第275回 遠藤由季『鳥語の文法』

聴いている。茗荷ふたつに切り分けた静けさに耳ふたつひろげて

遠藤由季『鳥語の文法』 

 おもしろい歌だ。「聴いている。」という倒置法から始まる。読む人の心には「はて誰が何を聴いているのだろう」という疑問が湧く。するといきなり茗荷が登場する。包丁で縦に二つに切り分けた茗荷は、宝珠を二分した形をしている。「茗荷ふたつに切り分けた静けさに」まで読んでもまだわからない。「耳ふたつ」に至って茗荷が耳たぶの喩であることがわかる。従って歌意は「歌中の〈私〉は何かに静かに耳を傾けている」となる。しかし〈私〉が何に耳を傾けているのか明かされてない。

 言い伝えによれば、釈迦の弟子に周梨槃特スリバンドクという人がいて、自分の名すら忘れるほど物忘れの激しい人だったという。その弟子の墓に生えて来た植物に、弟子にちなんで茗荷と名付けたと伝えられている。茗荷とは「名を荷う」つまり「名前を忘れないように持って行く」」という意味である。俗に茗荷を食べ過ぎると物忘れすると言われているのはこの故事にちなむものだろう。

 さて〈私〉は何に耳を傾けているのか。それは自分の心の中の洞に湧く音だろう。作者はどうやら鬱屈を抱えている。それは同じ連作内の「鬱の字を一画ごとに摘まみ抜き息吹きかけて飛ばしてみたし」や「三億円当てたら何が楽になる黄のパブリカを半分に切る」といった歌を見ればわかるのである。読者は一巻を通じてこの作者が抱える心の屈折に出会うことになる。

 『鳥語の文法』(2017年)は、第11回現代短歌新人賞を受賞した『アシンメトリー』(2010年)に続く第二歌集である。「鳥語」は「ちょうご」ではなく湯桶読みで「とりご」と読む。本コラムの『アシンメトリー』の歌評で、この歌集の特徴は相聞であるといささか独断的に述べたのだが、『鳥語の文法』は第一歌集とずいぶんトーンと主題を異にする。それは作者の人生に大きな変化があったためである。

息つまる夕食ふたり終えたのち月の照る場所見失いたり

照明を点けず荷造りしておりぬ追い立ててくる影はいくつも

空の壜捨てるこころは痛みおり婚解きにゆく霜月の朝

障子にて包まるる感覚あらぬ家父、母、われは仕切られて居り

もやしからひげ根を取ってゆくような経理の仕事今日もこなさむ

 一首目の「ふたり」は作者と夫の二人である。結婚生活は破綻し、もうこの家に月が照る場所はない。作者は何かに追い立てられるように、夜中に荷物をまとめて家を出る。そして離婚届けを出すのだが、空き瓶を捨てるのにも心が痛むのは、自分が結婚生活を捨てようとしているからに他ならない。家を出た作者は実家に戻る。今まで暮らしていた日本家屋とはちがって、実家はマンションである。作者は実家で両親と暮らし始め、会社勤めをして経理の仕事をすることになる。その仕事はもやしからひげ根を取るような根気を必要とし、徒労感をもたらす仕事である。

 短歌は〈私〉の文芸なので、至る所に〈私〉が顔を出すのは当然なのだが、本歌集の特徴は、作者が内側から感じる〈私〉だけではなく、外側から見ている〈私〉が多く感じられることだろう。

戸の軋む食器棚にはガラス板疲れ切りたるわれを映せり

サルよりも暗きこころを持つましらつり革握り締めてわれ立つ

灯を消したロッカー室に標本となりたるわれが立ち尽くしいむ

ガラス戸に翳り映れるわが顔もわが顔 鳩が白く過ぎりぬ

 一首目、食器棚の扉が軋むのは、それなりの年月を経ているからで、それはまた家庭の歴史でもある。この歌ではガラス戸に映る〈私〉を見ている〈私〉という二重構造がある。二首目、「ましら」は猿の古語なので同じものなのだが、作者はあえてそこに違いを見出している。より暗い心を抱えた〈私〉はヒトと呼ばれる生物とはいささか異なるものに化しているということか。三首目は職場のロッカー室に人体標本となった〈私〉がいるだろうという想像の歌。標本になっているのは中身を抜かれてカラカラになっているからである。四首目もガラス戸に映った自分の顔の歌である。

 このような歌は次の歌へと地続きに繋がっている。

眼底を覗かれており隠されていたわたくしのダム湖の昏さ

一台のレントゲン車に技師こもりひとりひとりの洞を撮りゆく

 一首目は眼科医院での眼底検査の情景で、私の眼底を覗くと隠れた暗いダム湖が見えるだろうと詠んでいる。二首目は職場での健康診断の光景で、レントゲン写真を撮影すると誰もが心の中に抱えている空洞が映るだろうという。

 短歌を視線の方向で分類すると、おおまかに「上を見上げる歌」と「下を俯く歌」に分かれるように思う。しかし遠藤の上のような歌は「中を覗き込む歌」とでも言えるだろうか。なぜ中を覗き込むかというと、それは心の中にぼっかりと大きな空洞を抱えてしまったからである。その空洞が遠藤の歌に屈折を与えている。

