第167回 フラワーしげる『ビットとデシベル』

性器で性器をつらぬける時きみがはなつ音叉のような声の優しさ
              フラワーしげる『ビットとデシベル』
 ついにフラワーしげるの歌集が出た。これは取り上げて論評せずばなるまい。「新鋭歌人シリーズ」を出している書肆侃侃房から「現代短歌シリーズ」の刊行が始まっていて、フラワーしげるの歌集はこの一巻として上梓された。ちなみにこのシリーズからは、千葉聡『海、悲歌、夏の雫など』、松村由利子『耳ふたひら』、笹公人『念力ろまん』、佐藤弓生『モーヴ色のあめふる』がすでに刊行されている。出版のテンポといい歌人の顔ぶれといい、書肆侃侃房は文句なしに今いちばん元気のある歌集出版社である。
 さて、フラワーしげること西崎憲は、「かばん」購読会員を自称しており、「かばん」を購読はしているが、短歌の寄稿はしていない。フラワーしげるが短歌シーンに登場したのは、2007年『短歌ヴァーサス』11号の第5回歌葉新人賞の応募作品「惑星そのへん」である。「フラワーしげる」という人を食った筆名と同様に、「惑星そのへん」というタイトルも実に適当だ。ちなみにこのとき荻原裕幸が「短歌にたいする悪意を感じる」と選評に書いているが、本人はそんなつもりは微塵もなかったので、これを読んでびっくりしたという。
 フラワーしげるは続いて、2009年の短歌研究新人賞に「ビットとデシベル」、翌2010年に「世界の終わりとそのとなりの社員食堂」、2014年に「二十一世紀の冷蔵庫の名前」で応募し、候補作まで残ったが受賞は逃している。今回の歌集はそれらの応募作品を中心に編まれたものと思われるが、『短歌研究』誌に応募作品の全数が掲載されているわけではないので確認はできない。
 一読して気づくのは、短歌研究新人賞応募作には含まれていたのに、歌集を編む際に落とされた歌がたくさんあることである。
ただひとりの息子ただひとりの息子をもうけ塩のなかにあるさじの冷たさ
                      「ビットとデシベル」
死の影には驚くところはなにもなくただ病院の廊下をやってきて連れていった
南北の極ありて東西の極なき星で煙草吸える少女の腋臭甘く
ここが森ならば浮浪者たちはみな妖精なのになぜいとわしげに避けてゆく美しい母子よ
待つものも待たざるものもやがてくる花粉で汚れた草の姫の靴
                「世界の終わりとそのとなりの社員食堂」
この機は黒いヒタチだと痩せた声が言いエレベーター狩りの子ら去る
むかしガールスカウトを失格したきみの肩がプールをすこし隠して
網から逃げてゆく人間が手にもつビニール袋に見える人間
棄てられた椅子の横を通りすぎる 誰かがすわっているようで振りむけない
                    「二十一世紀の冷蔵庫の名前」
オレンジのなかに夜と朝があって精密に世界は動いていた 私はそこで生まれた
わたしが世を去るとき町に現れる男がいまベルホヤンスク駅の改札を抜ける
 もったいないなあと思う。いずれもフラワーしげるの歌の中でも良質なものだからだ。邪推するならば、「ビットとデシベル」で落とされた歌は、新人賞の選評で取り上げられた歌で、選考委員によってあれこれ分析されたため、色が付くことを嫌って落としたとも考えられなくはない。「ビットとデシベル」の三首目「南北の」は前回フラワーしげるをこのコラムで取り上げたときに掲出歌として選んだもので、「世界の終わりとそのとなりの社員食堂」の三首目「むかしガールスカウトを」も抒情的で好きな歌だ。落とされたのが残念でならない。
