第238回 野口あや子『眠れる海』

押し黙ればひとはしずかだ洗面器ふるき卵の色で乾けり

野口あや子『眠れる海』

 

 第一歌集『くびすじの欠片』(2009年)、第二歌集『夏にふれる』(2012年)、第三歌集『かなしき玩具譚』(2015年)に続く、著者第四歌集である。書肆侃侃房の現代歌人シリーズの一巻として刊行された。短歌だけでなく、写真家三品鐘によるモノクロ写真が収録されている。野口は朗読会を開いたり、他のジャンルとの交流を積極的に進めているようで、そのような姿勢の一環だろう。

 本ブログではすでに『くびすじの欠片』と『夏にふれる』を取り上げているので、今回で3度目になる。野口はどのように変化した、あるいは変化しなかったのだろうか。

愛しては子供をつくることに触れボトルシップのようなくびすじ

秋すなわちかげろうでありきみの姓を聞いてふりむくまでの眩しさ

父の骨母の血絶つごと婚なして窓辺にかおる吸いさしたばこ

茶葉ふわり浮いてかさなるはかなさで夫と呼んで妻と呼ばれる

子はまだかとかくもしらしらたずね来る男ともだちの目に迷いなく

 これらの歌を読むと、野口は伴侶を得て結婚したようだ。しかし結婚して幸福に包まれているかといえば、どうやらそうでもないようで、互いを夫と妻と呼ぶことにも茶葉が浮く程度の現実感しか感じていない。また子をなすことにためらいがあるようで、三首目の「父の骨母の血絶つごと」は子を残さない決意のようにも感じられる。一首目の「ボトルシップのようなくびすじ」、三首目の「窓辺にかおる吸いさしたばこ」の下句のさばき方はいかにも野口流である。

 上に引いたような歌では、意味はほぼ定型の中に収まっているのだが、読んでいるとそのような歌ばかりではなく、どこか過剰で定型に収まりきらない何かがはみ出しているような印象を受けることがある。

あしのつけねのねじをまわしてくろきくろきポールハンガーたたむひととき

大きなアルミラックの上に小さなアルミラック乗せて人生、なんてわたしたち

飛ぶことと壊れることは近しくてノブを五つあけて出ていく

あ・ま・だ・れとくちびるあければごぼれゆく 赤い、こまかい、ビーズ、らんちゅう

 一首目、部屋におかれているポールハンガーを畳むというごくふつうの動作だが、「くろきくろき」と反復されることで何か過剰なものが感じられる。二首目のアルミラックも若い人たちの部屋によく見られる家具だが、大きなアルミラックの上に小さなアルミラック乗せるという前半と、「なんてわたしたち」という結句の詠嘆がうまく結びつかない。三首目、「ノブを五つあけて」というのは語法的にいささか妙で、ノブをつかんで開けるのはドアである。仮にそう解釈したとして、ドアを5つ開けて出てゆくというのもどこか過剰だ。四首目は意味がよく取れないが、唇から零れるにしても、ビーズはよいとしてらんちゅうは不思議だ。

 いろいろな歌人の歌を読んでいると、言葉と自分(作者)を隔てる距離が人によってずいぶん異なることに気づくことがある。自分と言葉の距離が大きな人にとって、言葉はいわば自分の外にあるもので、画家が絵の具を配合して絵を描くように、石工がレンガを積み上げて家を建てるように、言葉を操作し組み合わせて何かを作り出す。こうして作り出したものは自分の外部に存在する。例えば塚本邦雄はそのような歌人の代表格だろう。一方、言葉と自分の距離が小さな人にとっては、言葉は自分の外にあるものではなく、ましてや操作するものではなく、自分の内側から滲み出て来るものであり、たやすく外在化することができない。自分から言葉を無理に剥ぎ取ろうとすると、皮膚が破れて血が滲んでしまう。野口の歌を読んでいるとそのように感じることがある。

さげすみて煮透かしている内臓の愛と呼びやすき部分に触れよ

夜の底、撹拌されてあわあわと垂らすしずくのオパールいろよ

ゆきふるかふらぬか われはくずおれたむすめを内腿に垂らしておりぬ

真葛這うくきのしなりのるいるいと母から母を剥ぐ恍惚は

ひらかれてくだもののからだ味わえばおなじくいたむ嵐の中で

 このような歌を読むと、野口は言葉を道具として用いて、自分の中にある意味なり感情なりを表現しようとしているのではなく、言葉を皮膚に絡ませ、皮膚を裏返して言葉に被せ、自分と言葉の間をたゆたう関係性を、絞りだすように歌にしているようにも感じられる。

