吉野裕之『砂丘の魚』
吉野の歌集を読むのは楽しい。歌のリズムに身を委ねていると、作者に導かれて角を曲がって路地に入ったり、橋を渡ったり、ビルの上に誘われたりして、ゆったりと町歩きしている気分になる。決して急がず歩調はあくまでゆっくりと、あちこちにおやという小さな発見や驚きがある。そんな感じがするのである。
いちじくの煮詰められゆく時間からことばをそっと選ぶあなたは歌に描かれた場面に流れる時間もコトコトと煮詰められてゆく無花果のようにゆるやかに流れているが、それを描く歌の時間(すなわち読者の読みの時間)もまた春の小川の流れのようにゆるやかである。
しかし吉野の歌の魅力を言葉で語ろうとすると、これが意外に難しい。今回歌集を一読して感じたことをいくつかのキーワードで語ってみよう。
ひとつめのキーワードは「文体」である。言うまでもないことだが、文芸のキモは文体にある。同じことを述べても、文体が違えばかたや文芸、かたや非文芸(つまり文芸のなり損ね)ということもある。
とても冷えた酒を注がれてゆくときを春の野菜が口の中にある吉野の文体はほぼ現代語の口語体で、定型は守りつつもいささかの破調は辞さないというスタンスである。『空間和音』が上梓されたのは1991年だが、『岩波現代短歌辞典』の巻末年表によると、1985年頃からライトヴァースをめぐる議論が盛んになり、『サラダ記念日』が出た1987年にはライトヴァースをめぐる議論が白熱とある。吉野の第一歌集『空間和音』もおそらくは、バブル経済を背景としどこか浮かれた世情と呼応するかのようなライトヴァースの流れのなかにある歌集と受け止められたにちがいない。だからこそ『空間和音』の出版記念会で、藤原龍一郎は「短歌の言葉に対する葛藤のなさ」に苦言を呈したのである。
六月のカステラの黄のやわらかさ肯うようにフオク刺しいつ
欠伸する犀を見ながら考える不思議なことだ扉の配置
そのままがいいと思えばそのままでいいのだけれど気になっている
確かに従来の近代短歌と比較すれば「ライト」な文体であるにはちがいない。しかしながらこのような文体であるからこそ表現できるものもある。それは「軽み」である。『日本国語大辞典』(小学館)によれば、「軽み」とは芭蕉俳諧の理念の一つで、庶民性、通俗性を高揚深化し、軽快、瀟洒、直截、平淡、卑近などを芸術化することで、卑近な事象に詩美をとらえた軽妙な風体、とある。
吉野の短歌の題材は徹底して卑近・平俗であり、大事件は決して詠まれることがない。それは吉野が日常の大事さを重んじていて、短歌は日常のささいなことを掬う器だと考えているからである。たとえば上に引いた歌では、冷えた酒を口に含んだときの印象、カステラの黄色、扉の配置、何か気になることが題材だが、いずれも日常の些事である。「軽み」の文体はこのように吉野の短歌観に根ざしたものだと言える。
このような詩魂を持つ吉野が俳句に接近するのは自然なことで、吉野は井上雪子・梅津志保らと豆句集『みつまめ』という楽しい豆本句集を定期的に作っている。たとえば次のような句がある。
谷中から手紙来てゐる冷奴次のキーワードは独特の「空間感覚」である。
午過ぎは大きな時間秋の貨車 2014年立冬号
落ちていて椿を逃げる形かな
グラジオラス老いたる影の真つ直ぐに 2015年立夏号
私に任せてほしい言い切ったときの背後のそら桔梗色吉野の歌には歌の核となる事象だけでなく、背景・遠景が描かれているものが多い。そしてなかには事象よりも背景・遠景のほうが重要な歌もある。たとえば上の一首目、誰かが「私に任せてほしい」と言った上句は近景だが、下句では突然遠景にパンして背後の空に焦点が当たっている。二首目では、影のように顔の見えない人を乗せた車の背後に、夏の花ダリアが咲き乱れている。三首目では、建て替え中の店の前を通り過ぎているのだろう。やはり背景が描かれている。四首目では、近景の夏草の遠景に国会議事堂が置かれているという具合である。
