のなかには、家族・地域・社会などのストレスフルな中間項も含まれることは言うまでもないのである。
 この歌集には次のような歌がある。
探知機をするりと通過するぼくの頭の中に爆弾がある
朝ごとのメトロ 併走する黒い馬の群その呼吸聞きつつ
わが言葉、貧しき地上に片翼の天使を繋ぐ鎖であれと
 私は次のように解釈した。平凡な日常を送る近景の〈私〉の頭の中には、遠景の世界を変革する爆弾がある。それは通勤電車に併走する黒馬の群としても形象化される。松野は想像力のなかで、このように近景と遠景をしばしば平行世界として描いている。ここに端的に松野の世界観が現れていると見たい。
 しかし私はここで次のように考えてしまうのである。遠景を変革・爆破するべき黒馬の群は、永遠に通勤電車と平行に走っているだけでは十分ではない。荒い息を吐く黒馬の群はいつかは通勤電車の線路と交差しなくてはならない。交差したところに松野の新たな歌が生まれるのではないか。そのように思えるのである。
 右に引用した最後の歌は、松野が短歌に賭ける思いを宣言した歌だろう。その志やよしである。松野がこの歌集で明確に形象化した「二人の少年」が、今後どのような方向に向かうのか、注意深く見守りたいと思う。



2009年8月『文藝月光』創刊号

022:2003年10月 第3週 松野志保
または、無性の背を希求するやおいの魂

人は去りゆくともめぐる夏ごとに
    怒りを込めて咲くダリアなれ

          松野志保『モイラの裔』
 本書は作者の第一歌集で、福島泰樹の編集になる月光叢書の第4巻として洋々社から2002年に上梓された。ほやほやの歌集である。松野は1973年生まれだから、まだ30歳の若い女性である。東京大学文学部を卒業、放送局(NHKか)に勤務。大学在学中から福島泰樹が主宰する月光の会に所属というプロフィールを持つ。福島にとっては自分の結社の若い歌人のデビュー作であり、そのためか巻末に50枚にのぼる解説「ネオロマンチシズムの荒野へ」を寄稿するという力の入れようである。

 デビュー作には、その作家の自己形成の土壌が色濃く映し出されるのがふつうだ。両親が教員という家庭に育った松野は、本に囲まれた子供時代を送ったにちがいない。それはこの歌集が引用の織物でできていることからわかる。各章のはじめにエピグラフが配されているが、その出典が興味深い。

 萩尾望都「半身」
 田村隆一「幻を見る人」
 ガルシア・ロルカ「水に傷ついた子供のカシーダ」
 高河ゆん「Love songs」
 旧約聖書「ヨブ記」
 宮沢賢治「銀河鉄道の夜」
 ベルトルト・ブレヒト「あとから生まれるひとびとに」
 森茉莉「甘い蜜の部屋」
 E.M.フォスター「モーリス」
 アーシュラ・ル・グィン「闇の左手」

 そもそも歌集の題名モイラは、森茉莉『甘い蜜の部屋』の主人公で、母親に早く死なれ父に溺愛された少女である。モイラは父が見つけてきた男と結婚するが、ファザコンが治らず夫は服毒自殺する。一見してわかるように、モイラは森茉莉の分身であり、松野は自分もまたモイラの一族だと宣言している。ここには自分の少女時代と父に固着するインセスト的香りが濃厚である。

 昭和48年に山梨県に生まれた少女はどんな本を読むのだろうか。田村隆一、宮沢賢治、ロルカ、ブレヒトというラインナップは、ちょっと教科書的な匂いがする。むしろ残りの方が個人的愛読書である可能性が高い。萩尾望都が名作『ポーの一族』を連載したのは1972年、傑作『トーマの心臓』は1974年である。『少女コミック』で萩尾望都のマンガを貪り読んだのは、当時20歳前後の女性だから、松野はずいぶん遅れて来た萩尾望都の読者である。同じ少女マンガでも高河ゆんのほうがはるかに実年齢に近い。

 この愛読書ラインナップに松野の作品世界を読み解く鍵のひとつが潜んでいる。萩尾望都が『ポーの一族』『トーマの心臓』で、竹宮恵子が『風と木の詩』で初めて少女漫画で描いたのは、「美少年同性愛もの」というまったく新しいジャンルであった。また、映画化されたE.M.フォスター『モーリス』も同性愛の物語である。このラインはそのまま『銀河鉄道の夜』のジョバンニとカンパネルラの友情に、また宮沢賢治と保阪嘉内の友情に繋がっていく。このように松野が執拗に固着するのは、「性の越境」もしくは「性の未決定」というテーマである。これは近代少女マンガのメイン・テーマのひとつであり、それ自体特に目新しいものではない。

 松野は歌のなかで女性である自分を「ぼく」と呼ぶ。これも少女マンガ、少女小説(コバルト文庫)の常套ですらある。吉本ばなながデビューしたとき、少女マンガとの類似性が何度も指摘されたが、松野の短歌も同じで、いかにハイカルチャーの領域にマンガの影響力が浸透しているかを物語っている。

 好きな色は青と緑と言うぼくを裏切るように真夏の生理

 もしぼくが男だったらためらわずに凭れた君の肩であろうか

 短夜に美しい声をして誰か無性の背(せな)よりぼくを愛せよ

 無性の背へと送られる相聞の歌はいかにもか細いものである。「性の未決定」に固着して無性の背を求めることは、結局は自己の相似形を求める自己愛へと収斂するのであり、モイラが甘い蜜の部屋に閉じこもってそこから出ようとしなかったように、他者との遭遇を回避するコクーニング(繭に籠もる行為)に他ならないからだ。

 青い花そこより芽吹くと思うまで君の手首に透ける静脈

 半欠けの氷砂糖を口うつす刹那互いの眼の中に棲む

 金雀枝の黄はこんなにもわななきやすくぼくらは生まれ

 酸の雨しずかに都市を溶かす夜も魂は魂を恋いやまぬ

 君去りてのちの暗室 シャーレには不可逆反応進みつつあり

 しかし無性の背を求めた作者もいつまでも夢見る少女ではいられない。この世に生きる限り、いやおうなしに他者は向こうからやって来る。福島泰樹も言うように、本書の圧巻は「二重夏時間」で、作者はどうやらエルサレムあるいはパレスチナのどこかの町に来ているようだ。松野が詠むのはもはや幻のような自己の相似形ではない。掲載歌「人は去りゆくとも」もこの一連にある。

 戒厳令を報じる紙面に包まれてダリアようこそぼくらの部屋へ

 エルサレムの丘には芥子の花赤く満ちたりいかなる旗も立てるな

 紫陽花を捧げ持ちつつ小さくて冷たい君の頭蓋を思う

 それでは九月 噴水の前でトカレフを返そう花梨のジュースを飲もう

 作者は成長とともに徐々にモイラを脱して繭の外に出て、広い世界と出会いつつあるようだ。そのとき松野が、自らの叙情の根拠となるどのような新たな視座を獲得するのかは、おおいに興味のあるところだ。

松野志保のホームページ