 このことはよく短歌で論じられる「私性」とはちがうことである。「私性」とは、現実を生きる作者としての私と歌の中に詠まれた〈私〉の異同の問題である。「生活即短歌」のような立場では、歌の中の〈私〉はほぼそのまま実人生の作者と取ってかまわない。しかし反写実、芸術至上主義の立場に立つと、その等式は成り立たない。「私性」は現実の私と歌の中の〈私〉の関係を言うものだが、上に野口について述べたのはそうではなく、作者としての現実の私と言葉、あるいは声との距離の問題である。これ以上うまく言えないのだが、短歌の実作者ならば感じ取ってくれるかもしれない。

 このことは野口の身体と関係しているかもしれないとふと思う。

とかげ吐くように吐く歯磨き粉の泡の木曜日がみるまに繰り上がる

芹吐けり冬瓜吐けりわたくしのむすめになりたきものみな白し

 集中にはこのように何かを吐くという歌があるのだが、野口は青春期に長く摂食障害に苦しんでいたらしい。摂食障害は自分の身体との違和である。また『気管支たちとはじめての手紙』という共著の著書もあるので、喘息の持病もあったのかもしれない。身体との違和があったり持病を抱えている人にとって、身体は透明な存在ではなく、時に自己の内部に蠢く他者ともなる。野口の歌に感じられる言葉や声との距離の近さはそのような事情と関係しているのかもしれない。

