第61回 遠藤由季『アシンメトリー』

澄むものと響きあいたるあきあかね君の頭上を群れて光れり
                  遠藤由季『アシンメトリー』
 まだ気温が25度を越す夏日もあるが、列島を襲った今年の記録的な炎暑はようやく去り、アキアカネの群れ飛ぶ季節となった。日本の短詩型文学の伝統に従い、季節感の合う歌を選んでみた。この歌の工夫のすべては初句・二句にある。アキアカネの群れ飛ぶ様を「澄むものと響きあいたる」と表現し、はっきりと名指すことを避けて「澄むもの」としたことで、一首に余韻と広がりが生まれている。高い空に鰯雲が薄く流れる、ピンと張り詰めたような秋の空気を感じることができる。
 遠藤は1973年生まれで「かりんの会」に所属。本書にも収録されている「真冬の漏斗」で2004年に第一回中城ふみ子賞を受賞。『アシンメトリー』は第一歌集で、坂井修一がていねいな跋文を寄せている。全体が4章からなり、「モノ」「ジ」「トリ」「テトラ」とギリシア語の数字を冠する。歌集題名は「翅ひろげ飛び立つ前の姿なす悲という文字のアシンメトリー」から採られている。雪の結晶をデザインした表紙は著者自身の手になるもので、「遠藤由季」名義で絵本もあるが同一人物かどうかわからない。
 さて、遠藤の歌の特徴を一言で言えと言われれば、それはおそらく「相聞」ということになるだろう。
想う人あるさみしさにざぼんより柚子に冬至のこころ寄せやる
ふくよかな裸身をさらすはまぐりの澄みたる椀に汝はくちづけぬ
君とわれ時おり光を投げあえり眼鏡をかけて本読む午後に
暗き星を関節ごとに灯しても春の星座となれぬふたりは
 本来、相聞は思慕の心を投げかけ合う相互的交通だが、自己表現を中心に置き〈私の歌〉となった近現代短歌では相互性は消滅して、しばしば一方通行の想いの表現となる。遠藤の歌も例外ではなく、本歌集の相聞のほとんどは相手に届かぬ想いを詠ったものである。その意味ではもはや相聞ではなく、一人称の歌と見るほうが適切なのかもしれない。たとえば一首目で心を寄せる対象は柚子という物体で、二人称は不在である。二首目と三首目には「汝」「君」が登場し、確かにここには二人称がいる。しかし四首目になるとまた二人称は星座のなかに消えてしまう。だから遠藤の相聞は実は徹底的な一人称の歌なのである。
 それは当然ではないかと思われるかもしれない。明治時代の短歌革新によって〈私〉の表現形式となった近代短歌が一人称の歌になるのは当然ではないかと。しかし、「〈私〉の表現」と「一人称短歌」とはイコールではない。事実、近代短歌をリードしたアララギが表現手段としたのは客観写生であり、そこに一人称の入り込む余地はない。だから短歌が「〈私〉の表現」であることは、歌のなかに一人称が充満することを意味しない。
 遠藤の歌にはときに過剰に一人称が溢れている。次の歌などどうだろう。
春をふくむふくよかな胸もたずして冬枝のような息ばかり吐く
いつ見ても濡れている花 約束の頓挫する日に咲く梔子
一首目の「春をふくむふくよかな胸」も主観性の濃い表現だが、何より一人称を強く感じさせるのは結句の「息ばかり吐く」である。「息を吐く」なら客観描写だが、「息ばかり吐く」は主観的で一人称的表現である。二首目の「いつ見ても濡れている花」にも一人称が強く感じられる。いつも花を見ている〈私〉がいなければ、「いつ見ても濡れている花」とは言えないからである。このような世界の見方と語法は客観写生からは遠く、セピア色に染まる古い写真のように、世界のすべてが一人称色に染まっているかのようである。
 このことは傾向の異なる他の歌人の歌と遠藤の歌を並べてみるとよく感じられるだろう。
露骨なるかんじの空にかかげ佇つ脳の奧処に海馬はありて
            鳴海宥『BARCAROLLE [舟唄] 』
しずみゆく船のようなるゆうぐれに鉄柵ありて鳥とまりおり
                 吉川宏志『西行の肺』
慎みてわれ喰まむとすうつしみを離れたる肉のさえざえとあり
                   喜多昭夫『青霊』
鳴海の歌はダリのシュルレアリズムを思わせる世界像に多分に知的なポエジーを立ち上げており、吉川の歌は確かな目による写実に静かな情感を滲ませていて、喜多は得意の飲食の歌に清冽な抒情を詠っている。いずれも「私は世界をこのように見る」という意味において「〈私〉の表現」であるが、一人称性は抑制されている。
 遠藤のように一人称性が濃厚な歌の問題点は、ややもすれば世界の把握とそれを表現する語法が甘くなることだろう。それは特に下句に表れる。
破られる運命にあり約束も紙もわたしを傷物にして
雪を掬いじんじんと熱くなりゆく手これっぽっちの心も掬えず
煩わしい約束終わりユニクロをのびのびと着る夜のわたくし
剥き出しの配管みたいな純粋さ壁に隠しておけばよかった
これらの歌の下句はあまりにそのまんまであり、歌に必要な詩的昇華を経ているとは思えない。〈私〉のストレートな表現が歌となるのではなく、〈私〉は変成と組み替えと再創造という玄妙不可思議な過程を経て初めて芸術表現となる。
 一方、遠藤の次のような歌では、この錬金術が成功しているように見える。それはこれらの歌を支える〈私〉がそのまんまの〈私〉ではなく、世界の把握と表現とを志向することで、〈私〉の普遍化の水際へと接近しているからである。
朝ごとに光のほうへ右折するバスの終点へ行きしことなく
首長きものはさみしえ白鳥の舟をふたりで漕ぐ水際まで
ぴったりと寒鮃黒く黙しいる魚屋過ぎればわが影の無く
音のすべて遠く聞きおり自転車が激しく風に倒される辺で
雨のけはい小さな町にはりつめて隣町へと洩れてゆく午後
自らの影切り放ち飛び立てる鳥の翼をひかりと見つむ
もちろん遠藤の相聞のなかにもよい歌がないわけではない。また短歌を自らの生の軌跡の私的な記録と見なす見方もあるだろう。しかし短歌を〈私〉の玩具に終わらせないためには、これらの歌が示しているような方向をめざすべきではないだろうか。