第121回 山崎聡子『手のひらの花火』

セーターを脱げばいっせいに私たちたましいひとつ浮かべたお皿
                 山崎聡子『手のひらの花火』
 近年、学生短歌会の復活・創設ラッシュだという。一時は伝統ある國學院短歌会や立命館短歌会などが活動を停止し、まともに活動しているのは早稲田短歌会と京大短歌会くらいという時代もあったのだが、風向きが変わって全国で学生短歌会の活動が盛んになっている。詳しくはこちらを参照。いったいどういう風の吹き回しかと不思議に思うが、不思議に思うだけで原因に心当たりはない。いずれにしても若い人たちが短歌に興味を持ってくれるのは喜ばしいことである。当たり前のことだが、裾野が広がらなければ才能は出て来ない。また評論家の草森紳一に「才能はまとまって輩出する」という名言がある。少女マンガの花の24年組を見てもこの言が真実を突いていることは明らかで、この意味でも学生短歌会が活発に活動することで、若い人たちがお互いに刺激しあうのはよいことだ。
 若手歌人の歌集が相次いで出版され、また書肆侃侃房を版元とする「新鋭短歌シリーズ」の刊行も始まった。現代短歌シーンが少しずつ動き始めている気がする。これから何回かに分けて見ていこう。今回は山崎聡子の第一歌集『手のひらの花火』である。
 山崎は1982年生まれ。早稲田短歌会所属、ガルマン歌会・「pool」に参加。2010年に「死と放埒なきみの目と」で短歌研究新人賞受賞している。『手のひらの花火』は受賞作の一部を含む第一歌集で、栞文は日高堯子、加藤治郎、穂村弘、石川美南。装丁は「塔」の花山周子。あとがきによれば、短歌を作り始めた19歳の頃の作から最近の作まで250首を収録したという。ほぼ編年体だと思われる。
 若い歌人の歌集を読む時には、作歌技術の巧拙を論じてもしかたがない。若いのだから作歌技術に未熟な点があるのは当然だ。若い歌人の歌集を読む時に私が一番注目するのは、「言葉で構築された世界との距離の取り方」である。もちろんのこと短歌の世界はすべて言葉で構築されている。しかし、作り上げられた言葉の世界に対して、作者もしくは作者が投影された〈私〉がどのような立ち位置を取るかは人によって様々である。これは写実かそうでないかという位相とはまた異なる。
うすぐらき庭に枇杷の実ふとる夜半いさかう前に夫は眠りぬ
                後藤由紀恵『ねむい春』
りすんみい 齧りついたきりそのままの青林檎まだきらきらの歯型
             山田航『さよならバグ・チルドレン』
やはらかき手のあらはれて思ふさま入れる鋏のひびきは空に
                  鳴海宥『BARCAROLLE』
みずうみのあおいこおりをふみぬいた獣がしずむ角をほこって
                    小林久美子『恋愛譜』
 後藤の歌の立ち上げる世界は〈私〉と肉薄する距離にある。作者の自宅の庭に本当に枇杷の木があるかどうかは関係ない。後藤の歌は〈私〉の歌である。これに対して山田の歌では、歌の世界と作者もしくは〈私〉はもう少し距離が離れている。歌に作者の感情が投入されているとしても、歌の世界は作者を少し離れた空間に浮遊している。鳴海の歌になるとさらにその距離は増す。言葉は〈私〉に奉仕するのではなく、短歌という文学形式を満たすことにもっぱら奉仕している。出来上がった歌は、作者を限りなく離れた空間に浮遊する。小林の歌ではさらにその度合いが進み、言葉は現実の意味をほぼ失ってポエジーを立ち上げることにのみ奉仕している。鳴海や小林の歌が漂っているのがもはや非人称と化した「文学空間」に他ならない。「言葉で構築された世界との距離の取り方」というのはこういう事情を指す。
 では山崎の『手のひらの花火』はどうかと言うと、まだスタンスが決まらないきらいはあるものの、独自の距離感を感じさせるものが確かにある。
塩素剤くちに含んですぐに吐く。遊びなれてもすこし怖いね。
理科室のホルマリンに似た甘い香が夏の土から匂い立つなり
「秘密ね」と耳打ちをして渡された卵がぐらぐら揺れるポケット
ソーダーのにおい仄かに立ちのぼる手首をきみに押し当てている
助手席のクーラーからは八月の土のにおいが漏れて 遠雷