 最後に印象に残った歌を挙げておこう。

うしなったのも得たものもなく午前十時の地下鉄にいる

感情を恥ずかしむため眉引けばあらき部分に墨はのりたり

ひややかに刃にひらかれて梨の実は梨の皮へとそらされていく

ずがいこつおもたいひるに内耳うちみみに窓にゆきふるさらさらと鳴る

つよく抱けば兵士のような顔をするあなたのシャツのうすいグリーン

さみどりののどあめがのどにすきとおりつつこときれるよるの冷たさ

血脈をせき止めるごとくちづけてただよう薄荷煙草の味は

名残 いえ、じょうずに解けなかっただけ 牡丹のように手から離れる

第111回 野口あや子『夏にふれる』

フローリングに寝転べばいつもごりごりと私は骨を焦がして生きる
                  野口あや子『夏にふれる』
 『くびすじの欠片』(2009年)に続く野口の第二歌集である。まず驚くのはその分厚さで、まるで小説の単行本のような造本になっている。収録歌数も多い。花山周子の『屋上の人屋上の鳥』が出版されたとき、収録歌数860首は茂吉以来と評判になった。『夏にふれる』の収録歌数は記載されていないが、歌のあるページが315ページあり、1ページに3首配されているので、表題のページや白紙を除いても、800首を超えるだろう。あとがきに「もともと多作で」、「自らの詩歌とのじゃれあいを、卑俗や下等なものとして切り捨てることなどわたしにはとうていできなかった」とある。要するに作った歌をほぼ全部収めたということで、「選ぶ」つまり「捨てる」作業を通じて自分の作品世界を純化するという発想は野口にはないのだろう。このあたりに野口の歌人としてのスタンスが露呈しているようだ。 本書には野口が愛知淑徳大学の文化創造学部に在籍していたほぼ4年間に作られた歌が収録されている。あとがきは愛知淑徳大学教授・小説家の諏訪哲史が書いている。ちなみにこの大学の学長は島田修三である。野口の歌では「シマシュー」とルビを振られて登場している。野口は学長みずから担当する短歌ゼミには入らず、諏訪の小説ゼミに所属したという。一筋縄ではいかないということか。
 野口の短歌をひと言で特徴づけるとすれば、キーワードは「危うさ」だろう。今にもどこかが壊れそうな危うさ、限界を超えてしまいそうな危うさである。たとえば掲出歌を見てみよう。「骨を焦がして生きる」に驚く。骨は身体の最も深部にある構造体である。骨を焦がすというと、その前に肉も焦げていることになる。用心深い人、小心な人、穏やかな暮らしをモットーとする人は、とてもそんなことはできない。感情の強度と激しさを求める人だけが踏み込む道である。
血のにおい忘れ去られてメンタムが行ったり来たりたてじわの口唇くち
林檎嬢がヒールでガラスを割るのなら頭突きで割りたいわたくしである
くろぶちのめがねおとこともてあそぶテニスボールのけばけばの昼
ゆうぐれの淡さに腋にあく汗のわかいおんなは息苦しいね
もっともっともっと痩せなきゃいけなくてあばらぼねからずたずたになる
差し入れて抜いて気がつく鍵穴としていたものが傷だったことを
 一首目、日常的に解釈すれば「血」は唇が荒れて切れたため出たものだろうが、それだけではない何か不穏な響きがある。それと同時にほのかにエロチックな感じがただよっている。二首目、「林檎嬢」は歌手の椎名林檎。「本能」というタイトルの歌のミュージックビデオで、看護師の扮装をして大きな板硝子をハイヒールで蹴破るという印象的なシーンがあった。自分ならば頭突きで割るというところに捨て身の激しさがある。三首目、「くろぶちのめがねおとこ」が誰なのかは不明だが、全体に漂う雰囲気は「不穏」である。四首目は説明の必要がないほど歌意は明白で、「生きづらさ」が野口の短歌の大きなテーマであることが知れる。その背景には、不登校、拒食症、リストカットなどがあるようで、五首目はそれを端的に示している。六首目にも野口の世界に対する立ち位置がよく表われている。『くびすじの欠片』を取り上げたときに、「野口は世界の歪ませ方がうまい」と書いたが、今から思えばそれは正確ではなく、野口は世界に自分の主観をあられもなく投影するために、このように見えてしまうと言った方がよいかもしれない。「鍵穴」が「傷」だというのは短歌レトリックとしての見立てなどというものではなく、感情が外に流露したものであり、これはこれでリアリズムなのだ。
