第109回 フラワーしげる

南北の極ありて東西の極なき星で煙草吸える少女の腋臭甘く
             フラワーしげる「ビットとデシベル」
 久し振りに驚いて一人書斎で「エエッー!」と声を上げる経験をした。「かばん」の今年の6月号を拾い読みしていたときのことである。
 「かばん三兄弟」という小特集が組まれていた。それによると1999年頃、「かばん」所属の植松大雄、千葉聡、中沢直人の若手三人組は歌会から帰る方角が同じなのでよくいっしょに行動していて、「かばん三兄弟」と呼ばれていたそうだ。現在では、山田航、法橋ひらく、伊波真人の三人が「新かばん三兄弟」だという。そんな思い出を書き綴る千葉の文章を読んでいると、「西崎憲がフラワーしげるを名乗るずっと前」というくだりに出くわした。フラワーしげるって西崎憲のことだったのか! これには驚いた。西崎の小説はずいぶん前に読んだことがあったからである。
 西崎はもともとミュージシャンだが、レコードレーベルの主宰と幻想文学の翻訳家という顔も持っており、2002年に『世界の果ての庭』で第14回日本ファタンジーノベル大賞を受賞している。私は書評に惹かれて買い求めて読んだのである。なかなかよくできたファンタジーだと感じた印象以外の記憶は残っていない。この本は今でも書架のどこか奥の方を探せば見つかるはずだ。
 その西崎が最近また小説を出した。短編集『飛行士と東京の雨の森』(筑摩書房)である。置いているかなと近所の書店に行ったら、文芸の棚に平積みしてあり、書店員の手書きポッブまで添えられていて驚いた。買い求めてすぐに読んだが、なかなかよい。特に本書の3分の1を占める「理想的な月の写真」に感心した。主人公の所にある日、自殺した娘のためにCDを作ってほしいという依頼が来る。参考にしてくれと届けられたのは、子供の頃に住んでいた地方の写真、祖母からもらったリュシアン・ルロン作と思われるドレス、教会のステンドグラスを見上げる娘と覚しき写真、母親の実家にあったステンドグラスの欠片、陶製のインデアン娘の人形、文鳥の羽、オルゴールのシリンダー、シモーヌ・ヴェイユの『重力と恩寵』、盲目の写真家コスタ・バルツァの写真集『理想的な月の写真』というばらばらな遺品と、「娘の日記に世界が怖いと書いてあったので、世界は怖いものではないことを教えてやってほしい」という依頼者の希望であった。主人公はこの10のアイテムをめぐって調査し友人に相談し思案をめぐらせて、最後に首尾良く依頼者の希望に叶うCDの制作に漕ぎ着けるという筋である。
 いつも小糠雨が降っているような静かな小説で、特に次の哲学的なくだりが印象に深く残った。
「確かに真に重要なものには人間は決して手を触れられないだろう。世界はそんなもので溢れている。そんな不可知にものに。けれど、人間はそれらとダンスを踊らなくてはならない。だとしたら、不可知と踊ることを楽しまなければならない。うまく踊れた時、その時に不可知のもうひとつの名前がはっきりするだろう。たぶんそれは普遍という名であるはずだ。」
 さて西崎のもうひとつの顔のフラワーしげるである。フラワーしげるは2007年の第5回歌葉新人賞選考において「惑星そのへん」で候補作品に選ばれ、その後、2009年の短歌研究新人賞で「ビットとデシベル」が候補作に選ばれて衝撃のデビューを果たした。この年の新人賞は「ナガミヒナゲシ」のやすたけまりである。フラワーしげるは新人賞は逃したが、応募作の異様な文体によって注目を浴びることになった。
工場長はきびしい言葉で叱責し ぼくらは静かに未来の文字を運んだ
壁面をなだれおちるつるばらに音はなく英国のレスラー英国の庭にいる
小さなものを売る仕事がしたかった彼女は小さなものを売る仕事につき、それは宝石ではなく
ただひとりの息子ただひとりの息子をもうけ塩のなかにあるさじの冷たさ
ここが森ならば浮浪者たちはみな妖精なのになぜいとわしげに避けてゆく美しい母子よ
振りかえると紙面のような人たちがとり囲み折れているところ破れているところ
ビットとデシベルぼくたちを明るく照らし薬指に埋め込んで近づいていく
