170:2006年9月 第2週 伊津野重美
または、病の彼方にどのような抒情を奏でるか

文鳥の胸の真白をかきやれば
   暗紫(くらむらさき)の肉の色もつ
        伊津野重美『紙ピアノ』

 小鳥を飼ったことのある人ならば経験することだが、確かに羽毛は白くても、その奥にある体の色は赤黒く血の色をしていて、「ああ生物なのだ」と実感させられる。しかし、ふつう人は小鳥の鳴き声や愛らしい外観を愛でるのであり、羽毛を掻き分けて肉の色を確かめたりはしない。対象がこちらに向けて提示している外見の奥を見ようとするには、それなりの内発的な動機がなくてはならず、この歌の作者にはその動機がある。それは自らの宿命的な病患であり、体内の患部に意識が過度に注がれるがために、目に見えている世界のさらに奥を探らねばいられないのである。

 『紙ピアノ』は伊津野重美(いつのえみ)の第一歌集だが、この歌集はいくつかの点で特異な歌集である。まず写真家の岡田敦による写真とのコラボレーションという体裁を採っており、作者を撮影した写真が織り交ぜてある。といってもポートレートのたぐいではなく、作者は海辺や花野や草原に遠く小さく写っているにすぎない。「あとがき」で作者は、「短歌と声と身体が一つになって、私の世界を表現する媒体となっていた」ために、歌集に写真を入れることが必要だと考えたと書いている。ということは、短歌と写真のコラボレーションといっても、短歌の表現の可能性を広げるためとか、短歌と写真を並置することでジャンルを横断する相乗効果を期待してといった動機ではなく、「歌集の中に私が視覚的に存在する」ことが重要だということを意味する。仮にこれを「〈私〉の露出」と呼んでおく。なぜ「〈私〉の露出」が必要なのだろうか。それは歌集に収録された歌を読み、その過程において読者の脳裏に積分的に析出される〈私〉では十分ではなく、「生身の〈私〉」が歌の意味作用に不可欠だと感じられたからだろう。「生身の〈私〉が歌を支える」というのは過激な思想である。全身を歌の意味作用の担保として差し出すというのはまた、危険な思想でもある。それは住宅顕信や種田山頭火たちの辿った道へとつながるからである。伊津野がこの方向を選ぶのは、伊津野にとって短歌がお稽古事でも趣味でも余技でもなく、それによって自己の存在を世界において支えている支点であり、その意味において伊津野は「全身歌人」だからである。作者は短歌の朗読活動を続けており、その方面でも評価が高いようだが、自ら舞台に登って生身で短歌を朗読するのはまことに「全身歌人」にふさわしい。

 宿痾のために学校にも行けないような時期があり、危篤状態に陥ったこともあるという作者にとって、病苦が呪詛の対象であることは当然だろう。特に歌集の前半にはネガティヴな感情が噴出する歌が並んでおり、読んでいてやや重苦しい印象は拭えない。

 真っ直ぐに育つ美し人を指し我責む母よ 冷たき春に

 骨までも灼き尽くすとうひかりにも灼き尽くせない病根をもつ

 炎天のオルゴールから崩れ出る狂って明るい「愛の挨拶」

 頽れる身を受け止める人もなくただ音立てる貝の死に殻

 毒汁のごとふつふつと怨み沸く血の濁りもつ吾の面(つら)昏し

 死に鳥の墓標となりて紫陽花のその身を赤く変じてゆけり

 病に苦しむ作者の眼に映るすべての形象が、病と死の喩として歌を構成している。浜辺を覆う貝殻も赤く咲く紫陽花も凶相において捉えられているのは、作者の心情が万象を浸しているからである。世界は観察者としての〈私〉から独立して外部にあるのか、それとも感覚で捉えている〈私〉の内部にあるのかは、古くから哲学で議論されてきた問題だが、こと短歌に関してはそれははっきりしている。世界とは「〈私〉の眼に映じた世界」であり、それ以外のものではない。

