第391回 遠藤由季『北緯43度』

驟雨去り歩道にひらく反転の世界に深く蒼き空あり

遠藤由季『北緯43度』

 驟雨はにわか雨なので、季節は夏だろうか。雨があがると歩道に水溜まりができている。水溜まりは短歌ではにわたずみとも呼ばれていて、歌人に好まれる素材だ。水溜まりに青空が映っている。鏡像はふつうは左右が反転するが、水溜まりは水平で、それを斜めの角度から見ているので、上下が反転したかのように見える。水溜まりの中にもうひとつの世界がある。しかしこの歌に続けて「みずからの深きところにひろげたる蒼知らぬまま消える水溜まり」という歌が置かれていて、その世界はたまゆらのものだという認識がある。しかし翻って考えてみれば、私たちの生きているこの世界もそれほど永続的なものかという疑問が心をよぎる。コロナ禍のパンデミックを経験した今となっては、その問はそれほど馬鹿げたものとも思えない。

 『北緯43度』は遠藤の第三歌集で、2021年(令和3年)に上梓されている。遠藤は1973年生まれで歌林の会に所属しており、第一歌集『アシンメトリー』(2010年)、第二歌集「鳥語の文法」(2017年)がある。私は両方とも本コラムで取り上げているので、本歌集で三度目ということになる。意図して全部取り上げて論評しようとしたわけではなく、「次はどの歌集を読もうかな」と書庫を漁って自然にそうなっただけである。歌集題名の『北緯43度』は札幌の緯度で、彼の地を訪れた折の連作から採られている。版元は短歌研究社で、装幀は花山周子。あとがきによれば、『短歌研究』誌などに発表した短歌を中心にまとめたもので、二転三転して最終的に形となったのは新型コロナウィルスが蔓延する前の世界をパッケージしたものだという。確かに新型コロナのパンデミック以前と以後とでは、世界のあり方がずいぶん変わったと感じられるので、それ以前の世界をとどめておきたかったという作者の願いも無理からぬものがある。

 私小説というわが国特有の文芸形式を除けば、短歌ほど作者の人生が反映される文芸はない。それはひとえに明治時代の短詩型文学革新運動の結果、短歌は〈自我の詩〉となったからである。それによって近現代短歌は、花鳥風月の美意識と様式美が重んじられた和歌の伝統と別れることとなった。

〈御社〉へは膝上スカート穿いてゆけ不思議な呪い今もあるらむ

ストッキングと笑顔で氷河を渡らんと挑戦したり若きわたしは

おんなゆえ減点されたり墨染めのたそがれに咲いているゆうがお

久しぶりに給与を得たり皆人の得るべきという給与を得たり

この夏の母に受給の始まった年金われらにはしんきろう

苗字戻さず誰かと墓石を分かち合うこともなからむわたしの骨は

 作者の遠藤は第二次ベビーブーム(1971年〜1974年)の時代に生まれ、大学を卒業した頃は就職氷河期だった世代である。そんな時代を生き抜いて来た女性の姿が上に引いた歌によく現れている。一首目は入社試験の面接で、「御社」は試験を受ける会社を指す常套句。私は入社試験というものを経験したことがないのでわからないのだが、女子は膝上スカートを穿いて行けという暗黙のルールがあったのだろうか。二首目は就職氷河期世代の心意気を表す歌。四首目には「再就職」という詞書があるので、それまで勤めていた会社を辞めて再就職した折の歌だろう。五首目、母親は65歳となり年金受給が始まったが、自分たちの世代がその年齢を迎えたころに年金制度がどうなっているのかわからない。六首目を読むと、作者は離婚して苗字を旧姓に戻していないようだ。だから苗字の同じ元夫の墓にも、苗字が異なる親の墓にも入らないのだ。しかしそのような身の上を歌に詠みつつも、いたずらに嘆くことなく強く生きようとする姿勢が感じられる。

 文体は新仮名遣いの文語(古語)定型に口語(現代文章語)を取り混ぜたもので、川本千栄の言うキマイラ文語である。言葉の選び方と連接の手つきは揺るぎなく、読んで歌意がはっきりしない歌は一首もない。増音のほとんどはセオリー通り初句で行われていて、前衛短歌の遺産である下句での句割れ・句跨がりも非常に少ない。近代短歌の語法をしっかり守った歌風である。コトバ派の歌人は短歌文体の更新を目指すことがあるが、遠藤は人生派の歌人なのでそのようなことは目指さないのだろう。そのような歌風なので、毎日の暮らしのあらゆる場面が歌の素材となる。