定型を上と下から削りましょう最後に残る一文字ワタクシのため
わたくしをなみなみ注ぎ容れたいと思っては鋭角曲がりきれずに
定型から零れてしまうわたくしもそのままとして、夏のなみだは
 この二首は野口の作歌姿勢を詠んだ歌と思われる。定型を削りに削って最後に残るのが〈私〉であるというのは近代短歌が歴史的に選択した道の終着点ではあるのだが、その強度と徹底ぶりは歌人によって千差万別である。二首目にあるように、野口は短歌に〈私〉をなみなみ注ぎ容れたいと考えているのだから、野口は現代短歌の〈私〉派の最右翼ということになるだろう。
とっぷりと湯船に浸かって髪を解くひろがることはいつでもこわい
他意はなくひらきっぱなしの自我をまた恥じつつ続けるほかなき自我か
 問題はその〈私〉のあり方である。誰だって自分に〈私〉があるとふつう考える。しかし〈私〉とは、〈私〉においてのみ把握されるものではなく、他者との関係性において規定されるものでもある。絶海の孤島で一人で暮らしていたら、おそらく〈私〉という概念は限りなく希薄になり、ついには雲散霧消してしまうだろう。なぜなら私は〈あなた〉や〈彼〉との関係と軋轢という局面においてのみ、意識的に浮上するものだからである。
 上の二首を見ると、野口は「ひろがる」ことに畏れをいだいているように見える。「ひろがる」とは〈私〉が他者と触れることである。そこにいやおうなしに摩擦と軋轢が生じる。今、仮に〈私〉を粗っぽく、「独りでいるときの私」(即自的存在)と「誰かといるときの私」(対他的存在)に二分すると、野口の〈私〉は圧倒的に後者だと言えるだろう。だから野口の短歌世界はたやすく「対他的存在の煉獄」の観を呈するのである。
 しかし本歌集の途中から少し印象が変わる。ほぼ編年体で配列されていると思われるのだが、後半の4分の1あたりから文語が増えて、「危うさ」が抑制されている印象の歌が目につくようになる。まだ若い作者なので、これから変わってゆくのかもしれない。
なめらかに生きんと語を継ぐ頁ありさりとて青き付箋を貼るも
1ダースチョコひとつずつ置いていく友のてのひらそれぞれのおん
わたくしは、と言いさすみだりがわしきを頬に揺れたる前髪やわし
古びたる写真は木の葉、笑むままに掃きあつめられふいに拾わるる
いきながらえてあわくあやめる爪なれば小雨のごときしろさを持てり
 野口の開きっぱなしの〈私〉と短歌定型の修辞の要求する抑制とがほどよくバランスをとっていて、しかも口語がよく生かされているは次のような歌ではないだろうか。
死は水が凍るときにもありというわずかに膨張したるましかく
ひかりってつぶやくときのひかりとはそのときどきにわずかにちがう
ひらひらとライターの火はひかりつつ他意があろうとなかろうとあお
見なくてもいいと子の目を塞ぐため持たされたのかこのてのひらは
腋かすか湿りはじめてゆうぐれの商店街のビーチサンダル
 一首目は水の凍結と人の死を重ね合わせた歌だが、結句の「ましかく」がなかなか効いている。二首目の上句は口語ライトヴァースにありがちな語法ではあるものの、微少な差異を詠うのは今までのような感情の強度を求める姿勢とはちがう着眼点を示している。三首目は音がおもしろく、「ひらひら」「火」「ひかり」のhi音、「ひらひら」「ライター」のra音、「他意」「あろうと」「なかろうと」「あお」のa音がリズミカルな世界を作っている。四首目は今現在の自分ではなく、未来に生まれる子を思っている点が新しい。五首目、夏の夕暮れの情景だが、「腋」「商店街」「ビーチサンダル」の組み合わせが、体感的ながら〈私〉のみに収束しない世界を押し上げていて、他者への架橋が感じられる。
 野口はこれからまだ変化してゆくだろう。『夏にふれる』の収録歌は完成した歌ではない。発展途上の歌である。言い換えればまだ伸びしろがあるということでもある。それはある意味でとてもうらやましいことなのだ。

