第409回 上川涼子『水と自由』

ながくひかりを吸つてこころはうつろふとしてピンホールカメラにのこる冬の市

上川涼子『水と自由』

 大幅に字余りの歌で全部で38音節ある。おまけに句の意味の係り方がよくわからない。「ながくひかりを吸つて」はピンホールカメラに繋がるのだろう。ピンホールカメラは露光時間が長いからだ。カメラには冬の市の風景が上下逆さまに写されている。しかし途中に挟まれた「こころはうつろふとして」が行き所なく漂流する。いったい誰の心なのか、ピンホールカメラとどんな関係があるのか、また連語的接続助詞の「として」が何と何を結ぶのかも不明である。この句はあたかも独り言か心内語でもあるかのように歌の中を浮遊する。これは景物を視覚的に描く伝統的な短歌の作法ではない。しかし「ひかり」と「うつろうこころ」と「冬の市」がゆるやかに結びつけられて、言葉は詩的浮揚を果たし、そこに清新な詩情が生まれている。はたして作者は短歌に手を染める前に詩を書いていたというからむべなるかなと言えよう。

 作者の上川涼子は1988年生まれで、未来短歌会所属、短歌同人誌「波長」同人。『水と自由』は第一歌集で版元は現代短歌社。詩人・小説家の小池昌代、詩人の石松佳、歌人の菅原百合絵が栞文を書いている。この人選にも作者の立ち位置が現れているようだ。

 歌集題名にも含まれているが、本歌集は「水の歌集」である。水を詠んだ歌がたくさん収められている。いくつか引いてみよう。 

(サイン・コサイン)(サイン・コサイン)わづかなる波紋は雨にみひらきて消ゆ

如雨露よりみづ降らせをり降るみづは鳥の喉ほどやはらかく反る

カミツレの石鹸をうすく湿らせてみづは春へと流れゆくべし

水鳥のかばねは昏くまろやかにみづに研がれし石のごとしも

水の肌くぐりて水の影うごく光の視力届くかぎりを

 一首目の(サイン・コサイン)は、水面に重なりながら拡がる波紋を正弦波に喩えたものかと思う。「雨にみひらきて」に目を開く喩があるので二重の喩となっている。二首目は庭の植物に撒水している場面を詠んだ歌で、今度は如雨露の水である。集中に「放尿の抛物線のごとく昏れ犬につづいてゆく人の影」という歌があり、作者は物が描く曲線に関心があるようだ。三首目は浴室の歌。「カミツレ」はカモミーユとも呼ばれるハーブの一種。香りか高くハープティーにも用いる。浴室から流れ出す水の行方は春である。四首目の「ごとしも」は昨今あまり使わなくなった表現だが、水鳥の屍骸を川の流れで丸くなった石に喩えた歌。五首目はいちばん作者らしい歌で、水の中を水の影が動くと表現するところがおもしろい。

 あとがきに「水は一日をとおして色を転じながら、しかし闇を湛えても透明です。そのように澄んだ眼で、あるいは文体で、一切を見透すことができたら、と水のめぐりに思います」と書かれており、水の清澄と透明にひとかたならぬ憧憬を覚えていることが知れる。また次の一種が印象に残る。

景物はぬれて映れりみづうすく張りてひらける人の眼に 

 この水は目の角膜の表面を覆っている涙である。人の目はいつも濡れていて、私たちは涙を通して現実を見ているということにはっと気づかされる。

 一巻を読んでいて注目されるのは作者の繊細な感性である。 

音の名で楽譜を歌う直截は手をつなぐときの骨の直截

はつあきの産毛にふれてゐるごとし夜半ふかく動く大気を聴きて

活版が紙をりたる稜を撫でいまゆつくりと詩行へと入る

淡き輻を風に吹きゆくたんぽぽに風の面もわづか崩れき

釘の上に帽子を掛けて夜がふつと近くなるふつとやはらかになる

 一首目、楽譜に書かれた音符を歌詞ではなくドレミで歌うと、音楽により近く触れる気がする。それを手をつないで感じる人の骨との触れ合いに喩えている。二首目、秋の夜更けに感じた空気の動きが産毛に触れるようだというのは見た覚えのない喩。三首目、活版印刷の本のページには活字を押した窪みがある。それを指先で愛しんでから詩の世界に足を踏み入れるという美しい所作。四首目、蒲公英の花弁を自転車のスポークに喩えており、そこに吹く風はその抵抗で少し向きを変えるという微細な描写だ。五首目もおもしろい。帽子掛けに帽子を掛ける。すると夜が近く感じられるという。いずれも物との触れ合いを繊細な感覚で捉えている。

 次に引く歌にはどれにも詩的飛躍があり、読んでいてとても楽しい。

月、そしてそこから冷えてゆく音叉 ひかりにみちて鳴ることもなし

指をぬらして傘を結はふるひとときの透明な透明な都市の花束

飛来地に立つのは素足 ベランダにこの世のどこかから夜が来る

蠟梅や モジュラーシンセサイザーの回路にめぐり逢ふ0と1

冷えびえと床にビー玉散りみだれ乱り尾をひく孔雀見ゆ、見る

 月と音叉、ビニール傘と花束、渡り鳥の飛来地とベランダ、蠟梅とモジュラーシンセサイザー、ビー玉と孔雀の間に詩的飛躍があり、これらの歌を読むとき、私たちの脳内シナプスの接続がふだんは使わない形に組み替えられる思いがする。それが詩や短歌や俳句を読むときに私たちが感じる根源的体験に他ならない。 

豹のを模る蓋の重さにて壜のなかなる香気うごかず

いちまいの羽根、放たれてしばしのち時の錘りに鎮むまで見つ

釣り糸にとほくつながる食卓にペスカトーレの海老はすはだか

同じ川に二度は入れず真鍮のちひさき把手ノブを引きてもどれり

春雷にしたがひ暗き帆を立つるグランドピアノに影ゆきわたる

水平線のあたりしづかに足折りて瞑るけものよ貿易船よ

 集中のあちこちに散りばめられた貴石のようなこれらの歌を、川中の飛び石を渡るように楽しみながら読んだ。四首目の「同じ川に二度は入れず」という言葉を残したのは「万物は流転す」(パンタレイ)のヘラクレイトス。充実の一巻と言えよう。

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 元大阪大学学長で哲学者の鷲田清一氏が、朝日新聞の朝刊に「折々のことば」というコラムを連載している。2025年10月3日の朝刊に那須耕介さんの本の一節が取りあげられた。那須さんは大学の私の同僚で法哲学者だったが、病を得て若くして泉下の人となった。刀を振り上げて論破するような言葉ではなく、人の傷にやさしく触れるような言葉で語る人だった。近所にあるけいぶん社という書店の書棚の一角に、那須さんの著作がずっと置かれている。折に触れて立ち寄り一冊を手に取ると、那須さんの思想がその本の中に生き続けていることが感じられる。肉体は滅びても言葉は残る。