145:2006年2月 第5週 小泉史昭
または、虚実皮膜のあわひに世界を照射する歌

ヤマト糊のたましひ失せて初恋の
      秘蔵写真が剥がれ落ちたり

         小泉史昭『ミラクル・ボイス』
 初恋の秘蔵写真というから昔の写真だろう。昔は厚紙の重いアルバムに糊づけして写真を貼り付けていた。使ったのがヤマト糊というこれまた懐かしいチューブ入りの伝統的な糊である。糊の効力がなくなったことを「たましひ失せて」と表現したところがこの歌の眼目である。デジタルカメラで撮影してパソコンのスライドショーで写真を見る現代と比較すると、情景自体がセピア色を帯びて見える。時代の流れに乗らず、むしろそれに抗う姿勢がこの作者の持ち味である。

 小泉史昭は1993年(平成5年)に「ミラクル・ボイス」で短歌研究新人賞を受賞している。その年の同時受賞は「陸封魚 – Island fish」の寺井淳であった。小泉と寺井という短歌巧者が並んで受賞し、ふたりとも口語ライトヴァースからは距離のある文語定型歌人であることもおもしろい。『ミラクル・ボイス』は1996年刊行の第一歌集で、塚本邦雄が跋文を寄せている。作者あとがきには、「事実」と「虚構」の二面性に惹かれるものがあり、自分にとっての短歌とは真実らしい嘘を語ることだと述べられているが、この表白から逆照射して考えれば、掲出歌の光景も実際に作者の身に起きたことというよりは、何かを核として創作された出来事だろうと想像される。核はたぶん「ヤマト糊」だろう。

 虚実皮膜という作者の信条から推察されるように、この歌集には写実に基づくリアリズムの歌というものがなく、どの歌にも何かの仕掛けが施してある。言葉は心情の忠実な記号であるよりは、虚実皮膜の世界を構築するレンガ材料として用いられている。たとえば次の歌を見てみよう。

 [1] 塀の中のマナーといふにあらざれど安倍譲二氏のフォークさばきは

 [2] 脂つこい茂吉の歌の匂ひする土用丑の日うなぎ屋の前

 [3] ミレー展みて人並みに涙せりつねあらそひの種まく人も

 [4] 沢庵にのこる歯形の三日月が冴えてこころの中天暗し

 [5] ブルース・リー「死亡遊戯」に斃れたる後の替へ玉の名を知らざりき

 [6] 愛に飢ゑゐし記憶の視野にふりしきる雪よ林檎の歯形錆色

 [7] 身の置きどころなき三階の鉄の扉を叩けりきまぐれに秋風(しうふう)が

 [1] の安倍譲二は1987年に刑務所生活を活写した『塀の中の懲りない面々』で作家の仲間入りをした人であり、上句はこの経歴を踏まえている。フォークさばきが上手だとすれば、それは服役経験の故ではなく、裕福な家庭に生まれ日本航空のパーサーをしていたためだろう。[2] は斎藤茂吉が無類の鰻好きだったことを踏まえている。鰻の脂っこさと茂吉の短歌に時に見られる執拗さを対比したもの。[3] はもちろんミレーの名作「種まく人」を踏まえており、常日頃争いの種をまく人もミレーの名作には涙するという皮肉が込められている。[4] は何かを踏まえているわけではないが、沢庵に残る三日月形の噛み跡を蝶番のように上句と下句のあいだに配置し、「こころの中天」へと繋げる技巧が心憎い。[5] は香港のアクションスターのブルース・リーが映画「死亡遊戯」の撮影中に死亡し、映画の残りは替え玉を起用して撮影したという逸話に基づいている。もちろん替え玉俳優はクレジットにも名前が出ず、その後忘れ去られたのだが、その様があわれだと言っているのである。[6] は誰でも知っている北原白秋の歌が下敷きになっているが、「雪よ林檎の香のごとく降れ」と清新な抒情を詠う本歌と異なり、林檎には変色した歯形がついているという下げ落ちである。[7] の「三階」は「三界」のもじりで、仏教用語では「欲界」「色界」「無色界」をさす。それをマンションの三階という日常卑近な場にスライドさせたところがこの歌の眼目である。

 作者の歌の作り方は、言葉を組み立てて虚実皮膜の世界を作り上げ、そこに現実世界を捻る皮肉と微量の毒を混入するというものであり、塚本風の言い回しを用いれば「一首の苦みは絶後」ということになる。尾崎豊のように校舎のガラス窓を割って回るがごとく世界に徒手空拳でぶつかって自らも血を流すような青春の青さからはほど遠く、虚実皮膜の世界というフィルターを中間に仕掛けそれを通して世界を眺めているため、その距離の取り方が大人の余裕となって現われている。しかし一方では、そのように虚実皮膜の世界というフィルターを介在させているために、「世界と直接向き合っていない」という批判を受けることもあるだろう。だが物事は世界がそうであるようにそれほど単純ではない。