 「ビットとデシベル」の選考会で加藤治郎は、フラワーしげるの短歌は思想詠であると規定し、過去の口語自由律短歌とのちがいがどこにあるかと言うと、たとえば前田夕暮のころは、自分の生活感情を忠実に再現したいという動機があったが、フラワーしげるの場合は、はなから自分の生活感情を表現したいなどとは思っていない点だと述べている。また、「世界の終わりとそのとなりの社員食堂」の選評で穂村弘は、フラワーしげるの歌は結局は散文で、短歌に散文的資産が投入されているのではなく、散文に詩的資産を投入したものだと述べ、短い小説のように見えてしまうと締めくくっている。いずれも鋭い指摘であり、加藤と穂村の指摘をメルクマールとして以下に論を進めたい。それは「なぜフラワーしげるの短歌は長くなるのか」という問いである。
 この点で自由律俳句は自由律短歌と逆のベクトルを示しているのがおもしろい。自由律俳句は17音より短くなることを指向する。ミニマリスムに傾斜するためである。
墓のうらに廻る  尾崎放哉
春風の思い扉だ  住宅顕信
 逆に自由律短歌は31音よりも長くなるのが通例である。しかしそうはいってもフラワーしげるの短歌の長さは群を抜いている。次の歌など48音もある。
小さなものを売る仕事がしたかった彼女は小さなものを売る仕事につき、それは宝石ではなく  『ビットとデシベル』
 しかしこれだけの長さがあっても散文になっていないのは、「小さなものを売る仕事」が二度反復されることで内的なリズム感が滲み出るからだろう。呪文や民謡や唱歌を例に引くまでもなく、反復は詩的言語の原初的特性である。反復されることで言語は意味のくびきから解放されて、音の位相を自由に羽ばたく。
 さて、ではなぜフラワーしげるの短歌は長くなるのだろうか。穂村の指摘するように、短編小説を短歌の詩型に押し込もうとしたならば、31音に入る意味量には限界があるので、はみ出すのは当然だと考えることもできる。ではもう一歩進めて、なぜフラワーしげるは短編小説を短歌の詩型に押し込めようとするのだろうか。それはつまるところフラワーしげるが「セカイ系」だからではないだろうか。
 「セカイ系」とは、2000年代の初めころからサブカルチャーを論じるネット批評などを中心に使われるようになった用語で、〈私〉を巡る恋愛や悩みといった個人的問題が、世界的規模の最終戦争とか、宇宙からの来襲による地球の危機などの、個人を超えた人類レベルの問題に直結する物語群を指すとされている。中学生がある日気づいたら、人類の命運の鍵を握る戦士になっていたというような物語である。
 近代短歌の中核は〈私〉すなわち「個」であり、〈私〉が日々暮らす中でぶつかる問題や心情を詠むのが王道である。〈私〉の周囲には〈あなた〉や家族・学校・職場などがあり、これらは「近景」を構成する。「近景」のもう少し先には「中景」がある。「中景」は近景より少し大きなレベルの視野で、地域や国家が射程に入り、国と国との政治的摩擦や国を超えた環境問題や生物保護などもある。追い込み漁で捕獲したイルカを水族館で飼うことができなくなったなどというのは、典型的な中景問題である。その先にあるのが「遠景」で、もっと大きな世界史的レベルの出来事や世界経済・イデオロギー・思想・宗教がこれに属し、その特徴は生活実感から遠く抽象的だという点にある。「セカイ系」とは、「近景」が「中景」をすっとばして、いきなり「遠景」に接続する物語だと定義できるだろう。
 「セカイ系」という言葉ができてかれこれ15年経過して、この用語が意味する風景が日常普通に見られるようになったことに驚く。そのひとつは「世界観」という用語の氾濫であり、いまひとつは音楽グルーブ「SEKAI NO OWARI」のような、まるでRPGのような楽曲が人気を博していることである。