 短歌と病気は昔から縁が深い。「療養短歌」という言葉もあるくらいだ。脊椎カリエスを患った正岡子規を始めとして、結核にかかった小泉千樫や木下利玄や相良宏、ハンセン氏病の明石海人や、近くは上田三四二と小中英之も病気に苦しんだ。またこれら有名歌人でなくても、病床にいて短詩型文学としての短歌に自己表現と慰藉の手段を求めている人は今でも大勢いるだろう。病気と縁の深い文学形式など、世界中探しても短歌以外には見あたらない。短歌の誇りとすべきことである。

 愚かしき乳房など持たず眠りをり雪は薄荷の匂ひを立てて  中城ふみ子

 目覚むれば病臥のわれをさしのぞくかぼそき朱のみづひきの花  上田三四二

 氷片にふるるがごとくめざめたり患(や)むこと神にえらばれたるや  小中英之

 自らの病は伊津野にとって取り組むべき大きなテーマであると同時に、伊津野の短歌を限定する要因としても働くことに注意しておこう。病気への呪詛、父母への怨み、死への怖れといったネガティヴな感情が伊津野の歌を駆動していることは疑いない。まことにやむをえないことである。しかし同じように死と隣り合わせに生きた全身歌人であった小中英之の次のような歌を見てみよう。

 枇杷の木は死臭の花を終りたり夏ふたたびのみのりのために  『過客』

 患むことはわたくしごとにて窓からの木立に蛇のしづかなる日よ

 海よりのひかりはわれをつつみたりつつまれて臨終(いまは)のごとく眼を閉ず

 くちばしに鳥の無念の汚れゐて砂上に肺腑のごとき実こぼす

 枇杷の花に死臭を感じるのは、小中の内的感情が投影されているからであるが、下句は来年の稔りを祈る静かな感情で締めくくられている。また二首目には、自分の病気と世界とを意識的に切り離す態度がある。切り離して眺めればそれは穏やかな世界なのである。小中にはこのように自分の病気を歌において昇華せしめんとする態度が顕著であり、そうして到達した抒情の透明度は他に類を見ない。

 伊津野の歌を読んでいると、詠われた心情の切実さに打たれはするが、次第に息苦しくなってくる。吐露される心情のあまりの濃厚さゆえである。その点、次のような歌はやや趣を異にする。

 手のひらに記憶してゆくしんしんと眠れる人の頭蓋のかたち

 ユモレスク高らかに弾く 草上の遂げ得ぬ思いに紙ピアノ鳴れ

 身に深く沈め持ちたる骨盤は二枚のやわき翅を広げて

 汗ばんだ幼女の体抱きとめる時たしかに過去の夏の香がした

 輝ける空に心をつなぐため季節はずれのサンドレス選ぶ

 彗星の微光のごときヴェール曳き一足ごとに妻となる友

 一杯のグラスの水をユーリチャスの鉢と吾とで分け合う夏よ

 ここには病を背景として持ちながらも、世界へと差し伸べる手がある。特に二首目は歌集題名ともなった「紙ピアノ」という語句を含む歌で、「紙ピアノ」とは、その昔、ピアノが高価で一般庶民に手が出ない楽器であった頃、運指の練習に使われた鍵盤の模様を描いた紙のことである。紙ピアノはあくまで本物のピアノの代用品であり、鳴ることはない。音は出ないと知りながらもユモレスクを演奏するという行為には、絶望のなかにあってなお光へと向かう姿勢がある。重苦しい歌の並ぶ歌集を読み進んで、上のような歌に出会うと救われたような気がする。

 小中英之は宿命としての病気と連れ添う人生において、自らと切り離すことのできない病気という断面を通して世界を見つめることで、療養短歌を超える抒情の世界に到達した。伊津野も表現者ならば、病の彼方にあるものを目ざすべきだろう。

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