事務所にはスープの匂いが入り乱れ昼の男らもくもくと吸う

おにぎりとペヤングソース焼きそばの昼食ののち読書する社長

午後五時半ピースの嵌るパズルなりみなパソコンに向かう事務所は

段ボールを束ねるという地味な作業終えて夕暮れむっつり帰る

カステラの弾力のうえで休みたし働いても働いてもひとり

 職場詠からいくつか引いた。このような生活感漂う具体性は第一歌集『アシンメトリー』には見られなかったものである。これもまた実人生の経験が遠藤の歌に与えた変化と言えるかもしれない。

重き頭を揺らさずに立つ紅き菊 影身じろがずゆうやみのなか

御茶ノ水LEMON画翠に眺めいる色鉛筆は色彩増えおり

日本人われのみ傘をひらきおり翡翠の雨降る永華路よんふぁるぅ

わけのわからぬものが心に。まくわうりぺちりと叩けば水ゆがむ音

駅頭に夜の花屋は開かれて影ごと花を売りさばきおり

質量の見本のような羊羹の並ぶとらやはデパ地下の奥

夕立を崩さぬように入りたる洋菓子店にレモン水冷ゆ

コンビニはそのうち影も売るだろう闇をなくした夜を背負いつつ

あおむきの蝉をすべらす風吹きぬ渋谷の深き谷の底から

 集中で印象に残った歌から引いた。一首目、大輪の菊が風に揺れることなく夕闇に立つ様はそれだけで美しいが、右へ左へと揺らぐ作者の憧れが投影されているようでもある。二首目、LEMON画翠は駿河台駅前などに店舗のある画材屋で、その界隈は作者には思い出のある場所のようだ。昔は24色くらいだった色鉛筆は色の数が増えて160色などというものもある。作者はそこに時間の流れを感じている。三首目は台湾旅行の羇旅歌。日本人は雨に濡れることを嫌う民族ですぐ傘を差すが、台湾の人は多少の雨は気にしない。「翡翠の雨」と「よんふぁるぅ」という音が美しい。四首目はまくわうりを叩いた時の音を「水ゆがむ音」と聞いているのがおもしろい。五首目、夜になると路上で花を売る花屋は主に繁華街の駅前にある。これから夜の街にくりだそうという人を目当てにしているのだろう。客に手渡される花には夜ならではの影がまとわりついている。この影に着目するのがいかにも短歌的である。六首目は思わずくすりと笑った歌。作者は中央大学で化学系の学科を卒業した理系女子である。確かに黒々としてずっしり重い羊羹を見ると、キログラム原器のように見えなくもない。少なくとも食品からは遠い外観だ。七首目、「夕立を崩さぬように」というのがどのような心情を表しているかはわからないが、下句が美しい。八首目は文明批評的な歌。深夜まで煌煌と明るいコンビニには闇がない。なくなったものなら価値があるので、そのうち闇も売るだろうというのだろう。九首目は蝉が寿命を終える晩夏の光景である。渋谷の深い谷から吹く風は、バッハのオルガンコラールDe Profundis「我深き淵より御名を呼びぬ」を連想させる。

 あとがきで作者は、「自らのけはいは、ほとんどの歌の背後に揺らめいているように思う。消そうとしても消せなかったのだとも思う」と記している。短歌が「私性」の文学である以上そのことはあらゆる短歌に言えることなのだが、遠藤が述懐しているように本歌集には〈私〉が多く顔を覗かせている。それは作者の人生の変化とおそらく連動しているのだろう。

 