ダアリアが花を咲かせるかたわらを影を乗せたる自動車が過ぐ
建て替えの前をあわあわ過ぎてゆく店ネクタイを緩めるように
夏草は遠く国会議事堂を置きつつさやぐ暑き暑き日
パイプをくわえたひとが過ぎてゆく大きな窓は私の前
このように背景や遠景が描かれていることによって、歌の中に遠近感と奥行きが生まれ、歌がフラット化することを免れているとも言えるだろう。吉野は都市計画に関わる仕事をしているようなので、もともと空間的把握に秀でていることもあるかもしれない。しかしこれは以前のコラムでも触れたことだが、吉野は物事を固定的な視点から見ることを避けて、「何かが自分の前に形を取って立ち現れる」瞬間を大事にしているようで、歌にしばしば背景・遠景が描かれているのは、何かが立ち現れるにはその出現の〈場〉が要請されるからではないかと思う。
次のキーワードは「実体と影」である。吉野の歌はゴッホの油絵のような強烈な印象を与えるものではなく、色彩の淡い淡彩画を観ているように感じることがある。その理由はなんだろうと考えてみると、しばしば実体ではなくその影が描かれているか、実体と呼べるものがほとんど登場しないのである。
ブラインドに起重機の影が動いている誰に告げればいいのだろうか一首目ははっきりとブラインドに映る影である。実体が存在するから影ができる。ゆえに影は実体の存在を担保するはずなのだが、吉野の歌のなかでは必ずしもそうではなく、影のみとして在るかのようだ。二首目の花の影、三首目のプラタナスの影、四首目の本の影についても同じことが言える。五首目から七首目は、描かれている情景の中の実体の少なさが際立っている歌を並べてみた。五首目では確かに木の椅子はあるがただそれだけであり、後は風が吹いているだけだ。六首目になると青空に幼児の声が遠くに聞こえるだけで、実体と呼べるものはない。七首目も同様で、クローズアップされた「彼」と呼ばれる人の肩だけがあり、あとは背景としての雨のみという次第である。
靴先に確かめてゆく春の土あるいは花のやわらかな影
王様にならなくていいといわれたる少年のようなプラタナスの影
開かれてある一冊は膝の上に大きな影を抱くしばらく
ぼくたちの場所だったはずなのにもう木の椅子がある風が揺れる
遠くから聞こえていると思うけれど空の青さと幼子の声
夏めいてくる彼の肩ゆるやかにあるいははかなげに雨のなか
セレクション歌人シリーズの『吉野裕之集』に収録された「日常と真向かうための」という文章で、吉野は次のように書いている。
日常はいくつかの側面を持っている。たとえば、物理的側面、機能的(社会的)側面、記号的(文化的)側面といったことばで分けることができるだろう。そして、それぞれが多様な水準と相を持っている。(…)ものごとは、ひとつの視点だけで見通すことはできない。時間も空間も、けっして規則的に構成されているわけではない。日常と真向かうことによって、われわれはこうしたあたりまえのことを実感していく。吉野の歌では視点が固定されておらず、たった一人の〈私〉へと収斂することがないのは、このような事情によるものと思われる。また言うまでもなく「個性」で加藤克巳に師事した吉野は都市生活者のモダニストであり、本歌集はモダニストが詠んだ都市詠として読むこともできるだろう。
最後にもっとも印象に残った歌を一首挙げておこう。
向き合って夏の話をしていたり貨車はしずかに連結を待つ【お断り】吉野の「吉」の字は上が「士」ではなく「土」だが、テキスト形式では表示できないのでやむをえずこうしてある。ご寛恕を請う。