底にゆられてわがかえる村
山崎方代
日本の詩歌には風狂と漂泊の伝統がある。佐藤義清改め西行は、取りすがる妻子を足蹴にして出家し、詩歌の道に身を投じた。唐木順三が『無用者の系譜』(筑摩叢書)で取り上げたのは、「身を用なき者に思ひなし」た在原業平と惟喬親王であった。近くは自由律俳句の種田山頭火と尾崎放哉の例がある。山崎方代もまた、まちがいなく現代の風狂の系譜に連なる歌人である。
1914年に生まれ、先の大戦でチモール島クパンの戦闘で右目を失明、左目も0.01の弱視となり生還。生涯定職につかず家族も持たず、鎌倉の草庵に暮して1985年に没する生涯は、まさに「無用者」のそれである。
こんなにも湯呑茶碗はあたたかくしどろもどろに吾はおるなり
こんなところに釘が一本打たれいていじればほとりと落ちてしもうた
甲州の柿はなさけが深くして女のようにあかくて渋い
仕舞湯に漬け込んでおきし種籾がにっこりと笑って出を待っている
茶碗の底に梅干の種が二つ並びおるああこれが愛と云うものだ
寂しくてひとり笑えば茶ぶ台の上の茶碗が笑い出したり
岡井隆は山崎の歌に感じられる懐かしさのようなものは、長くこの列島に住んで農業に従事してきた文化の懐かしさであると論じている(『現代百人一首』朝日新聞社)。確かにここに詠われた甲州右左口郷(うばぐちむら)への望郷の念、卓袱台と種籾のある風景は、農家の庭先に柿が実る日本の農村の風景を既視感のように描き出している。しかし、それは障害者として復員した方代が、戦後復興と高度成長から疎外された者として後半生を生きたことの裏返しであることも忘れてはならないだろう。
方代の短歌は、定型と口語使用の混淆と評されることがある。確かに全体として短歌の定型の枠内にはあるのだが、随所に「落ちてしもうた」「並びおる」「愛と云うものだ」のような口語が顔を出す。口語と言っても俵万智以後の口語短歌のような若者言葉ではなく、どちらかというと田舎臭い老人の口語である。それが歌に何とも言えない苦みを含んだペーソスと軽みを与えていて、方代の歌が広く愛誦される理由のひとつとなっている。
没後、『方代研究』という研究誌が刊行されており、坂出裕子『道化の孤独 歌人山崎方代』(不識書院1998)、田澤拓也『無用の達人 山崎方代』(角川書店2002)、大下一真『山崎方代のうた』(短歌新聞社2003)など研究書の刊行も相次いでいる。確かにぎすぎすした現代の管理社会に生きる私たちにとって、方代のような一所不住と漂泊の風狂の人生は魅力あるものと映るのかも知れない。
方代は岡野桂一郎に勧められてフランスの泥棒詩人フランソワ・ヴィヨンの詩集を知り、擦り切れるほど愛読したという。鈴木信太郎訳の『ヴィヨン詩鈔』である。
フランソア・ヴィヨンの詩鈔をふところに一ッ木町を追われゆくなり
気分はもう泥棒である。ヴィヨンに影響されて次のような歌まで作っている。
宿無しの吾の目玉に落ちて来てどきりと赤い一ひらの落葉
どうも方代は自らをヴィヨンになぞらえる意図があったようだ。また私生活ではなかなかのお洒落で、まとまった金が入ったときに白い麻のスーツを誂えたという。玉城徹が指摘するように、方代には自己演出があり、「自分の作品世界のなかに<方代>という象徴的主体を設定して、さらのその主体を現実生活の中でみずから演じて見せた」ということなのかもしれない。それは障害者として復員し、戦後の日本に居場所を持たなかった方代の、自己を失わずに生き延びる方法論でもあったにちがいない。短歌は人にこのような生きる場所を与えることもある。