第61回 遠藤由季『アシンメトリー』

澄むものと響きあいたるあきあかね君の頭上を群れて光れり
                  遠藤由季『アシンメトリー』
 まだ気温が25度を越す夏日もあるが、列島を襲った今年の記録的な炎暑はようやく去り、アキアカネの群れ飛ぶ季節となった。日本の短詩型文学の伝統に従い、季節感の合う歌を選んでみた。この歌の工夫のすべては初句・二句にある。アキアカネの群れ飛ぶ様を「澄むものと響きあいたる」と表現し、はっきりと名指すことを避けて「澄むもの」としたことで、一首に余韻と広がりが生まれている。高い空に鰯雲が薄く流れる、ピンと張り詰めたような秋の空気を感じることができる。
 遠藤は1973年生まれで「かりんの会」に所属。本書にも収録されている「真冬の漏斗」で2004年に第一回中城ふみ子賞を受賞。『アシンメトリー』は第一歌集で、坂井修一がていねいな跋文を寄せている。全体が4章からなり、「モノ」「ジ」「トリ」「テトラ」とギリシア語の数字を冠する。歌集題名は「翅ひろげ飛び立つ前の姿なす悲という文字のアシンメトリー」から採られている。雪の結晶をデザインした表紙は著者自身の手になるもので、「遠藤由季」名義で絵本もあるが同一人物かどうかわからない。
 さて、遠藤の歌の特徴を一言で言えと言われれば、それはおそらく「相聞」ということになるだろう。
想う人あるさみしさにざぼんより柚子に冬至のこころ寄せやる
ふくよかな裸身をさらすはまぐりの澄みたる椀に汝はくちづけぬ
君とわれ時おり光を投げあえり眼鏡をかけて本読む午後に
暗き星を関節ごとに灯しても春の星座となれぬふたりは
 本来、相聞は思慕の心を投げかけ合う相互的交通だが、自己表現を中心に置き〈私の歌〉となった近現代短歌では相互性は消滅して、しばしば一方通行の想いの表現となる。遠藤の歌も例外ではなく、本歌集の相聞のほとんどは相手に届かぬ想いを詠ったものである。その意味ではもはや相聞ではなく、一人称の歌と見るほうが適切なのかもしれない。たとえば一首目で心を寄せる対象は柚子という物体で、二人称は不在である。二首目と三首目には「汝」「君」が登場し、確かにここには二人称がいる。しかし四首目になるとまた二人称は星座のなかに消えてしまう。だから遠藤の相聞は実は徹底的な一人称の歌なのである。
 それは当然ではないかと思われるかもしれない。明治時代の短歌革新によって〈私〉の表現形式となった近代短歌が一人称の歌になるのは当然ではないかと。しかし、「〈私〉の表現」と「一人称短歌」とはイコールではない。事実、近代短歌をリードしたアララギが表現手段としたのは客観写生であり、そこに一人称の入り込む余地はない。だから短歌が「〈私〉の表現」であることは、歌のなかに一人称が充満することを意味しない。
 遠藤の歌にはときに過剰に一人称が溢れている。次の歌などどうだろう。
春をふくむふくよかな胸もたずして冬枝のような息ばかり吐く
いつ見ても濡れている花 約束の頓挫する日に咲く梔子
一首目の「春をふくむふくよかな胸」も主観性の濃い表現だが、何より一人称を強く感じさせるのは結句の「息ばかり吐く」である。「息を吐く」なら客観描写だが、「息ばかり吐く」は主観的で一人称的表現である。二首目の「いつ見ても濡れている花」にも一人称が強く感じられる。いつも花を見ている〈私〉がいなければ、「いつ見ても濡れている花」とは言えないからである。このような世界の見方と語法は客観写生からは遠く、セピア色に染まる古い写真のように、世界のすべてが一人称色に染まっているかのようである。
 このことは傾向の異なる他の歌人の歌と遠藤の歌を並べてみるとよく感じられるだろう。
露骨なるかんじの空にかかげ佇つ脳の奧処に海馬はありて
            鳴海宥『BARCAROLLE [舟唄] 』
しずみゆく船のようなるゆうぐれに鉄柵ありて鳥とまりおり
                 吉川宏志『西行の肺』
慎みてわれ喰まむとすうつしみを離れたる肉のさえざえとあり
                   喜多昭夫『青霊』
鳴海の歌はダリのシュルレアリズムを思わせる世界像に多分に知的なポエジーを立ち上げており、吉川の歌は確かな目による写実に静かな情感を滲ませていて、喜多は得意の飲食の歌に清冽な抒情を詠っている。いずれも「私は世界をこのように見る」という意味において「〈私〉の表現」であるが、一人称性は抑制されている。
 遠藤のように一人称性が濃厚な歌の問題点は、ややもすれば世界の把握とそれを表現する語法が甘くなることだろう。それは特に下句に表れる。
破られる運命にあり約束も紙もわたしを傷物にして
雪を掬いじんじんと熱くなりゆく手これっぽっちの心も掬えず
煩わしい約束終わりユニクロをのびのびと着る夜のわたくし
剥き出しの配管みたいな純粋さ壁に隠しておけばよかった
これらの歌の下句はあまりにそのまんまであり、歌に必要な詩的昇華を経ているとは思えない。〈私〉のストレートな表現が歌となるのではなく、〈私〉は変成と組み替えと再創造という玄妙不可思議な過程を経て初めて芸術表現となる。
 一方、遠藤の次のような歌では、この錬金術が成功しているように見える。それはこれらの歌を支える〈私〉がそのまんまの〈私〉ではなく、世界の把握と表現とを志向することで、〈私〉の普遍化の水際へと接近しているからである。
朝ごとに光のほうへ右折するバスの終点へ行きしことなく
首長きものはさみしえ白鳥の舟をふたりで漕ぐ水際まで
ぴったりと寒鮃黒く黙しいる魚屋過ぎればわが影の無く
音のすべて遠く聞きおり自転車が激しく風に倒される辺で
雨のけはい小さな町にはりつめて隣町へと洩れてゆく午後
自らの影切り放ち飛び立てる鳥の翼をひかりと見つむ
もちろん遠藤の相聞のなかにもよい歌がないわけではない。また短歌を自らの生の軌跡の私的な記録と見なす見方もあるだろう。しかし短歌を〈私〉の玩具に終わらせないためには、これらの歌が示しているような方向をめざすべきではないだろうか。