 選考会では加藤治郎が一位に推し、「不条理な現代に生きる人々の静かな反攻と苦い官能がモチーフで、メタファーの深度は群を抜いている」と強力にプッシュしたが、他の委員の議論は次の2点に集中した。昭和初頭と20年代に口語の長い短歌が登場したがそれとどうちがうかという点と、あえて定型を壊すだけの詩的必然性が感じられるかという点である。ラップを思わせるところがあるという選考委員の指摘にたいして、定型を流動化させるところにこの人のモチーフがあると加藤が感想を述べ、五七五七七の句の中にどれだけ情報量を増やすことができるか試みをしているのではないかと穂村は応じている。
 フラワーしげるは翌2010年にも短歌研究新人賞に「世界の終わりとそのとなりの社員食堂」30首で応募した。
小さく速いものが落ちてきてボールとなり運動場とそのまわりが夏だった
数人の靴ひもをあわせて結んでぼくたちはかれを降ろして世界を救った
ぼくらはシステムの血の子供で誤字だらけの辞令を持って西のグーグルを焼き払った
持つものも持たざるものもやがてやってくる花粉で汚れた草の姫の靴
謁見の時間となるが部屋干しの王の下着まだ乾かず
網から逃げてゆく人間が手にもつビニール袋に見える人間
 選評で注目されるのは、四首目では「やがて」か「やって」のどちらかを取れば定型になるがそうすると失われるものがあり、ここに「やって」を入れるのがこの作者の世界なのだという穂村の指摘である。穂村は続けて、この作者の世界は結局は散文性で、そこに詩的資産が投入されているため、短い小説のように見えてしまうと述べている。穂村らしいなかなか鋭い指摘である。
 同人誌『率』創刊号 (2012年)は、作者自身に自選歌5首の批評を書かせるという試みをしていて、フラワーしげるも自選歌に対してまるで他人のように3人称で批評を書いている。フラワーしげるの自己分析は以下の通りである。現代短歌はリアリズムを選択したときに、ある矛盾を抱え込むことになった。リアルな生活感情を歌に盛り込むためにはリアリティーのある身近な言葉を用いる必要があるが、その反面、記憶を容易にして歌に固有の呪的性格を持たせるためには定型韻律と反復性を守らなくてはならないという矛盾である。それを前提としてフラワーしげるは何を模索しているかと言うと、神話的回帰へと意図的なアプローチをすることで内容面で呪詞的要素の濃い歌を作る一方、韻律面では非定型へとはみ出して記憶に不向きなものにしている。つまり、内容において呪詞に付き、韻律面では呪詞から離れるという、大方の現代短歌とは逆の方向をめざしているというのである。
 フラワーしげるのやたらに長い短歌がひとりでに出来たものではなく、ある意図に基づいて制作されたものであることがこれでわかるだろう。「内容において呪詞に付く」というのは、フラワーしげるが小説家であることから容易に理解が及ぶ。同じ小説家といっても、フラワーしげるは私小説ではなく、『飛行士と東京の雨の森』の粗筋の紹介で触れたように、「世界」「普遍」「不可知とダンスを踊る」というような言葉を使う小説家である。日常の些事ではなく世界観を問題にするのである。一方、「韻律面では呪詞から離れる」動機を本人は詳らかにしていないが、それは内容面の選択の反作用と思われる。短歌に世界観を盛り込むには定型は短すぎ、どうしてもそこに散文性を導入しなくてはならない。勢いフラワーしげるの短歌は穂村が指摘したように、短い小説のように見えてしまうのである。これは昭和初期に登場した長い口語短歌の志向性とはまったく異なる動機に基づくものと言えよう。フラワーしげるが現代短歌シーンにおいて異彩を放つ理由がそこにある。
 ここで掲出歌「南北の極ありて東西の極なき星で煙草吸える少女の腋臭甘く」に戻って見てみよう。韻律的には「南北の / 極ありて東西の / 極なき星で / 煙草吸える / 少女の腋臭甘く」と区切ると、五・十・七・六・十の38音で字余りだが、定型をまったく無視しているわけではなく、定型を意識しつつ少しずつずらしている。だからある韻律意識を持って読むことが可能である。この揺らぎの部分をどう感じるかは人によってちがうだろう。その揺らぎが内容面の散文性を支える方向で働いている歌は、十分に短歌として読めると思う。
 フラワーしげるのこの方向性がどのような地点に行き着くのかは予断を許さない。フラワーはその後短歌研究新人賞などには応募しなくなったようだが、またどこかで近作を読みたいものだ。そう強く思う。