 ここに引いた歌に共通するのは「どこか危険な香り」であり、「世界に対してロシアン・ルーレットを仕掛けているような眼差し」である。一首目は高校のプールの情景だが、殺菌のための塩素剤を口に含むのはもちろん危険な行為である。子供の無邪気な遊びというには、知りながらあえてする確信犯的な響きが感じられる。二首目、夏の土から立ち上る匂いは草いきれも混じってもっと爽やかなもののはずだが、動物の標本死体を入れたホルマリンの匂いだという。三首目には長い詞書のような散文が添えられているのだが、小学校の用務員が学校の門前のアパートに住んでいて、よく子供達を招き入れて遊んでいたという。子供に「秘密ね」と耳打ちして卵を渡しているのはこの用務員の男である。このシチュエーションだけでも十分に危険なのだが、それに加えて卵のぐらぐらである。四首目と五首目は短歌研究新人賞を受賞した連作「死と放埒なきみの目と」から引いた。この歌集には収録されていないが、受賞作には「罪深いおしゃべりばかり溢れだす、カローラ、義兄の白いカローラ」という歌があって、義兄との危険な場面だということがわかる。五首目には人物はいっさい登場しないにもかかわらず、何かが起こりそうという危機感がよく表現されている。
 これらの歌に表現された世界と作者・山崎との距離感は、20代前半の若い女性という作者の実像と照らし合わせて見れば、それほど理解が難しいものではない。子供時代は世界が大きく自分は小さい。自分は完全に受動的な立場に置かれる。大人になって経済的に自立し社会的立場を得ると、今度は能動的立場に立って社会を動かすことも多くなり、世界と自分の関係は変わる。しかし20代前半の若い女性というのは微妙な年齢である。受動と能動のきわどい均衡を利用して危険な火遊びをしているようにも見える。
 第一歌集を通読して感じるのは、山崎はこの自分と世界の距離感をよく掴んでいて、それを梃子にして短歌の世界を立ち上げているということである。そこがこの歌集の魅力だろう。ただし、歌集後半になるとさすがにそれだけでは短歌世界を支えきれなくなったのか、子供時代のノスタルジーや映画の世界や第二次大戦の風船爆弾の逸話などを素材にしているが、あまり成功しているとは思えない。山崎特有の「世界に対してロシアン・ルーレットを仕掛けているような眼差し」が感じられないからである。
 次にテーマ批評的に分析してみると、この歌集を通底するのは「匂いと湿り気」というテーマである。上に引いた五首のうち実に四首に匂いが詠まれているが、まだまだある。
虹色に塗り分けられた天井やピエロの動物じみた体臭
雨の日のひとのにおいで満ちたバスみんながもろい両膝をもつ
しっとりと湿る前髪そこに触れ泣かせてみたいと思うバスシート
演劇部顧問のあまい体臭が照明ルームの暗さににおう
右腕のつけねのやわい筋肉は夕立に似たにおいがしてる
 これは山崎が世界とどのような回路で繋がっているかをよく表している。それは匂いという嗅覚と湿り気という触覚である。世界を知的な構築物としてではなく、感覚を通して触れる知覚対象として捉えているということで、これが山崎の短歌に実感的手触りを与えていることに注意しておこう。
 細かい言葉の使い方とか、口語ベースにときどきぼつりと混じる文語表現とか、表現上気になる点はいろいろあるが、ここで言ってもしかたがない。
 歌集のなかから心に残った歌をあげておこう。
肺胞の模型図を陽に透かしつつ息をひそめて心音を聴く
ほおずきを口のなかから取り出せばいのちを吐いたように苦しい
ペディキュアを塗っては十の足指をひたむきにサンダルに沈める
放埒な光が宿るきみの目のひとなつで死に絶えるひぐらし
祖母の濁った目をおもう夏の日のそら豆のそのうすい皮膜に
小説のなか晩年を見たあとに市営プールに日陰はなくて
絵の具くさい友のあたまを抱くときわたしにもっとも遠いよ死後は
水辺にいるようなにおいだ花を抱き商店街に立ちつくす友
 これらの歌には山崎の〈私〉と世界との、一瞬後には壊れてしまうかもしれないような、危うい刹那的な関係がよく表現されている。そこが魅力なのだが、こういう世界の立ち上げ方で今後も歌を作り続けて行くのはいささか苦しいかもしれない。そのとき山崎に転機が訪れることは十分考えられるだろう。