第32回 『風通し』の歌人たち

 最近、若い歌人による同人誌が盛んに創刊されている。すでに6号を迎える「pool」は別として、「豊作」「[sai]」「町」「風通し」など目白押しである。共通する特徴は、結社・流派などにこだわらず、横断的に若い人たちが寄り集まって作っているところか。同人誌は若い人たちの切磋琢磨に格好の場であり、歓迎すべき傾向だろう。今回はその中から2008年11月創刊の「風通し」を取り上げてみたい。1号の同人は、我妻俊樹、石川美南、宇都宮敦、斎藤、故・笹井宏之、棚木恒寿、永井祐、西之原一貴、野口あや子。最年長の我妻が41歳、最年少の野口が22歳と年齢に幅があり、世代論で輪切りにできる構成ではない。あとがきの「説明しよう」によれば、「風通し」は1号ごとのメンバーで1号ごとに企画を立ち上げる「そのつど誌」とある。つまり固定メンバーによる同人誌ではなく、演劇の世界でいうブロジェクト方式なのだ。ということは次号の同人はがらりと顔ぶれが変わることもあり、縁起でもないことを言って恐縮だが、次号はもう出ないという可能性だってあるということだ。若人ならではの大胆さとエネルギーに脱帽しよう。おまけに創刊号の企画はなんと連作歌会なのだ。同人は30首の連作を提出し、インターネット掲示板で一ヶ月にわたる相互批評をしている。「みなさんもやってみるといいが、想像以上のやるんじゃなかったである」とあとがきにあるように、心身ともに相当大変だったことは想像に難くない。各人の個性が光る連作もおもしろいが、それ以上に興味深いのは相互批評の書き込みで、各人の短歌観とともに現在の短歌シーンが置かれている状況が如実にあぶり出されている。
 意欲的構成の連作という点で特筆に値するのは、何と言っても石川美南の「大熊猫夜間歩行」と斉斎藤の「人体の不思議展 (Ver.4.1)」だろう。両方とも大量の詞書を駆使した作品で、ここで何首か抜き出して批評することが不可能な構成になっている。石川の作品は、「四月三十日、上野動物園最後のジァイアント・パンダ、リンリンが死んだ。」という書き出しで始まり、一昨年の7月に起きたリンリン脱走事件という架空の物語を、詞書と短歌で織り上げたものである。短歌だけを部分的に抜き出してみる。
異界より取り寄せたきは氷いちご氷いかづち氷よいづこ
目を閉ぢて開ければ宙に浮かびゐる正岡子規記念球場しづか
枝豆のさや愛でながら〈パンダの尾は白か黒か〉についての議論
夏の夜のわれらうつくし目の下に隈をたたへてほほえみあへば
街灯の赤きを浴びて思ひ出す懐かしいメキシコの友だち
手を振つてもらへたんだね良かつたねもう仰向きに眠れるんだね
真夜中の桟橋に立ちやさしげな獣に顔を噛まれたること
 上野公園を脱走してから、アメ横を通り御徒町を過ぎて、ヨドバシカメラの角を曲がり、万世橋から竹芝桟橋までの夜間歩行の行程を、石川は自分で歩いて確かめてみたそうだ。目撃証言を詞書として挟み、連作もこの行程をたどって進行する。最初は新聞報道のように始まり、酔漢の証言や学生のコンパの場面によって徐々に情景が具体性を増し、終盤に至って作中の〈私〉がパンダに優しく顔を噛まれるという場面で、一連の事件の意味を自ら引き受けるという構成は圧巻で、不覚にも涙したほどだ。最後の歌を除いて歌にパンダが登場せず、目撃証言とそれに遠く近く寄り添う歌という構成を取り、終始パンダを不在の対象として描くことによって、連作全体に神話的雰囲気を漂わせることに成功している。思えばすでに第一歌集『砂の降る教室』所収の快作「完全茸狩りマニュアル」などで、「世界を異化する視線」を駆使していた石川であるが、ここへ来てその才能はますます発揮されているようだ。
 連作批評では2点に議論が集まっている。歌の背後に想定される発話主体が、リンリンなのか目撃者なのか、それとも最後に登場する作中の〈私〉なのかよくわからないという点と、詞書が多すぎて「歌をストーリーに捧げてしまっている」(野口)という意見である。前者については、発話主体の未分化な感じは、「近代的リアリズムとべっこ(ママ)のより始原的なリアリズムを立ち上げようとしている」という宇都宮の分析はやや先走り過ぎの感があるが、確かに近代短歌の〈私〉ではない発話主体として読んで抵抗を感じない。後者については、「『プライベートな個別な私』の感情からの離脱」であり、「一首の背景に『特殊な顔の私』を代入しない」ことが物語のなかに歌を作る意義だとする棚木の意見が、発話主体の未分化性の議論とからむ形で印象に残る。棚木の意見にたいして、「『プライベートな個別な私』しか書けない私にとっては、そんな姿勢に歯がゆさを感じてしまう」という野口の反論に、はしなくも野口の作歌姿勢が露呈しているところが興味深い。
 我妻の指摘するように、物語作家としての作者の資質が存分に発揮された作品であることはまちがいないが、心配な点もある。この作品の延長で石川が散文の世界に行ってしまうのではないかという心配である。もしそうすると「みんな散文に行っちまう。」(大辻隆弘『時の基底』)ということになり、困った事態となる。ぜひ短歌の世界に留まってほしい。
 斉斎藤の「人体の不思議展 (Ver.4.1)」は、本物の死体を様々に標本展示して話題になった展覧会の見聞記という体裁を取っており、石川作品以上に大量の詞書を用いている。こうなると詞書の方が作品の骨格で、歌はその所々に挿入されている感すらある。詞書は、「いらっしゃいませ(カチカチ)」のような現場レポート風のもの、「プラストミック標本の作製法」という展覧会の目録からの引用、「悪いことして死んだヤツとかじゃない」「な」という観覧者の会話などから成る。特におもしろいのは、次のように詞書と歌とが連続して地続きになっている構成である。
 「おそらくこれは、標本になってからの凹みでしょう、
中国から来たものでわかりませんが、立ててたんでしょう針金か何かで」

