074:2004年10月 第3週 沖ななも
または、日常からかすかにずれる違和感の歌

道の端にヒールの修理待つあいだ
      宙ぶらりんのつまさきを持つ

           沖ななも『衣裳哲学』
 靴のヒールが壊れてしまい、道ばたで営業している靴修理屋に修理を頼むとき、片足だけ靴を脱いだ姿勢でどこかに片手でつかまりながら立つ。郊外鉄道の駅近くや、繁華街のガード下などで昔はよく見かけた風景である。掲載歌はこのときの姿勢の不安定さを詠ったものである。いつもなら履いているはずの靴が片方なく、ストッキングだけの足が剥き出しになって人目に晒されているのも居心地が悪い。歌のなかにはこの日常風景の描写以外のものは何ひとつないのだが、「宙ぶらりんの居心地の悪さ」がこのように意識的に詠われることによって、その感覚が日常の地平からわずかにはみ出す。沖の歌はこのように、日常生活の卑近とも言える具体的な断片を詠みながら、注意しなくては気づかぬほどわずかに非日常的世界へとずれ込むところに特徴がある。

 沖の作る歌が古典和歌や近代短歌のめざした「短歌的抒情」にたやすく回収されないのは、もともと詩人として出発したという経歴があるからだろう。「短歌的抒情」の一歩手前で、「オットドッコイ」と踏み止まる姿勢がある。沖はもともと自分の詩作の糧にするために、加藤克巳の「個性」に入会したという。だから第一歌集『衣裳哲学』には、加藤の作風を彷彿とさせるようなモダニズム風の歌が混じっている。

 おもいきり反り身で仰ぐ 鉄塔の先端鋭く鳥を削ぎにき

 波は波の風は風のかたちのまま止まり闇をむかえる夢想刻限

 博多湾めぐる長距離ランナーの脚のかたちが草刈鎌に似る

 荷を抛るおとこの腕が骨ばると高圧線は午後へたるんだ

しかし沖の独自の個性が光るのは上に書いたように、日常を詠いながらかすかに非日常へと転位する次のような歌である。永田和宏の言葉を借りれば、歌の開く「虚数空間」へと気づかないうちに移行する感覚である。

 さやえんどうの筋をとりつつ背中じゅうで義眼の視線を感じている

 九月 たとえば丸椅子の置場を変えるさりげなくまた確実に

 霊柩車が雨水はねて走りぬけしずかに水がもとにもどる間

 つたくさをたぐりよせればあらあらしひとの世界は饐えのきざしに

 まちはずれ不燃建材売る店の磨りガラスから犬の目ひかる

一首目、「さやえんどうの筋をとる」という台所の日常風景に、「義眼の視線」という非日常的なものがからまる。ただし義眼はいささか寺山風に作りすぎだろう。二首目、椅子の置き場を変えるのも家庭の日常的風景なのだが、下句で「さりげなくまた確実に」と締めると、それがのっぴきならない決定的選択であるかのような色合いを帯びてくる。部屋の空気が変わる感じがする。三首目はこちらを掲載歌に選ぼうかと迷った歌で、発想は葛原妙子の「水中より一尾の魚跳ねいでてたちまち水のおもて合わさりき」とよく似ている。ただし、葛原が物質世界の形而上性に眼差しを注いでいるのにたいして、沖の視線はずっと地上的である。霊柩車が人の生き死にのはかなさを暗示し、乱された水溜まりの水がもとにもどるわずかな時間が、人生の短さを形象化している。四首目、蔦草をたぐり寄せるというのが何の行為なのかはよくわからないが、「あらあらし」を導く序詞と解釈することもできよう。「世界が饐え始めている」という漠然とした不安な予感と、蔦草のざらついた触感とが一首を成り立たせている。五首目、建材屋の磨りガラスもまた何の変哲もない光景だが、暗い屋内から光る犬の目によって、日常はわずかに歪み、そこから世界がずれ始める。

 『衣裳哲学』の中には、近代短歌の開発してきた短歌的抒情により近い作品もあり、それはそれでなかなか美しく、私はこのような燃焼系の歌を愛誦している。

 鳥の目に射すくめられたる冬の夜に薄手茶碗の割れる音きく

 性と愛かなしきものか草かげの迷いの黄蝶蔓にたゆたう

 葬列の行きすぎがてにからたちの実をもぎたれば空は澄みたり

 寒の卵(らん)冷えきわまりてたちまちにかなしみとなり朝(あした)割られる

 しかし、脈動する短歌的抒情の溢れるこのような作品は、第二歌集『機知の足音』以降は急速に姿を消して行く。なぜだろうか。それは、近代短歌における短歌的抒情を支えている「対象との同化」を、沖がいつの頃からか忌避するようになったからだと思われる。近代短歌の大きな水脈である「対象との同化」を、これ以上ないほどよく示す作品がある。角川『短歌』2004年8月号の特集「101歌人が厳選する現代秀歌101首」で紀野恵が選んだ歌である。

 とぶ鳥を視をれば不意に交りあひわれらひとつの空のたそがれ
             柏原千恵子 「七曜」26号 (2002年)

