057:2004年6月 第4週 小島ゆかり
または、日常の風景のなかに〈私〉が〈私〉である不思議を歌う短歌

ゆふぞらにみづおとありしそののちの
     永きしづけさよゆうがほ咲(ひら)く

            小島ゆかり『月光公園』
 夕空にかすかに聞こえる水の音は、もちろん現実の音ではない。作者の心の耳に響く音であり、作者が天を仰いで聴こうとした音である。音がしてから長い時間がたち、夕顔の花がぽっかりと開いた。この夕顔は自分の庭に咲いた現実の花と解釈しても、心象を表現するための幻の花と理解してもよい。夕顔は別名黄昏草といいインド原産の植物で、その実はかんぴょうの原料として知られているが、夕暮れに大きく開く白い花を咲かせる。一首のほとんどを平仮名表記とし、四句目を八音に増音することで、二重に引き延ばされた時間の長さを表現している。この歌はふつうなら目には見えない時間の経過を具象化して詠むことに主眼があると見ることもできる。黄昏にぽっかりと咲いた夕顔の花は、何かの象徴のようでもありながら、即物的な花として一首を読んでも、そこには触れがたい不思議さの感覚が漂っていて、一読したら忘れることのできない歌である。また日常を詠いながらも、そのかなたにある目には見えないものを詠もうとする小島の詩的感性を、最もよく表わす一首でもある。

 小島ゆかりは1956年生まれだから、もう中堅歌人である。コスモス短歌会会員で宮柊二の指導を受けている。第一歌集『水陽炎』、第二歌集『月光公園』を皮切りに、『ヘブライ歴』、『獅子座流星群』、『希望』、『エトピリカ』と立て続けに歌集を上梓し、その他に歌論など著書も多い。

 『岩波現代短歌辞典』では、「自らの内的なものが生活のさりげない光景と出会う一瞬に生じる詩情を、清澄な感覚的表現を用いて端正に歌う歌人」(河田育子)と、『現代短歌事典』(三省堂)では、「平明穏和な言葉に芯の強い優しさがにじむ作風」「子育てや家事といった日常をモチーフとしつつ詩的に豊かに広がる世界」(川野里子)と評されている。的を射た評だとは思うが、どちらも代表歌としてあがっている歌がよくないのが残念だ。

 私は今回、『水陽炎』『月光公園』を合本にした雁書館の「2in1シリーズ」という便利な叢書で初めて小島の歌をまとめて通読したが、『水陽炎』で特に印象に残ったのは次のような歌である。

 闇に入りてさらなる闇を追ふごとき鳥いつよりかわが裡に棲む

 ものの影あはく揺れ合ふ春昼をひとつ光りてつばくらめ飛ぶ

 風かすか蜜を含みて天地(あめつち)のあはひ揺れをり花また人も

 炎昼を濡れゐるやうな石のうへ蜥蜴去りしのち緑金(りょくこん)の光(てり)

 帰り来し夫の背後に紺青(こんじやう)の夜あり水のにほひをもちて

 散薬の冥(くら)く降りゆく身の内の虚空をおもふ霜月の雨

 言葉遣いは端正・清澄で、歌の姿に無理がなく、言葉をいぢめることも定型を敢て歪めることもない。前衛短歌が駆使した奇抜な比喩、抽象語の使用、句割れや句跨りによる韻律の意図的破壊といったものも見られない。このような点において、優等生のコスモス的短歌である。あとがきによれば、『水陽炎』に収録する歌の選歌は、コスモスの先輩である高野公彦によったとある。確かにこれらの歌の味わいは、高野の短歌の開く世界と通じる所があり、同門の血を感じさせる。

