149:2006年3月 第4週 後藤由紀恵
または、日常の時間の中に沈潜する歌

母という永遠の謎ふくふくと
     空豆を煮てわれを待ちおり

        後藤由紀恵『冷えゆく耳』
 自分を産み育てた母ですら、畢竟心の底まで理解できるわけではない。人間の相互交通性の限界がこの歌の主題だが、この歌の魅力はひとえに「ふくふくと空豆を煮て」の部分にあることは明らかだろう。「ふくふくと」という擬態語は空豆がふっくらと美味しそうに煮える様を表現するが、微妙に母親のふっくらした体型にもかかっているようだ。この多重性と未決定性が歌の意味作用にとって貴重なものである。「空豆を煮て自分を待っている」という描写には、残酷なグリム童話の一節のような不気味さが漂っている。同居する娘と母の関係はなかなか複雑なのである。

 後藤由紀恵は1975年(昭和50年)生まれで「まひる野」所属。2003年に角川短歌賞次席となり、2005年に第一歌集『冷えゆく耳』でさいたま市が主宰する現代短歌賞の第6回目の受賞者となった。ちなみに現在までの受賞者は、梅内美華子、小守有里、渡英子、松本典子、河野美沙子と全員女性である。

 後藤の歌集を一読しての感想は、生活意識のリアルな反映という「まひる野」の伝統に添いつつ、現代において自己と生活から遊離しない短歌だというものである。その分、短歌定型の革新とか修辞の冒険という派手さがないことを残念に感じる向きもあるかもしれないが、それは欲張りと言うものだろう。主題の捉え方、主題を表現するための言葉の自己への引き寄せ方、そして一首のなかへの言葉の収め方は巧みで無理がない。作歌の現場での悩みはあれども、〈生活と歌〉の幸福な関係が成立していることが歌を通して感じられる。

 後藤の歌の主題は、同居する両親と祖母から構成される家族という舟なのだが、巻頭に置かれているのは次のような相聞である。

 声のみに君を知りゆくこの冬の栞とならんわたくしの耳

 われを指さぬひとさしゆびに君がさす空より花のように降る雪

 ぬばたまの髪をかざりて花となる声を聴かせよ低きその声

 でもきっと同じではない肩を寄せきれいと言いあう月のかたちも

 女性にとって恋は永遠の主題だが、流れるような調子の三首と並んで、冷静に恋のゆくえを見つめる四首目のような歌があることも注意しておきたい。恋の希求を詠い上げるには文語調が適しているが、反省は「でもきっと」と始まる口語調になっているのもおもしろい。

 『冷えゆく耳』の大きな部分を占めているのは家族詠であり、なかでも高齢となり認知症の傾向を示す祖母を詠んだ歌に注目しないわけにはいかない。

 終わりゆく祖母の時間の先にある死はやわらかく草の匂いが

 最後までおみなでありしかなしみは眠れる祖母の耳としてある

 「家に逝く」理想に今も日本の女らするどく追い詰めらるる

 笹舟のような家族よ祖母というかろき錘を垂らしつつゆく

 うつくしき母はまぼろし男らよ母の襁褓をまつぶさに見よ

 迷いゆく祖母のこころに触れることふいにおそろし春のゆうぐれ

 子を産みて育て働き痴れてゆく女とは淋しき脚に立つもの

 家族は笹舟のように流れに翻弄される存在であり、介護を必要とする祖母が錘として把握されているところに作者の沈着な眼差しがある。また作者は老いゆく祖母の介護を通して、「日本の女」を見つめている。このような意識が引用した最後の歌として表現されている。その眼差しは当然ながら、結婚・出産という人生コースを歩まない自分へと投げ返されるのである。

 眠る子はたしかな錘 母となりし友はしずかに岸を離りて

 立ち枯れの葦なびきたる川の辺に妻にも母にもならぬ身を置く

 産むものと産まぬものとが集まりてペンギンの顔をして笑いあう

 子を産んで母となった友人との距離感、〈子あり組〉と〈子なし組〉の間に生じる秘やかな壁という微妙な意識をこのように掬い上げるとき、歌は最も後藤に寄り添うものとなるのだろう。

 家族詠を離れても、日常の些細な感情の揺れを掬い上げるという後藤の歌の性格は変わらない。

 簡潔に死は刻まれて議事録の余白に春の雪ふりつもる

 時給にて働くわれを気軽だと評するひとの細きネクタイ

 プリットとヤマトのりとの差異のほど事務員として過ごすまひるま

 ふいに目の前より消えしボールペンほどの日常に慣らされており

 一首目は事務職として勤務する大学で、死亡により除籍となる学生を詠んだもの。事務職員としての自分と人とが「プリットとヤマトのりとの差異」ほどしかないという認識は冷徹であり、この認識の鋭さが歌を支えている。

 後藤の歌の手法は基本的には戦後短歌の骨格をなしたリアリズムである。しかしなかにはリアリズムの枠から微妙に外れている歌もあり、そんななかにおもしろい歌がある。

 日の暮れに何もつかめぬ両腕の幾千本の空より垂れて

 「北へゆく」ことに焦がるる春の午後パルコ八階で見るプラネタリウム

 靴下の左右まちがえ雨の午後笑わぬ歯科医としばし向き合う

 ゆうぐれの上から夜は降りてきてわたくし以外のひとを隠しぬ

 まなぶたにみどりのこどく滴らせシーラカンスのように眠りき

 遠き世に馬として添うこいびとの背骨のあたりに春風の立つ

 一人称で生きているような顔をして指紋だらけの銀のドアノブ

 一首目の空から腕が垂れているというのは、現実の風景ではもちろんありえず心象風景だろう。二首目の「北へゆく」は現実の北というより精神の北方であり、パルコという都市風俗の象徴としての固有名詞の選択も効果的である。三首目は現実にあったこととも解釈できるが、それ以上に寓話的な物語性がありおもしろい。四首目はリアリズムではあるのだが、夜が私以外の人を隠すという発見に、世界のなかにおける〈私〉の特異点としての性格がよく表現されている。〈私〉は〈私〉の視線から隠すことはできないのである。五首目はこれだけ読むと謎のようだが、映画『グラン・ブルー』で描かれたダイバーのマイヨールの死を詠んだもの。珍しく「みどりのこどく」と平仮名書きした表記に、伝説のダイバーを神話的世界に眠らせようとする作者の配慮が見える。六首目と七首目はリアリズムよりも想像の方が勝っているのだが、このような方向性の歌ももっとあってよいようにも思える。

 リアリズムの生命線は、現実の風景の中にいかに透徹した視線を潜りこませられるかであり、それと相対的に観察者としての自己をいかに純化していくかであろう。

 すでに死をのぞみし若さ持たぬゆえきりきりと巻く秋の糸巻

 いずれ死すわが頭の型にへこみたる枕を撫でるはつなつの風

 このような歌を見ると、後藤は年齢に似合わず事物の奥へと沈み込むような視線を持っていることがわかる。この視線がさらに研ぎ澄まされていったとき、どのような歌が今後生まれて来るのか期待したい。