血を分けた存在なれど他人の子 姪と子のなきわれの焼き肉

飢餓あるいは発熱により突然の別れとなりぬiPhone 6

夏風邪にからだは正直者となりうどんとプリンを食べたいという

この町には良いパン屋なしと思いつつそれから十年その町に住む

 作者には姉がいるらしく、一首目の姪はその姉の子で、いっしょに焼き肉を食べている。若い人には焼き肉が一番だ。二首目は愛用のスマホが突然故障した様を詠んだもの。三首目は夏風邪に罹ったときの歌。こういうときは誰でも喉通りのよい食べ物が欲しくなる。作者は無類のパン好きらしく、四首目のようにパンを読んだ歌が散見される。余談ながら京都人はパンが大好きで、私が住んでいる左京区はパン屋の激戦区である。このように日々の生活とともにある歌というのが、近現代短歌のひとつの典型的なあり方で、新聞の短歌欄に投稿される歌も同じ大陸の住人である。

 しかし遠藤の美質がこのような歌にあるかといえば、私にはあまりそうは感じられないのである。次のように叙景に徹した歌のほうが良いように思われる。

並べたる翡翠の色を夏の陽に磨かれアオスジアゲハは照りぬ

噴水のしぶきが風に散るたびに子らはひかりをくぐる幾度も

冬枯れのあめりかやまぼうし累々と分離帯からはみ出さず立つ

銅色に照りつつ蟬は啼いているしずかに閉じるまぶたの中に

一斉に藤の花房煽られて抜け道のような風を見せたり

 とはいえこれらの歌は単なる写生ではない。一首目では「並べたる」に蝶の羽根の模様がまるで翡翠を並べたようだという喩が折り畳まれていて、二首目では噴水の噴き上げる水がまるで光の煌めきのようだという把握がある。三首目の「累々と」は、同じものが連なる様を表すが、その他に志を得ない、あるいは元気をなくしている様も表す意味がある。街路樹の冬枯れのヤマボウシには分離帯をはみ出す気概がないのだ。四首目、啼いている夏蟬の叙景かと思えば、下句に至って実は歌の中の〈私〉は目を閉じていることが明かされる。五首目、藤棚に一陣の風が吹き抜けて開いた空間を抜け道と捉えている。このように写生に基づく叙景歌に気づきにくいほどの量の心情を織り交ぜるところに遠藤の真骨頂があるように思う

 歌集を読むと教えられることが多い。たとえば次の歌がそうだ。

よくきょうを光らせて発つ鳥だったドアミラー照り返したあの人

 小中英之に『翼鏡』という歌集があり、珍しい言葉なので小中の造語かと思っていた。遠藤の歌にもあったので調べてみたら、鳥の風切羽の一部で金属的な光沢があるのでそう呼ばれているという。何とも風雅な名称かと感心した。

キラルなるわれの両手で明日よりは煮炊きすさよなら化学薬品

キラル (chiral) はふつうの辞書には載っていない化学の専門用語である。ギリシア語の「手のひら」を意味する語に由来し、右手と左手のように重なり合うことのない鏡像異性体の分子構造をさす。遠藤は理科系の学問を学んだいわゆるリケジョなのだ。こういう歌をもっと作るとおもしろいだろうと思う。理系と短歌は実は相性がよいというのがかねてより私の持論である。

青みなきイルミネーション懐かしく銀座通りの電飾見つむ

 町を彩るクリスマスのイルミネーションに靑色がなかったのは、1993年に開発されるまで靑色のLEDがなかったからである。靑色LEDを開発した中村修二氏らはその後ノーベル賞を受賞することになる。こんな所にも理科系の視点が感じられる。

 最後に集中白眉の美しい歌を挙げておこう。

かもめ飛ぶ空から水面へ夜は垂れ沼の底まで暮れ尽くしたり

 ゆりかもめが飛ぶ千葉県北部にある手賀沼の風景である。「夜は暮れ」ではなく「夜は垂れ」とし、夕暮れが沼の底にまで及ぶ場面に想像を加えている。本来は詠嘆の意のない完了の助動詞「たり」にまで詠嘆が感じられるほどである。