 このようにある意味で平明で穏和な歌の姿なので、読む人の心の中にささくれを生じることがないのだが、その点が逆に歌の力のなさだと感じる人がいてもおかしくはないだろう。小島は自らの感情を強く押し出して歌にするという態度を採らない。燕の飛翔、走り去る蜥蜴、野に咲く花といった、日常誰もが目にする些細な事を素材として、そこにふと生じる感覚の更新、意識の小さな覚醒を歌に詠むのである。『水陽炎』は24歳から8年間に作った歌を収録しているので、なかには上にあげた一首目「闇に入りて」のように、自分の心に巣食う暗い面を詠う歌もあるのだが数は少ない。やがて就職・結婚・出産という人生の節目が小島を押し流してゆく。このような歌集の構成は女性歌人ならではのものだろう。

 集中には次のように、作者の心に湧く感情により重点の置かれた歌もある。

 灯をともし湯気を立たせて木枯しの夜はすつぽりと妻の座にをり

 家族とふがんじがらめの明るさの溢れかへつてファミリーレストラン

 明日へと繋がるものを育まずわれにいつまで細き二の腕

 一首目は妻となった自分の立場の安楽さを詠い、二首目には周囲に注がれた批評的眼差しが強く、三首目は結婚して子供ができない自分を嘆く歌である。しかし、やがて子宝に恵まれて出産して母となるというところで『水陽炎』は終っている。

 『水陽炎』ですでに明らかにされた小島の資質は、『月光公園』に至って全面的に開花したようだ。読みながら好きな歌に丸を付けていたら、あっと言う間に丸だらけになった。

 街路樹に暑のほてりあるゆふまぐれわが天秤は揺れはじめたり

 時間ふとゆるむおもひす蜂の屍のあたりに上(のぽ)る冬のかげろふ

 秋霊はひそと来てをり晨(あした)ひらく冷蔵庫の白き卵のかげに

 ペテルギウス氷(ひ)のにほひせりガラス窓(ど)に凭りつつはつか心臓燃ゆる

 時かけて林檎一個を剥きおはり生(き)のたましひのあらはとなれり

 ぶだう食む夜の深宇宙ふたり子の四つぶのまなこ瞬きまたたく

 在ることの貧を競ひてこの夜のわれとくれなゐいちご照らさる

 冷蔵庫に卵を並べたり、食卓でリンゴを剥いたり、子供とぶどうを食べるといった日常的な行為のなかに、日常からは離脱した場所にある死者の世界、目には見えない霊魂、果てしのない宇宙の深さを透かし見るところに、小島の短歌世界の真骨頂がある。歌に詠まれたリンゴは、リンゴであってリンゴでない。論理学の基本であるアリストテレスの同一律を侵犯するようなことが、短歌のなかでは平気に起きているわけだが、それは短歌の構成する世界がひとつの次元から成るものではないからである。私たちは短歌を読むときに、言葉を辿りながら一首の歌のなかに複数の次元を読みとり、それを想像力によって頭の中に再構成する。短歌に詠まれた複数の次元のあいだに乖離があればあるほど、私たちの心は爆風によって飛ばされたように遠い地平に着地することになる。それは例えばペテルギウスが輝く何万光年の宇宙のかなたであり、未生の前世であり、死者たちの眠る世界である。それをぽっかりと咲く夕顔や、道ばたにころがる蜂の死骸のような、具体的事物を導火線として実現するところに短詩型としての短歌の力がある。小島の短歌はこのような短歌の持つ〈複数次元性〉の潜在力を駆使しているのであり、現代短歌の到達したひとつの形と見てよいのである。

 このため小島の歌は一見静かで穏やかな歌でありながら、読む人の心のなかにしんと冷えた果実の核のようなものを残す。『月光公園』のあとがきに、「私が私であることの不思議をふかく覗き込んだ時期」であり、「世界に投げ出された者としての〈個〉の存在へのかなしみ」を詠ったとあるが、この小島の言葉は、「すべての人間は死といふものに向かつて時間の座標の上をゆつくりと (しかし確実に) 移動してゐる裸形の生命者」であるという高野公彦の言葉と遠く呼応して、私たちの心を打つのである。