 フラワーしげるの短歌がこの流れの中にあるとは思わないけれども、西崎憲時代にファンタジーを書いていること、また近作の小説『飛行士と東京の雨の森』も大人向けの童話のような味わいがあることを考えても、フラワーしげるが近代短歌・私小説・自然主義と対局に位置していることは明らかである。「セカイ系」で行こうとしたら、一首の中にひとつの世界を作り出さなくてはならない。バラメータの設定が必要になるのだ。
登場人物はみなムク犬を殺したことがある 本の向こうに夜の往来を見ながら
ぼくらはシステムの血の子供 誤字だらけの辞令を持って西のグーグルを焼きはらう
底なしの美しい沼で泳ぎたいという恋人の携帯に届く数字だけのメール
 一首目、不吉な小説か芝居のト書きのようで、ここでは上句と下句の接続不良が詩的圧縮を生み出している。夜の往来を見ながらムク犬を殺すのではなかろうから、下句には夜の往来を見ている別の主体が想定されているのだろう。二首目は最も設定効果が高い歌のひとつで、「システム」「西のグーグル」あたりに近未来的SFが透けて見える。三首目は、底なしの美しい沼で泳ぎたいと言っているだけで、別に恋人がほんとうに底なしの美しい沼にいるわけではないのだが、上句の光景が残像のように残って下句の意味を支配する。確かにボエジーはまぎれもなく、まるで往年の夢の遊眠社の舞台で幕切れに野田秀樹が叫ぶ詩的な科白を思わせる。
 かと思えば掲出歌や、次のように設定より抒情が勝る歌もある。私はこういう世界を愛しているので、もう少しこのラインの歌があればとも思う。
小さく速いものが落ちてきてボールとなり運動場とそのまわりが夏だった
夜の回送電車ゆっくりと過ぎひとりで乗っている死んだ父
アコーディオンは昼の光に 捨てるから庭でそのまま父は弾く
 野田秀樹のことを書きながら考えたのだが、フラワーしげるのやたら長い短歌は舞台での朗読に向いているのではないだろうか。近代短歌の31音の韻律に縛られないフラワーしげるの短歌を、緩急・強弱のリズムを付けて朗読したら、紙の上で読んでいるときとはまたちがったボエジーが生まれるような気がする。また緩急を付けることによって、ひょっとしたらふつうに朗読した場合の31音の尺になんとか収まるかもしれないなどと考えたりもするのである。

【余談】
 穂村弘の近刊『ぼくの短歌ノート』(講談社)を購入したら、表紙ともう一枚紙をめくった場所に、「はいしゃにいっていませんね?」という文と著者のサインが万年筆で書かれていた。インク吸い取り用紙まで挟んであるので、直筆だと思われる。穂村ほどの人気作家ならば、初版3000部は印刷するだろうが、ひょっとして全部に直筆で書いたのだろうか。それとも何冊かだけに書いてあって、当たった人はラッキーなのだろうか。また、全部に同じ文句を書いたのではなく、一冊一冊書く文句を変えたのだろうか。ちなみに「はいしゃにいっていませんね?」を読んでドキッとした。そういえば最近さぼって歯医者に定期検診に行っていない。どうして知っているのだろう。

第109回 フラワーしげる

南北の極ありて東西の極なき星で煙草吸える少女の腋臭甘く
             フラワーしげる「ビットとデシベル」
 久し振りに驚いて一人書斎で「エエッー!」と声を上げる経験をした。「かばん」の今年の6月号を拾い読みしていたときのことである。
 「かばん三兄弟」という小特集が組まれていた。それによると1999年頃、「かばん」所属の植松大雄、千葉聡、中沢直人の若手三人組は歌会から帰る方角が同じなのでよくいっしょに行動していて、「かばん三兄弟」と呼ばれていたそうだ。現在では、山田航、法橋ひらく、伊波真人の三人が「新かばん三兄弟」だという。そんな思い出を書き綴る千葉の文章を読んでいると、「西崎憲がフラワーしげるを名乗るずっと前」というくだりに出くわした。フラワーしげるって西崎憲のことだったのか! これには驚いた。西崎の小説はずいぶん前に読んだことがあったからである。
