第120回 後藤由紀恵『ねむい春』

隊列のほどける時にきわやかに鳥のかたちを取り戻したり
                 後藤由紀恵『ねむい春』
 何の鳥だろうか。隊列を組むのだから雁だろうか。隊列を組んでいる間は、飛行する速度や姿勢は他の鳥に従う。隊列が崩れて孤に戻る時に、鳥は本来の鳥の形を回復すると歌は云う。作者の心の深くに潜む希求を反映した心象風景で、写実ではあるまい。感情を形象に託した歌で、その感情の基調は〈不全感〉である。作者の後藤はこのように、日常の濃やかな感情の波立ちを具象化して言葉に落とし込む技に巧みである。
 『ねむい春』は2013年刊行の第二歌集。2004年の第一歌集『冷えゆく耳』で現代短歌新人賞を受賞してからの歌をほぼ編年体に収録している。かつて『冷えゆく耳』について、「後藤の歌の主題は同居する両親と祖母から構成される家族という舟だ」と書いたが、本歌集においてもその基本的姿勢は不変であり、収録された歌のベースには日々の暮らしが常にある。だから順番に読んでゆくと、まるで作者の人生行路を指でなぞるのように克明にたどることができる。後に触れるように、本歌集に収録された歌が作られた期間にはいろいろな出来事が作者の身辺に起きているのだが、歌は淡彩の絵のようにそれらを淡く描いている。粒がそろった真珠の首飾りのように、一首一首の粒がそろっているために印象が淡く見えるのだが、粒がそろっているということは歌の技術的レベルがそれだけ高いということだろう。逆に言えば集中でこの歌というように、一首を代表歌として挙げることがむずかしい。それは作者が短歌をあくまで生活に即したものとして捉えているということでもある。芸術派ではないということだ。
 さて収録された歌を順に見てみよう。
転倒をくりかえす祖母をささえつつ廊下を歩くわれのスリッパ
しずかなる馬の眼をもてかなしみを語らぬままに老いてしまえり
淡々と事実を告げられ病人になりゆく父とわれら家族と
胸にある葉の枯れゆくを指し示す医師の声のみしんと響いて
 第一歌集ですでに老いの兆していた祖母は、介護が必要になり認知症の傾向が出ている。父親は突然肺ガンの宣告を受け、入院し手術を受ける。このような家族の変化も大きいが、いちばん大きな出来事は大学の事務職員だった作者が結婚したことだろう。
うめさくら冬から春へうごきゆく季節に君と暮らしはじめつ
うすがみに筆圧つよく名をきざむ作業ののちに婚はととのう
薬屋とカラスの多き町と知るひとつの季節を君と暮らして
 やがて祖母は泉下の人となり、作者は新しい町で派遣社員として働き始める。また長年営業した実家の居酒屋は閉店することになる。
いくたびも撫でし額を死ののちもふたたび撫でるわれのてのひら
派遣会社ことなるわれら時給には触れずランチはなごやかに過ぐ
この春に店を閉めると一行の母のメールに風雲の立つ
 結婚生活も順調とは言えず、夫との間に越えがたい心の壁が出来ているようだ。
うすぐらき庭に枇杷の実ふとる夜半いさかう前に夫はねむりぬ
寄り添いて添わぬこころを冬ざれの馬橋公園のベンチの上に
夫という輪郭を持つとうめいな壁とわれとに冬の陽の射す
玄関のドアをあければ夫という夜の湿原われを待ちおり
 歌集の批評においてもこのように作者の実人生をたどらざるを得ないのは、それを離れては作者の短歌が意味を持たないからである。それはそれで短歌に対するひとつの態度であるので、文句をつける筋合いはない。
 後藤の短歌の特色として注目すべきなのは、濃やかな情感の表現と、体感を掬い上げるように言葉に落とし込む表現力だろう。
君の声しずむ身体もてあましひねもす春をふかく眠らな
六人の女のあしもと冷えてゆく事務室に置く硝子のりんご
背中からみどりに濡れてゆく午後のベンチにふたりとりのこされて
耳ふかく気圧は変わりトンネルを抜ければ夏の空だけがある
しびれるまで冬の真水にさらしおく十指につかむこの先のこと
緋の色の革手袋のうちがわに指先の知るくらやみがある
執拗に水切りしたる豆腐もて白和えつくる二月の厨
 一首目の「君の声しずむ」に見られる音声と重力を結びつける表現、二首目の冷えゆく室内と硝子のリンゴの呼応、三首目の色彩と濡れる感覚の照応など、身体感覚を何かと結合することでいっそう際立たせている。四首目の気圧の変化による耳の感覚や、五首目の指の感覚などにも同じことが言える。とても微細な身体感覚を掬い上げて、感情の表現へと昇華させているところが巧みである。読んで歌意が取れないという歌がほとんどない。七首目はいわゆる厨歌で、女性が得意といるところだが、「執拗に」という初句の副詞に圧がかかっているところが歌のポイントだろう。
 『ねむい春』はこのように表現力のレベルの高い歌集で、読者は読み進むうちに作者の感情の起伏や細かい襞に至るまでを、寄り添うようにたどることができる。本歌集の本来の批評はここまでである。残りは雑感で、私の勝手な感想である。
 読み終えた後に「しかし」という思いが残る。本歌集を通読して感じるのは〈閉塞感〉である。それは女性として妻としての社会的役割がもたらす閉塞感だろう。歌集巻末近くに、東日本大震災の後で津波に洗われた写真洗浄のボランティアに赴いた折りの歌がいくつか配されていて、〈私〉の枠を超えた社会的回路が感じられるが、それも僅かである。
 文学表現の理想は、個を描いて普遍に至ることだろう。個に閉じられることなく普遍への通路を開くことで、表現は共有され共感される。そのためには個を克明に描きながらも、どこかに普遍を意識しなくてはならない。普遍への回路を組み込むことで、文学表現は〈私〉の表現から〈私たち〉の表現へと変貌する。
 普遍への回路が組み込まれていると私が感じるのは次のような歌である。
軋みつつ人々はまた墓碑のごとこの夕暮れのオールを立てる
                 寺井淳『聖なるものへ』
観音のおゆびの反りとひびき合いはるか東に魚選るわれは
             大滝和子『人類のヴァイオリン』
まづ水がたそがれてゆきまだそこでためらつてゐる夜を呼ぶそつと
                   大辻隆弘『夏空彦』
 普遍への回路は、実生活においてはいざ知らず、少なくとも言語表現においては閉塞感から解き放たれるひとつの通路である。