第122回 大森静佳『てのひらを燃やす』

忘れずにいることだけを過去と呼ぶコットンに瓶の口を押しあて
               大森静佳『てのひらを燃やす』
 この歌は集中白眉の歌ではないかもしれないが、本歌集の底深く流れる主題をよく表している。それは「時間」である。より正確に言うと「流れ去る時間に触れる悲しみ」である。「時間」は私もあなたも均並みに過去へと押し流す非情な客体であり、本来、私はそれに触れることはできない。私が触れることができるのは、私に操作可能な客体だけである。時間は私を支配するが、私は時間を支配できない。ここに何人も覆しえぬ非情な非対称性がある。
 私たちは時間に触れることはできないが、時間の流れを感じることはできる。これが〈私〉と時間とが取り結ぶ唯一の関係性である。掲出歌の上句「忘れずにいることだけを過去と呼ぶ」が意味するのは、時間はいずこかへと流れ去り消滅し、〈私〉の記憶に保存した情報のみが過去と呼ばれるということである。つまり過去とは記憶に他ならない。〈私〉が消えれば過去もまた消失するのだ。「コットンに瓶の口を押しあて」の下句が上句の観念性を希釈して、時間の流れを体感している〈私〉を押し上げる。よく出来た短歌的構造だと言えよう。
 作者が時間を強く意識していることは、次のような歌を見ればよくわかる。
蛍光ペンかすれはじめて逢えぬ日のそれぞれに日没の刻あり
日付から思い出せないものもあり柱にもたれる角度を真似る
浴槽を磨いて今日がおとといやきのうのなかへ沈みゆくころ
 大森静佳は1989年生まれ。「塔」「京大短歌」に所属。大学在学中の2010年に「硝子の駒」で角川短歌賞を受賞。審査員がほぼ満票に近い高評価を与えたことも記憶に鮮しい。その後、本人は大学院に進学し、現在は「塔」編集委員として活躍している。『てのひらを燃やす』は今年(2013年)の5月に刊行されたばかりの第一歌集。刊行から間がないのでまだあまり書評されてはいないだろう。前回取り上げた山崎聡子の歌集題名が『手のひらの花火』で、大森の歌集題名とよく似ているのは偶然とはいえおもしろい。この偶然の一致に現代の若手歌人の心の希求を読み取ることもできるかもしれない。
 角川短歌賞を受賞した「硝子の駒」50首では見ることができなかった歌人の資質が、歌集一巻を通読すると実によく見える。やはり歌集を持つのは大事なことなのだ。
 大森の短歌は現代では珍しいほど端正な定型短歌だが、『てのひらを燃やす』を特異な歌集としているのは、ほぼ全歌が相聞だということである。これは珍しい。
祈るようにビニール傘をひらく昼あなたはどこにいるとも知れず
痩身の父親として君がいつか立つという夏 カンナが光る
ワイシャツの背を流れゆく濃き葉陰わたしにばかり時間はあった
ビー玉の底濁る昼 くちづけて顔から表情を剥がしたり
栞紐のさきをほぐしぬ一月の心に踏みとどまる名前あり
 これらの歌を読んだだけでも大森の歌人としての資質がよくわかる。それは過度に自己主張しない、どちらかと言えば控えめな〈私〉と、感性に基づく世界の把握である。このうち前者は「ひとの背中を眺めるのが好きで、図書館ではいつも窓際の一番後ろの席に座っていた」という角川短歌賞受賞の言葉がよく物語っている。前に出るのではなく、後ろに下がって背中から世界を見るのを好むのである。また後者は角川短歌賞選考会で選者の永田和宏が何度も口にした「感性の重み」「感性の錘」という言葉に表れていよう。その意味するところは、自分の感性に頼ってしゃにむに突き進んだり、ただ言葉の組み合わせによってポエジーを立ち上げるのではなく、細部の具体性が感性の錘として働いて、歌に重みと具体性が加わっているということである。
 たとえば上に引いた一首目を見てみよう。下句の「あなたはどこにいるとも知れず 」は心のつぶやきで、これだけでは歌にならないが、上句のイメージの具体性が効いている。「ビニール傘」という詩的からはほど遠いアイテムと「祈るように」との組み合わせが、下句のつぶやきを発した主体の個別性を担保する。このイメージの具体性は、他の歌では夏に光るカンナであり、ワイシャツに背を流れる葉陰であり、底濁るビー玉であり、ほぐした栞紐である。
 では大森はこのような眼前の個別性にのみ目を注ぐのかというと、そうではない。
ハルジオンあかるく撓れ 茎を折る力でいつか別れるひとか
われの生まれる前のひかりが雪に差す七つの冬が君にはありき
くちと唇合わすかなしみ知りてより春ふたつゆきぬ帆影のように
遠い先の約束のように折りたたむ植物園の券しまうとき
後戻りするものだけがうつくしい枇杷の種ほど光る初夏
 ここには冒頭に指摘した大森の時間意識が色濃く滲み出ている。一首目には今自分の隣にいる人と別れることになるかも知れない未来の時間が詠まれている。つまりこの歌には「今」と「未来」のふたつの時間があり、自分はその間を漂う存在だと意識されているのである。二首目は恋人が自分より7歳年上であることを詠んだ歌だが、それを光差す7つの冬と美しく表現している。ここにあるのは未生の時間への眼差しである。三首目でふたつの春が帆影に喩えられているのは、時間の流れは捉え難いからである。四首目にはおもしろい時間の転倒がある。折りたたんでいる植物園の入場券は使用済みの券だろう。ふたりで植物園に行ったのである。だからこの券は過去に属する。しかしそれを遠い約束と意識するのは、過去と未来とを架橋するものとして自分を捉えているからである。また五首目の「後戻りするもの」とは過去にほかならない。
 このように大森の眼差しに捉えられるものは、眼前に今として存在し体感することができるものという狭いリアルだけではなく、〈私〉を流れる時間でもあるのだ。この時間意識が大森の短歌に奥行きを与えていることに注意しておこう。
 本歌集にはよい歌がたくさんあるのだが、特に印象に残った一首だけをあげておこう。
喉の深さを冬のふかさと思いつつうがいして吐く水かがやけり