 西崎はもともとミュージシャンだが、レコードレーベルの主宰と幻想文学の翻訳家という顔も持っており、2002年に『世界の果ての庭』で第14回日本ファタンジーノベル大賞を受賞している。私は書評に惹かれて買い求めて読んだのである。なかなかよくできたファンタジーだと感じた印象以外の記憶は残っていない。この本は今でも書架のどこか奥の方を探せば見つかるはずだ。
 その西崎が最近また小説を出した。短編集『飛行士と東京の雨の森』(筑摩書房)である。置いているかなと近所の書店に行ったら、文芸の棚に平積みしてあり、書店員の手書きポッブまで添えられていて驚いた。買い求めてすぐに読んだが、なかなかよい。特に本書の3分の1を占める「理想的な月の写真」に感心した。主人公の所にある日、自殺した娘のためにCDを作ってほしいという依頼が来る。参考にしてくれと届けられたのは、子供の頃に住んでいた地方の写真、祖母からもらったリュシアン・ルロン作と思われるドレス、教会のステンドグラスを見上げる娘と覚しき写真、母親の実家にあったステンドグラスの欠片、陶製のインデアン娘の人形、文鳥の羽、オルゴールのシリンダー、シモーヌ・ヴェイユの『重力と恩寵』、盲目の写真家コスタ・バルツァの写真集『理想的な月の写真』というばらばらな遺品と、「娘の日記に世界が怖いと書いてあったので、世界は怖いものではないことを教えてやってほしい」という依頼者の希望であった。主人公はこの10のアイテムをめぐって調査し友人に相談し思案をめぐらせて、最後に首尾良く依頼者の希望に叶うCDの制作に漕ぎ着けるという筋である。
 いつも小糠雨が降っているような静かな小説で、特に次の哲学的なくだりが印象に深く残った。
「確かに真に重要なものには人間は決して手を触れられないだろう。世界はそんなもので溢れている。そんな不可知にものに。けれど、人間はそれらとダンスを踊らなくてはならない。だとしたら、不可知と踊ることを楽しまなければならない。うまく踊れた時、その時に不可知のもうひとつの名前がはっきりするだろう。たぶんそれは普遍という名であるはずだ。」
 さて西崎のもうひとつの顔のフラワーしげるである。フラワーしげるは2007年の第5回歌葉新人賞選考において「惑星そのへん」で候補作品に選ばれ、その後、2009年の短歌研究新人賞で「ビットとデシベル」が候補作に選ばれて衝撃のデビューを果たした。この年の新人賞は「ナガミヒナゲシ」のやすたけまりである。フラワーしげるは新人賞は逃したが、応募作の異様な文体によって注目を浴びることになった。
工場長はきびしい言葉で叱責し ぼくらは静かに未来の文字を運んだ
壁面をなだれおちるつるばらに音はなく英国のレスラー英国の庭にいる
小さなものを売る仕事がしたかった彼女は小さなものを売る仕事につき、それは宝石ではなく
ただひとりの息子ただひとりの息子をもうけ塩のなかにあるさじの冷たさ
ここが森ならば浮浪者たちはみな妖精なのになぜいとわしげに避けてゆく美しい母子よ
振りかえると紙面のような人たちがとり囲み折れているところ破れているところ
ビットとデシベルぼくたちを明るく照らし薬指に埋め込んで近づいていく
 選考会では加藤治郎が一位に推し、「不条理な現代に生きる人々の静かな反攻と苦い官能がモチーフで、メタファーの深度は群を抜いている」と強力にプッシュしたが、他の委員の議論は次の2点に集中した。昭和初頭と20年代に口語の長い短歌が登場したがそれとどうちがうかという点と、あえて定型を壊すだけの詩的必然性が感じられるかという点である。ラップを思わせるところがあるという選考委員の指摘にたいして、定型を流動化させるところにこの人のモチーフがあると加藤が感想を述べ、五七五七七の句の中にどれだけ情報量を増やすことができるか試みをしているのではないかと穂村は応じている。