 「見る〈私〉」と「見られる鳥」とが歌人の視線の切り取る空間で一体化し、後にはたそがれの空だけが残るというこの歌の美しさは圧倒的である。人間と自然との主客合一の水脈は、古典和歌の世界に遡るし、もしかしたらもっと古い時代の、人間と神の合一を希求した祝詞にまでも遡行する可能性もあるだろう。この歌に典型的に見られる「対象との同化」が、言葉を詩へと昇華し、短歌的抒情を浮上させる重要な経路のひとつとして働いてきたことは疑えないことである。

 しかし「同化」とは彼我の差異を消去することだ。しかるに沖は掲載歌にも見られるように、「世界に対する異物感」に固執がある。「宙ぶらりんの居心地の悪さ」は、世界と同化することができないという感覚以外の何ものでもない。だから沖は、眼前の対象を見つめつつもそれには同化せず、かすかな違和感とともに距離を保つというスタンスを採るのである。その視線は時に皮肉な色を帯びる。

 世界地図に永世中立国のうすみどり漠然と見てからページを閉じる

 地獄極楽絵図みせられても、だまってまな板のぬめりを洗う

 陽だまりに蜘蛛おりてきて 昼火事のサイレン響く なまあくびする

 刃物屋のナイフがにぶく語りかける 買いたければこれは売りもの

 一首目の世界地図を漠然と見てから閉じるという動作は、世界を眼前に開きながらもそこには入っていけない自己のスタンスを象徴する。二首目、地獄極楽絵図は宗教や形而上学からの誘いと解釈してもよいのだが、どんなに魅力的な誘いであっても自分はそれには乗れない。三首目の蜘蛛や消防車のサイレンは不吉な予兆と世界の危機の形象化であるが、私はそれとは関係なくなまあくびをしているのである。ここには世界の進行と自分の体内リズムとの違和感の認識が顕著である。四首目のナイフはまるで挑むかのように私に語りかけているが、それは自傷行為か他傷行為へのふてぶてしい誘いである。

 このようなスタンスが作歌方法に反映されるとき、歌はどのような姿をとることになるだろうか。永田和宏は「「問」と「答」の合わせ鏡 I」(『表現の吃水』所収)のなかで、短歌の構造を上句の「問」と下句の「答」(またはその逆)の合わせ鏡と規定し、「その「問」をいかに遠くまで飛翔させ得るか、そしてその「問」をいかにうまくブーメランのように回収することができるか」が、定型短歌の生命線だと主張した。この手法を採ると「燃焼系」で「カッコイイ」短歌ができる。ところが沖のようなスタンスを採ると、日常生活の断片が提示する問を「遠くまで飛翔させる」ことにはならず、問は投げ損ないのボールのように目の前にボテッと落下する。すると永田が言うごとく「ブーメランのように回収する」ことは不可能になり、トボトボと拾いに行くしかなくなるが、それは作歌においては下句の崩れとなって現われる。次の歌の下句のズブズブ感は明らかに意図的である。

 家族眠るトタンの屋根をゆっくりとはらみ猫だろうかいま歩いている

 欲情したようにひかる自転車ブロックの塀にもたせかけてある

 折りあしくあるいはおりよく雨となり駆け込むというにはあらねど入る

沖のこのような作歌姿勢は、木への愛着、なかんずく上ではなく下へ伸びる枝に注ぐ眼差しとして、歌題としても顕在化しているのがおもしろい。

 皀莢(さいかち)の流れへ傾ぐ古幹の上へ向く枝下へむかう枝

 上向きの枝にまじって下向きの枝がおもいのほかにいきおう

天に向かってすっくと伸びる枝は、ややもすれば自己美化に向かう「カッコイイ」短歌への志向だが、自分はその道を採らず下へと向かう枝になるという沖の歌人としての生き方を詠ったものと取ってよい。この結果、沖の作る歌はつぶやくような「ただごと歌」にだんだん近づいて行くのである。次のような歌にはもう、初期の歌に見られた日常からのかすかなずれはなく、日常そのままである。

 汚れれば裏がえし折りかえし雑巾(ぞうけん)の四つの平らを使いきるまで

 セーターをとりだしやすいところから引っぱりだしてとりあえず着る

 ここで私ははたと考え込んでしまうのである。たとえぱ小池光も清新な抒情に溢れた初期の歌風をのちに自分で意識的に壊してしまい、ただごと歌とも見える短歌を作るようになる。次の一首目と二首目の懸隔は誰の目にも明らかだろう。

 あかつきの罌粟ふるはせて地震(なゐ)行けりわれにはげしき夏到るべし 『バルサの翼』

 ごきぶりはこどもらさへも一夜明くれば誘引剤にみなとらはれつ 『草の庭』

 何歳になっても青春の抒情を詠い続けるというのも、確かに気持ちが悪いかもしれない。それでは短歌界の引き延ばされたモラトリアムになってしまう。また同じ地点に留まって歌を作ると、自己模倣に陥ることも確かである。時間経過による歌風の変化は必定と言えるかもしれない。しかし沖のように、初期の作品に見られた非日常空間へのかすかな転位すらも消去してしまうと、言葉が詩の空間へと浮上する揚力を失ってしまうのではないだろうか。歌集を読み進むにつれて、好きな歌に付ける付箋がまばらになってゆくのが、何とも淋しい気がするのである。