第111回 野口あや子『夏にふれる』

フローリングに寝転べばいつもごりごりと私は骨を焦がして生きる
                  野口あや子『夏にふれる』
 『くびすじの欠片』(2009年)に続く野口の第二歌集である。まず驚くのはその分厚さで、まるで小説の単行本のような造本になっている。収録歌数も多い。花山周子の『屋上の人屋上の鳥』が出版されたとき、収録歌数860首は茂吉以来と評判になった。『夏にふれる』の収録歌数は記載されていないが、歌のあるページが315ページあり、1ページに3首配されているので、表題のページや白紙を除いても、800首を超えるだろう。あとがきに「もともと多作で」、「自らの詩歌とのじゃれあいを、卑俗や下等なものとして切り捨てることなどわたしにはとうていできなかった」とある。要するに作った歌をほぼ全部収めたということで、「選ぶ」つまり「捨てる」作業を通じて自分の作品世界を純化するという発想は野口にはないのだろう。このあたりに野口の歌人としてのスタンスが露呈しているようだ。 本書には野口が愛知淑徳大学の文化創造学部に在籍していたほぼ4年間に作られた歌が収録されている。あとがきは愛知淑徳大学教授・小説家の諏訪哲史が書いている。ちなみにこの大学の学長は島田修三である。野口の歌では「シマシュー」とルビを振られて登場している。野口は学長みずから担当する短歌ゼミには入らず、諏訪の小説ゼミに所属したという。一筋縄ではいかないということか。
 野口の短歌をひと言で特徴づけるとすれば、キーワードは「危うさ」だろう。今にもどこかが壊れそうな危うさ、限界を超えてしまいそうな危うさである。たとえば掲出歌を見てみよう。「骨を焦がして生きる」に驚く。骨は身体の最も深部にある構造体である。骨を焦がすというと、その前に肉も焦げていることになる。用心深い人、小心な人、穏やかな暮らしをモットーとする人は、とてもそんなことはできない。感情の強度と激しさを求める人だけが踏み込む道である。
血のにおい忘れ去られてメンタムが行ったり来たりたてじわの口唇くち
林檎嬢がヒールでガラスを割るのなら頭突きで割りたいわたくしである
くろぶちのめがねおとこともてあそぶテニスボールのけばけばの昼
ゆうぐれの淡さに腋にあく汗のわかいおんなは息苦しいね
もっともっともっと痩せなきゃいけなくてあばらぼねからずたずたになる
差し入れて抜いて気がつく鍵穴としていたものが傷だったことを
 一首目、日常的に解釈すれば「血」は唇が荒れて切れたため出たものだろうが、それだけではない何か不穏な響きがある。それと同時にほのかにエロチックな感じがただよっている。二首目、「林檎嬢」は歌手の椎名林檎。「本能」というタイトルの歌のミュージックビデオで、看護師の扮装をして大きな板硝子をハイヒールで蹴破るという印象的なシーンがあった。自分ならば頭突きで割るというところに捨て身の激しさがある。三首目、「くろぶちのめがねおとこ」が誰なのかは不明だが、全体に漂う雰囲気は「不穏」である。四首目は説明の必要がないほど歌意は明白で、「生きづらさ」が野口の短歌の大きなテーマであることが知れる。その背景には、不登校、拒食症、リストカットなどがあるようで、五首目はそれを端的に示している。六首目にも野口の世界に対する立ち位置がよく表われている。『くびすじの欠片』を取り上げたときに、「野口は世界の歪ませ方がうまい」と書いたが、今から思えばそれは正確ではなく、野口は世界に自分の主観をあられもなく投影するために、このように見えてしまうと言った方がよいかもしれない。「鍵穴」が「傷」だというのは短歌レトリックとしての見立てなどというものではなく、感情が外に流露したものであり、これはこれでリアリズムなのだ。
定型を上と下から削りましょう最後に残る一文字ワタクシのため
