022:2003年10月 第3週 松野志保
または、無性の背を希求するやおいの魂

人は去りゆくともめぐる夏ごとに
    怒りを込めて咲くダリアなれ

          松野志保『モイラの裔』
 本書は作者の第一歌集で、福島泰樹の編集になる月光叢書の第4巻として洋々社から2002年に上梓された。ほやほやの歌集である。松野は1973年生まれだから、まだ30歳の若い女性である。東京大学文学部を卒業、放送局(NHKか)に勤務。大学在学中から福島泰樹が主宰する月光の会に所属というプロフィールを持つ。福島にとっては自分の結社の若い歌人のデビュー作であり、そのためか巻末に50枚にのぼる解説「ネオロマンチシズムの荒野へ」を寄稿するという力の入れようである。

 デビュー作には、その作家の自己形成の土壌が色濃く映し出されるのがふつうだ。両親が教員という家庭に育った松野は、本に囲まれた子供時代を送ったにちがいない。それはこの歌集が引用の織物でできていることからわかる。各章のはじめにエピグラフが配されているが、その出典が興味深い。

 萩尾望都「半身」
 田村隆一「幻を見る人」
 ガルシア・ロルカ「水に傷ついた子供のカシーダ」
 高河ゆん「Love songs」
 旧約聖書「ヨブ記」
 宮沢賢治「銀河鉄道の夜」
 ベルトルト・ブレヒト「あとから生まれるひとびとに」
 森茉莉「甘い蜜の部屋」
 E.M.フォスター「モーリス」
 アーシュラ・ル・グィン「闇の左手」

 そもそも歌集の題名モイラは、森茉莉『甘い蜜の部屋』の主人公で、母親に早く死なれ父に溺愛された少女である。モイラは父が見つけてきた男と結婚するが、ファザコンが治らず夫は服毒自殺する。一見してわかるように、モイラは森茉莉の分身であり、松野は自分もまたモイラの一族だと宣言している。ここには自分の少女時代と父に固着するインセスト的香りが濃厚である。

 昭和48年に山梨県に生まれた少女はどんな本を読むのだろうか。田村隆一、宮沢賢治、ロルカ、ブレヒトというラインナップは、ちょっと教科書的な匂いがする。むしろ残りの方が個人的愛読書である可能性が高い。萩尾望都が名作『ポーの一族』を連載したのは1972年、傑作『トーマの心臓』は1974年である。『少女コミック』で萩尾望都のマンガを貪り読んだのは、当時20歳前後の女性だから、松野はずいぶん遅れて来た萩尾望都の読者である。同じ少女マンガでも高河ゆんのほうがはるかに実年齢に近い。

 この愛読書ラインナップに松野の作品世界を読み解く鍵のひとつが潜んでいる。萩尾望都が『ポーの一族』『トーマの心臓』で、竹宮恵子が『風と木の詩』で初めて少女漫画で描いたのは、「美少年同性愛もの」というまったく新しいジャンルであった。また、映画化されたE.M.フォスター『モーリス』も同性愛の物語である。このラインはそのまま『銀河鉄道の夜』のジョバンニとカンパネルラの友情に、また宮沢賢治と保阪嘉内の友情に繋がっていく。このように松野が執拗に固着するのは、「性の越境」もしくは「性の未決定」というテーマである。これは近代少女マンガのメイン・テーマのひとつであり、それ自体特に目新しいものではない。

 松野は歌のなかで女性である自分を「ぼく」と呼ぶ。これも少女マンガ、少女小説(コバルト文庫)の常套ですらある。吉本ばなながデビューしたとき、少女マンガとの類似性が何度も指摘されたが、松野の短歌も同じで、いかにハイカルチャーの領域にマンガの影響力が浸透しているかを物語っている。

 好きな色は青と緑と言うぼくを裏切るように真夏の生理

 もしぼくが男だったらためらわずに凭れた君の肩であろうか

 短夜に美しい声をして誰か無性の背(せな)よりぼくを愛せよ

 無性の背へと送られる相聞の歌はいかにもか細いものである。「性の未決定」に固着して無性の背を求めることは、結局は自己の相似形を求める自己愛へと収斂するのであり、モイラが甘い蜜の部屋に閉じこもってそこから出ようとしなかったように、他者との遭遇を回避するコクーニング(繭に籠もる行為)に他ならないからだ。

 青い花そこより芽吹くと思うまで君の手首に透ける静脈

 半欠けの氷砂糖を口うつす刹那互いの眼の中に棲む

 金雀枝の黄はこんなにもわななきやすくぼくらは生まれ

 酸の雨しずかに都市を溶かす夜も魂は魂を恋いやまぬ

 君去りてのちの暗室 シャーレには不可逆反応進みつつあり

 しかし無性の背を求めた作者もいつまでも夢見る少女ではいられない。この世に生きる限り、いやおうなしに他者は向こうからやって来る。福島泰樹も言うように、本書の圧巻は「二重夏時間」で、作者はどうやらエルサレムあるいはパレスチナのどこかの町に来ているようだ。松野が詠むのはもはや幻のような自己の相似形ではない。掲載歌「人は去りゆくとも」もこの一連にある。

 戒厳令を報じる紙面に包まれてダリアようこそぼくらの部屋へ

 エルサレムの丘には芥子の花赤く満ちたりいかなる旗も立てるな

 紫陽花を捧げ持ちつつ小さくて冷たい君の頭蓋を思う

 それでは九月 噴水の前でトカレフを返そう花梨のジュースを飲もう

 作者は成長とともに徐々にモイラを脱して繭の外に出て、広い世界と出会いつつあるようだ。そのとき松野が、自らの叙情の根拠となるどのような新たな視座を獲得するのかは、おおいに興味のあるところだ。

松野志保のホームページ