 [8] 韋駄天のやうに時代を駆け抜けしエリマキトカゲのその後をしらず

 [9] 大観展真つ正面の三題の「霊峰富士」にふる酸性雨

 [10] 光琳派もどきの梅に鶯がこころゆくまで微温的なり

 [11] ポインターそこに座したりしかすがに胸糞わるきその忠義面

 [12] 手に職をできることなら金輪際涸れることなき水芸を手に

 [13] 空車てふむなしきくるまを呼び止めつ次のわれらの防御線まで

 [14] 春霞たなびく遠(をち)の山並とむらさき競ふ掌のシガレット 

 [15] ビニ本の封印かたし 春灯のおよばざるわれのこころの闇

 [16] むらぎもの値「時価」とかきさらぎの割烹に吊るし切りの鮟鱇

 [17] 生ビールもわれの心も「冷えてます」朱夏革命の兆しなければ

 [18] ルーズソックス 国の綱紀と軌を一にして真少女のあしもと紊(みだ)る

 主に痛烈な皮肉と社会批判を込めた歌を引いてみた。[8] のエリマキトカゲは1984年に自動車メーカーのCMで人気を呼び、その後急速に忘れ去られた珍獣である。持ち上げては捨て去るマッチポンプのような消費社会への皮肉が込められている。横山大観の描く富士山にも降る酸性雨、花鳥風月に安住する微温性、犬の忠義面も作者の皮肉の餌食となる。[12]はリクルートスーツに身を固めて就職活動に奔走する若者を詠んだもの。[14]には「国際喫煙デー」という詞書が添えられている。もちろんそんな記念日は存在しない。実際にあるのは「国際禁煙デー」(5月31日)である。[15]は「こころの闇」という最近よくマスコミで用いられる大仰な表現を、隠れてビニ本を購入する自分の姿に当てはめることで脱神話化しようとしている。鮟鱇の吊し切りを詠んだ歌は多いが、[16]では鮟鱇の肝と「むらぎもの」を枕詞とする「心」の値とを同時に詠み込んだ点がおもしろい。このような歌にあっても小泉の言葉を操る手つきは練達で破綻がなく、必死で作ったという感じがまったくしない。掛詞・序詞など和歌の技法も駆使して言葉を扱う手つきに大人の余裕が感じられる。

 かといって小泉は虚実皮膜の盾に隠れて矢を放つばかりではない。私が好きな次のような歌には、技巧に溺れることなく現実の些事を弾機として立ち上がる上質の抒情がある。

 [19] 超音波めがね洗浄器のなかの水にもそつと春が来てゐる

 [20] 韓国産松茸飯にほんのりと電気炊飯器ジャーが秋の香

 [21] 物差しではかるたましひ一寸にいくらか足りぬ皿の白魚

 [22] 茶碗蒸しに銀杏ひとつづつ載りて無為に過ぎゆくそれぞれの秋

 [23] 酢につかる生牡蠣の身のモノトーンなど薔薇色の夢見ざりけむ 

 [19] は超音波めがね洗浄器のようなマイナーなアイテムに春の抒情を感じさせた点が秀逸。[20] は韓国産松茸という所に高価な国内産を買えない庶民の哀感があり、その香りがほのかに電気釜に移るというところが泣かせる。小泉が使う「たましひ」という語は、[21]のようにしばしば物質化されている。ここでは春を告げる白魚である。[23]は白と黒の牡蠣の身の色をモノトーンと表現し、外見に似合わず極彩色の夢を見ているかもしれないという想像が楽しい。

 いかに飄逸に振る舞い寸鉄をきかせた言葉を吐こうとも、小泉の歌人としての本質は次のような歌に表われているように思われるのだがどうだろうか。

 鎮魂歌(レクイエム)すなはちおのが魂をしづめむとして夜の水中花

 薄氷に足を滑らせたる不覚しかうしてわれ世紀をまたぐ

藤原龍一郎の駆使するギミックほどではないが、小泉のような歌のスタンスは〈私〉のリアルを重視する短歌界ではあまり評価されないかもしれない。しかしその苦みの混じる味わいと大人の風合いは抜群である。近く第二歌集をまとめると聞く。今度はどんな虚実の世界を展開してくれるのか今から楽しみだ。