わたくしをなみなみ注ぎ容れたいと思っては鋭角曲がりきれずに
定型から零れてしまうわたくしもそのままとして、夏のなみだは
 この二首は野口の作歌姿勢を詠んだ歌と思われる。定型を削りに削って最後に残るのが〈私〉であるというのは近代短歌が歴史的に選択した道の終着点ではあるのだが、その強度と徹底ぶりは歌人によって千差万別である。二首目にあるように、野口は短歌に〈私〉をなみなみ注ぎ容れたいと考えているのだから、野口は現代短歌の〈私〉派の最右翼ということになるだろう。
とっぷりと湯船に浸かって髪を解くひろがることはいつでもこわい
他意はなくひらきっぱなしの自我をまた恥じつつ続けるほかなき自我か
 問題はその〈私〉のあり方である。誰だって自分に〈私〉があるとふつう考える。しかし〈私〉とは、〈私〉においてのみ把握されるものではなく、他者との関係性において規定されるものでもある。絶海の孤島で一人で暮らしていたら、おそらく〈私〉という概念は限りなく希薄になり、ついには雲散霧消してしまうだろう。なぜなら私は〈あなた〉や〈彼〉との関係と軋轢という局面においてのみ、意識的に浮上するものだからである。
 上の二首を見ると、野口は「ひろがる」ことに畏れをいだいているように見える。「ひろがる」とは〈私〉が他者と触れることである。そこにいやおうなしに摩擦と軋轢が生じる。今、仮に〈私〉を粗っぽく、「独りでいるときの私」(即自的存在)と「誰かといるときの私」(対他的存在)に二分すると、野口の〈私〉は圧倒的に後者だと言えるだろう。だから野口の短歌世界はたやすく「対他的存在の煉獄」の観を呈するのである。
 しかし本歌集の途中から少し印象が変わる。ほぼ編年体で配列されていると思われるのだが、後半の4分の1あたりから文語が増えて、「危うさ」が抑制されている印象の歌が目につくようになる。まだ若い作者なので、これから変わってゆくのかもしれない。
なめらかに生きんと語を継ぐ頁ありさりとて青き付箋を貼るも
1ダースチョコひとつずつ置いていく友のてのひらそれぞれのおん
わたくしは、と言いさすみだりがわしきを頬に揺れたる前髪やわし
古びたる写真は木の葉、笑むままに掃きあつめられふいに拾わるる
いきながらえてあわくあやめる爪なれば小雨のごときしろさを持てり
 野口の開きっぱなしの〈私〉と短歌定型の修辞の要求する抑制とがほどよくバランスをとっていて、しかも口語がよく生かされているは次のような歌ではないだろうか。
死は水が凍るときにもありというわずかに膨張したるましかく
ひかりってつぶやくときのひかりとはそのときどきにわずかにちがう
ひらひらとライターの火はひかりつつ他意があろうとなかろうとあお
見なくてもいいと子の目を塞ぐため持たされたのかこのてのひらは
腋かすか湿りはじめてゆうぐれの商店街のビーチサンダル
 一首目は水の凍結と人の死を重ね合わせた歌だが、結句の「ましかく」がなかなか効いている。二首目の上句は口語ライトヴァースにありがちな語法ではあるものの、微少な差異を詠うのは今までのような感情の強度を求める姿勢とはちがう着眼点を示している。三首目は音がおもしろく、「ひらひら」「火」「ひかり」のhi音、「ひらひら」「ライター」のra音、「他意」「あろうと」「なかろうと」「あお」のa音がリズミカルな世界を作っている。四首目は今現在の自分ではなく、未来に生まれる子を思っている点が新しい。五首目、夏の夕暮れの情景だが、「腋」「商店街」「ビーチサンダル」の組み合わせが、体感的ながら〈私〉のみに収束しない世界を押し上げていて、他者への架橋が感じられる。
 野口はこれからまだ変化してゆくだろう。『夏にふれる』の収録歌は完成した歌ではない。発展途上の歌である。言い換えればまだ伸びしろがあるということでもある。それはある意味でとてもうらやましいことなのだ。