 フラワーしげるは翌2010年にも短歌研究新人賞に「世界の終わりとそのとなりの社員食堂」30首で応募した。
小さく速いものが落ちてきてボールとなり運動場とそのまわりが夏だった
数人の靴ひもをあわせて結んでぼくたちはかれを降ろして世界を救った
ぼくらはシステムの血の子供で誤字だらけの辞令を持って西のグーグルを焼き払った
持つものも持たざるものもやがてやってくる花粉で汚れた草の姫の靴
謁見の時間となるが部屋干しの王の下着まだ乾かず
網から逃げてゆく人間が手にもつビニール袋に見える人間
 選評で注目されるのは、四首目では「やがて」か「やって」のどちらかを取れば定型になるがそうすると失われるものがあり、ここに「やって」を入れるのがこの作者の世界なのだという穂村の指摘である。穂村は続けて、この作者の世界は結局は散文性で、そこに詩的資産が投入されているため、短い小説のように見えてしまうと述べている。穂村らしいなかなか鋭い指摘である。
 同人誌『率』創刊号 (2012年)は、作者自身に自選歌5首の批評を書かせるという試みをしていて、フラワーしげるも自選歌に対してまるで他人のように3人称で批評を書いている。フラワーしげるの自己分析は以下の通りである。現代短歌はリアリズムを選択したときに、ある矛盾を抱え込むことになった。リアルな生活感情を歌に盛り込むためにはリアリティーのある身近な言葉を用いる必要があるが、その反面、記憶を容易にして歌に固有の呪的性格を持たせるためには定型韻律と反復性を守らなくてはならないという矛盾である。それを前提としてフラワーしげるは何を模索しているかと言うと、神話的回帰へと意図的なアプローチをすることで内容面で呪詞的要素の濃い歌を作る一方、韻律面では非定型へとはみ出して記憶に不向きなものにしている。つまり、内容において呪詞に付き、韻律面では呪詞から離れるという、大方の現代短歌とは逆の方向をめざしているというのである。
 フラワーしげるのやたらに長い短歌がひとりでに出来たものではなく、ある意図に基づいて制作されたものであることがこれでわかるだろう。「内容において呪詞に付く」というのは、フラワーしげるが小説家であることから容易に理解が及ぶ。同じ小説家といっても、フラワーしげるは私小説ではなく、『飛行士と東京の雨の森』の粗筋の紹介で触れたように、「世界」「普遍」「不可知とダンスを踊る」というような言葉を使う小説家である。日常の些事ではなく世界観を問題にするのである。一方、「韻律面では呪詞から離れる」動機を本人は詳らかにしていないが、それは内容面の選択の反作用と思われる。短歌に世界観を盛り込むには定型は短すぎ、どうしてもそこに散文性を導入しなくてはならない。勢いフラワーしげるの短歌は穂村が指摘したように、短い小説のように見えてしまうのである。これは昭和初期に登場した長い口語短歌の志向性とはまったく異なる動機に基づくものと言えよう。フラワーしげるが現代短歌シーンにおいて異彩を放つ理由がそこにある。
 ここで掲出歌「南北の極ありて東西の極なき星で煙草吸える少女の腋臭甘く」に戻って見てみよう。韻律的には「南北の / 極ありて東西の / 極なき星で / 煙草吸える / 少女の腋臭甘く」と区切ると、五・十・七・六・十の38音で字余りだが、定型をまったく無視しているわけではなく、定型を意識しつつ少しずつずらしている。だからある韻律意識を持って読むことが可能である。この揺らぎの部分をどう感じるかは人によってちがうだろう。その揺らぎが内容面の散文性を支える方向で働いている歌は、十分に短歌として読めると思う。
 フラワーしげるのこの方向性がどのような地点に行き着くのかは予断を許さない。フラワーはその後短歌研究新人賞などには応募しなくなったようだが、またどこかで近作を読みたいものだ。そう強く思う。