また一歩記憶になってゆく道にわたしは見たいものを見ていた
 のだろうか。
 (詞書さらに続く)
 斉藤は極めて自覚的な演出者なので、歌と詞書のこのような関係性を意図的に構成したものと考えられる。歌をいくつか引く。
「アセトンに漬けたろか」的なツッコミが嫁とのあいだで流行る四、五日
たましいの抜けきらぬ今しばらくは人目に触れる旅をかさねる
腹が立つ、臆面もなく腹は立ちわたしを駆けめぐるぬるい水
死因の一位が老衰になる夕暮れにイチローが打つきれいな当たり
どのレジに並ぼうかいいえ眠りに落ちるのは順番ではない
 さらにいまひとつの仕掛けは、〈私〉が見た新生児の輪切り標本をもう一度見に行くと会場に見あたらず、係員にたずねてもそんな展示はないと言われ、嫁にたずねてもよく覚えていないと言われたというエビソードである。これまた作品中に虚空間を作るべく斉藤が連作に施した周到な仕掛けであることは言うまでもない。
 批評では、詞書が主になり歌が従になっている構成への疑問や、人体をここまで見せ物にしてよいのかという倫理観や死生観の反省といった主題性の突出をどう評価するかに議論が集中している。「いろんなことを考えるいいきっかけにしたいぼくらはよいこに並ぶ」という連作冒頭の歌からして、「展示方法にご批判もありましょうが、これを生死や献体の問題などを考えるきっかけにしていただければ」的な主催者側の理屈を逆手に取っているのだから、斉藤のスタンスは二重三重に捻れていて一筋縄ではいかない。同人たちもこの点をどう評価してよいのか決めあぐねている感がある。方法論的には、「斉藤さんの作品の特徴として、すでに世の中にカタマリ化して流通している言葉を定型の中に頻繁に引用する」というのがあり、そうすることで「定型のはたらきを失調させる」とする我妻の指摘にうなずく。同時にカタマリ化して流通している言葉を嵌め込むことで、定型の存在をいっそう意識させる点に斉藤の戦略があるのではないかとも思う。斉藤は近代短歌という制度をあぶり出したいのである。
 斉斎藤は一度本格的に論じてみたくなる歌人だが、まだ誰もその本質を剔抉することに成功していないように思える。それは斉藤と短歌の関係が、すぐさま見極められないように周到に韜晦の煙幕に隠されているからである。「人体の不思議展 (Ver.4.1)」もそのうな地点から放たれた変化球なので、評価は様々だろうが問題作であることはまちがいない。同人たちによる掲示板への書き込みの量が、それを雄弁に語っている。
 残りの連作については短評に留める。
けむりにも目鼻がある春の或る日のくだものかごに混ぜた地球儀 
                       我妻俊樹「案山子!」
歯みがきは過去のどこかに始まっていつかは消える 人より早く
片方のサンダルだけがリボンになってほどけて終わる花道をゆく

さびしさの音の粒さえみえそうな夜もわたしはどうせまるがお
              宇都宮敦「昨晩、君は夜釣りへいった」
はなうたをきかせてくれるあおむけの心に降るのは真夏の光
まちがった明るさのなか 冬 君が君の笑顔を恥じないように

手品師が手に品をのせやってくる 冬の日曜日の午後三時
                  笹井宏之「ななしがはら遊民」
太刀魚を夜のシンクに横たえてなんだかよくわからないが泣いた
みぞれ みぞれ みずから鳥を吐く夜にひとときの祭りがおとずれる

こころのことを語れぬほどに暗かった二次会の店 朝に思えば
                       棚木恒寿「秋の深度」
わが内を流るる河に沈みしは鉄の斧なりすでに光らず
近道、裏道ふやしてゆけぬわが性質(たち)をふかく感じて今朝の通勤

一年は六月のまだ一日でパスタのあとにパイの実を食う
                永井祐「ぼくの人生はおもしろい」
コーヒーショップの2階はひろく真っ暗な窓の向こうに駅の光
去年の花見のこと覚えてるスニーカーの土の踏み心地を覚えてる

海を見ぬ日々が私を造りゆく缶のキリンを凹ませながら
                      西之原一貫「夏の嵩」
にわか雨過ぎたる昼のデスクにて加へられし朱の嵩を見てをり
来ぬものをあの日のわれは待ちながら埃の雨のなかに立ちけり

くろぶちのめがねのおとこともてあそぶテニスボールのけばけばの昼 
               野口あや子「学籍番号は20109BRU」
野口あや子。あだ名「極道」ハンカチを口に咥えて手を洗いたり
小説を見せろとじりじり詰め寄れば燕のごとく飛び立つおとこ
 我妻と宇都宮はともに無所属の歌人で、宇都宮は第4回歌葉新人賞次席になっている。早稲田短歌会出身の永井祐も加えてこの三人は、完璧にニューウェーブ以後の短歌シーンの空気を当然のものとして呼吸している人たちである。そんななかに、「音」「京大短歌会」出身で第一歌集『天の腕』を持つ棚木と、「京大短歌会」「塔」の西之原が混ざると非常に奇異な感じを与える。棚木と西之原は文語定型に則り、近代短歌の作りと読みのコードを前提としている歌人で、手堅い作りの抒情歌は安心して読める。一方、我妻・宇都宮・永井の作品は、いったいどのようなコードで読んだらよいのかわからない。そもそもコードの存在自体を否定しているのかもしれない。もしそうなら究極の一回性の文芸ということになる。
 我妻が棚木の作品について次のように評している。「作中人物が歌に収まる姿勢のようなものが気になる」、「カメラ目線とまでは行かなくても、カメラ=短歌のフレームを作中人物が意識している」、「そのような向き合い方でフレームに接していることへの疑いのなさ」が問題だというのである。我妻も宇都宮もなかなかの論客であることを相互批評で示しているが、ここは斉藤に解説をお願いしよう。斉藤は『短歌ヴァーサス』11号に、「生きるは人生とちがう」という文章を書いている。そのなかで、「私は身長178cmである」というときの「私」を客体用法、「私は歯が痛い」というときの用法を主体用法と区別し、短歌の〈私〉は両者の複合体であるという。この事情を次の歌を引いて分析している。
飛ぶ雪の碓氷をすぎて昏みゆくいま紛れなき男のこころ 岡井隆
 上句は〈私〉、下句は「岡井隆」であるという。敷延すれば、「飛ぶ雪の碓氷をすぎて昏みゆく」は主体用法の〈私〉の目に映った風景である。一方、「いま紛れなき男のこころ」は自分を客体視した客体用法である。このように近代短歌の手法は、「作中主体が見ている風景を、作中主体の(人生の翳りを帯びた)背中をも構図にふくめ、ななめうしろから撮る」ことだと斉藤は言う。つまり〈私〉が映り込んだ情景を、〈私〉込みで斜め上方から切り取る視線が近代短歌の視線なのである。我妻の「カメラ=短歌のフレーム」はこのことを指している。そして〈私〉がいけしゃあしゃあと映り込んでいる風景が我慢ならないと言っているのである。我妻の発言は近代短歌の作歌と読みのコードをまるごと否定することに他ならない。
 では我妻らが肯定するコードとは何か。ここでもまた斉藤に頼ることになるが、同じ「生きるは人生とちがう」のなかで宇都宮の発言が紹介されている。
「『ふつう』の反対って『特別』とかじゃないですか。で、なんていうのかな、『特別』っていうことを声高に叫んでも、特別にならないような気がしてて。(…) そういう風の特別さって感じじゃ特別にならないと思うんです。ふつうに存在してるていうことの特別さっていう。自分のいる空間に他の人は立てないわけじゃないですか、ぜったい。っていう風な意味での特別さっていうものを書いてるんで」(宇都宮敦ロングインタビュー、永井祐HPより)
 異常だとか特殊な能力があるとか特異な体験をしたという「特別さ」を排除し、ここにふつうに生きているという「かけがえのなさ」をこそ「特別」と見なすわけだ。これはひとつの価値観なので、それはそれでよい。問題はその価値観からどのような作歌と読みのコードが導かれるかである。実作を読む限り、そこに近代短歌のコードに取って代わるコードを見いだすことは難しい。しかし、「『短歌のひと』特有のポーズの決め方に私も長々と葛藤していた」という野口の発言や、「短歌的な『私』がア・プリオリには成立しないという理屈、というよりは感覚が、『風通し』に参加されている皆さんの世代では身体化されているのだろうということもひしひしと感じています」という近代短歌サイドの西之原の発言を見ると、近代短歌の「斜め後方からの視線」は若い人たちには嘘くさいポーズと感じられているようだ。近代短歌側としては、これは是非考えなくてはならない問題だろう。もしこの感覚が燎原の火のごとく広まれば、近代短歌は死滅するからである。
 永井らの歌の読み方について、「永井さんの歌はロックだなあと思いながら僕は読んでいます (あるいはロックだなあと思いながら読むとおもしろいと思っている)」と宇都宮は発言している。ロックだなあというのは、「本当のことを歌いに来たんだぜ」とか「負けねえよ」とかいう意味だ。忌野清志郎とか尾崎豊を思い浮かべておけばそう遠くはなかろう。そうか、そう言われてみれば、「噴水の音がうるさくなってくる 話していると夕方になる」(永井祐)という歌なんて、音を当てればそのままロックの歌詞になりそうだ。しかしそれは短歌とは別物である。
 相互批評を読んでいて仰天したのは、「私は自分が歌人であるはずがないと思っている」という野口の発言である。というのも4月20日付の橄欖追放で、「青春の心拍として一粒のカシスドロップ白地図に置く」という野口の歌を引き、「カシスドロップは短歌の喩で、この歌は歌人としての野口の覚悟の表明と読みたい」と私は書いたのだが、これでは完全な読み違いということになってしまうからだ。これは困る。だから野口の発言を、「自分はまだ歌人だと胸を張って言えるほどのレベルには達していない」という自己認識の表明と勝手に解釈しておくことにしよう。野口の歌についての「短歌は気合いだ」という発言にうなずく。また歌ではなくその背後にいる作者に感情移入して読んでしまうことを「作者萌え」と同人たちは表現しているが、なかなか便利な言葉である。どこかで使わせてもらうことにしよう。
 「風通し」はこのように気鋭の若手歌人たちによる刺激的な同人誌である。通読するのにものすごく時間がかかったが、それは内包されている問題量の嵩の多さに由来する。近いうちにぜひ2号の刊行を期待したい。

第26回 野口あや子『くびすじの欠片』

せんせいのおくさんなんてあこがれない/紺ソックスで包むふくらはぎ
                野口あや子『くびすじの欠片』
 平成17年に「セロファンの鞄」で第48回短歌研究新人賞次席(新人賞は奥田亡羊)、翌18年に「カシスドロップ」で第49回短歌研究新人賞を受賞した野口あや子の第一歌集『くびすじの欠片』が先頃出版された。野口は1987年(昭和62年)生まれなので、新人賞次席は18歳、新人賞受賞は19歳の出来事である。歌集あとがきによれば、15歳の頃独学で短歌を作り始めたらしい。「幻桃」に所属し、後に「未来」に入会。加藤治郎率いる「彗星集」でも活動している。
 短歌賞は選評を読むのがおもしろい。選者は選評を語って自分自身の短歌観を露呈するからである。「セロファンの鞄」の選評では、石川不二子はほぼ全否定、岡井隆は「甘ったれてる」と言いつつもまあ好意的、佐佐木幸綱は「うそっぽいところがおもしろい」と言い、穂村弘はかなり評価が高い。「カシスドロップ」の時は、高野公彦が「みずいろの風がまぶたを撫でるからゆっくり握る朝顔の種」を引いて、意外性のある下句に着地させるところがうまいと、高野らしい技術的な評価を述べている。
 『くびすじの欠片』の跋文で加藤治郎が、自分の王宮を言葉で築くタイプの歌人と、他者とどう関わってゆくかを問い続けるタイプの歌人がいて、野口は後者だと書いている。現代ならば前者の代表格は紀野恵か黒瀬珂瀾あたりだろう。しかし言葉の技巧を駆使するこのタイプの歌人は今では減少傾向にあるようだ。まして自我が不定形な若い時には、誰しも自分に関心が集中する。勢い自分を中心に据えた短歌になりがちである。しかし野口の短歌が全編そうかというと、必ずしもそうとも言えない。近代短歌の核心である対象に迫る視線にキラリと光るものがある。
つまるような想いで僕を乗せている助手席の窓ほそくほそくあけ
熱帯びたあかるい箱に閉ざされてどこへも行けないポカリの「みほん」
塵白く陽射しに浮かぶ理科室でわたしの細胞ゆっくりうごく
母親に結われしいびつなシニヨンのおくれ毛をみる合わせ鏡に
梅雨明けの自転車の輪が描いていく二本のほそいやわらかい線
 例えば一首目、テーマは青春ただ中の恋愛で、自分を「僕」と呼ぶ女性が男の運転する車の助手席に乗っているという場面設定はよくあるものだが、この歌のキモは下句の「助手席の窓ほそくほそくあけ」にある。二人の間に漂う緊張を逃がす窓を「ほそくほそく」と表現したところに、景物と心情を繋ぐ確かな糸がある。二首目、自動販売機を「熱帯びたあかるい箱」と表現することで、機械が放散する熱と光がまず前景化される。次に「見本」を「みほん」と平仮名書きでカッコにくくって、ニセモノ感と閉塞感が滲み出すようにしてある。閉じこめられた偽物の見本に自己を投影していることは言うまでもない。三首目のキモは下句で自己を細胞レベルで認識しているところにある。細胞はもちろん理科室と縁語関係にあり、青春を体内感覚で表現しているのだろう。四首目で作者の眼が注がれているのは「いびつな」というシニヨンの形と「おくれ毛」で、このふたつのポイントに着目したとき、もう既に歌は完成していたと言ってよい。それに加えて「合わせ鏡」である。鏡が青春の自意識の表象であることは言うまでもない。相当に技巧の入った歌なのだ。五首目は雨が上がったばかりのまだ柔らかい地面の上に、自転車の前輪と後輪が別々に描く軌跡を詠んだものだが、その軌跡を「二本のほそいやわらかい線」と表現するところに詩情がある。
 これらの歌を見ると、表面的な平明さの裏側に相当な工夫と技巧が隠されていることがわかる。そのポイントは何だろうか。それは歌に詠まれた現実がほんの少し歪んでいるという点である。上に引いた四首目では、いびつなシニヨンとおくれ毛がそれに当たる。逆説的に聞こえるかもしれないが、現実に付与された微少な歪みが、現実をよりリアルに感じさせる機能を果たしている。それは絵に描いたような新築マンションのモデルハウスに生活感がなく、無味無臭の非現実的な感じを受けるのと似ている。テーブルに傷を付け、絨毯に染みを付け、ドアの立て付けを少し悪くし、壁の色をくすませると、とたんに生活感が出てリアルになる。それと同じである。そして歌に詠まれた現実の特有の歪み方に、現実をそのように見た、もしくはそのようにしか見られなかった〈私〉が否応なしに刻印されるのである。そこに作者の手が感じられる。野口はこの現実の歪ませかたがうまい。例えば「片思いなど忘れなよ薄紅のすこし湿ったえびせんを噛む」の「すこし湿った」がうまいのである。
 若さにはしばしば大胆さと不安定さが同居する。この歌集にも爆弾の導火線のようなきな臭い匂いの漂う歌がところどころに見られる。
ふくらはぎオイルで濡らすけだものとけものとの差を確かめるため
ヴァンパイアの眼をした人と過ごす午後鉄観音茶きりきりと飲む
左手首に包帯巻きつつ思い出すここから生まれた折り鶴の数
やや重いピアスして逢う(外される)ずっと遠くで澄んでいく水
くびすじをすきといわれたその日からくびすじはそらしかたをおぼえる
檻を恋う小鳥の声で鳴きながら安定剤をはんぶんに割る
 一首目に漂うエロス、二首目の状況の危うさは大胆さと併走する。三首目の包帯はリストカットの跡だろう。四首目のカッコのくるまれた部分は内的独白である。六首目のように安定剤と眠剤も何度か登場する。一歩まちがえばという若さをどう手なずけて行くかが注目される。五首目では首筋を自分から切り離して、独自に動くものとして捉えたところがポイントだろう。
 短歌のような韻文においては文体が世界観である。野口にはもう自分の文体がある。これは注目されてよい点である。歌人はみな歌のどこでキメるかというポイントを持っているはずだ。野球の投手の持つ決め球のようなものである。野口の場合、どうやらそれは下句にあるようだ。
なにもかも決めかねている日々ののち ばしゅっとあける三ツ矢サイダー
恋人の悪口ばかり言いながら持て余している桃のジェラート
どのおとこも私をあいしませんように父の背中に塗るステロイド
みずいろの風がまぶたを撫でるからゆっくり握る朝顔の種
ええすきよ、なお軽々と口にして夏椿からこぼれる花粉
 これらの歌では上句と下句の意味的連接の粗密に差はあるものの、おおむね上句から意味的に飛躍のある下句を配し、下句は「〈動詞〉する〈名詞〉」の形式を取っている。野口は短歌の生理をよく知っているのである。永田和宏の「合わせ鏡」の比喩を持ち出すまでもなく、短歌や俳句のような短詩型文学においては、「切れ」が短い一首・一句の中に大きな空間を作り出し、ひいては詩を浮上させる役割を果たす。例えば上に引いた一首目では、上句は「逡巡と停滞」、下句は「決断と前進」と対を成しており、効果的に用いられた擬音とともに「三ツ矢サイダー」が喩となっている。
 最後に短歌研究新人賞の対象となった「カシスドロップ」から一首。
青春の心拍として一粒のカシスドロップ白地図に置く
カシスドロップは短歌の喩で、この歌は歌人としての野口の覚悟の表明と読みたい。『くびすじの欠片』はその覚悟を十分に表した歌集となっている。