第235回 大森静佳『カミーユ』

天涯花ひとつ胸へと流れ来るあなたが言葉につまる真昼を

大森静佳『カミーユ』

 辞書によれば天涯花てんがいばなとは曼珠沙華または向日葵の異称だそうだ。だからどちらの可能性もあるのだが、一首の中に放ったときの美しさを較べれば曼珠沙華に軍配が上がる。曼珠沙華は彼岸花の別称で秋の季語であり、その名から「彼岸」という宗教的感情を喚起する。曼珠沙華は仏教で言う「四華」の一つで、法華経が説かれる時に天から降る花だという。四華とは白蓮花、大白蓮花、紅蓮花、大紅蓮花で、曼珠沙華は紅蓮花に当たる。だから赤い彼岸花である。

 その曼珠沙華が〈私〉の胸に流れて来るという。花を放ったのは天だろう。つまりそれは天啓ということだ。「あなた」が言葉に詰まるとある。なぜ言葉に詰まったのかは明かされていない。そこにあるのは緊張を孕んだ〈私〉と「あなた」の関係性と、ふいに訪れる天啓の瞬間だけである。大きな謎を残す歌だがとても美しく、読者の想像力を刺激する。結句の助詞「を」も効果的だ。初句六音、四句八音の増音をほとんど感じさせない。

 大森静佳は京大短歌会のOGで「塔」所属。2010年に角川短歌賞を受賞。第一歌集『てのひらを燃やす』(2013年)がある。『カミーユ』は書肆侃侃房から現代歌人シリーズの一巻として今年(2018年)の5月に刊行されたばかりの第二歌集である。

 『てのひらを燃やす』を論じたときに私が指摘したのは、収録歌のほとんどが相聞であること、全体を通底するテーマが「流れ去る時間に触れる悲しみ」であること、および作者の資質が「感性に基づく世界の把握」だということだった。第一歌集から5年の歳月が流れたが、相聞の割合が減ったことを除けば私が指摘したことはそう変化してはいない。しかし歌境の深化は確実に見られる。そのひとつは自らの孕む〈闇〉に眼を向けるようになったことだろう。

わたくしが切り落としたいのは心 葡萄ひと粒ずつの闇嚥む

〈在る〉ものは何かを裂いてきたはずだつるつると肉色の地下鉄

夕暮れは穴だからわたし落ちてゆく壜の砕ける音がきれいだ

春の日に手を見ておればとっぷりと毛深しわが手夕闇のせて

風を押して風は吹き来る牛たちのどの顔も暗き舌をしまえり

 後でも触れるが、一首目は「宦官」と題された連作中の一首なので、読解にいささか注意が必要だが、口にするブドウのひと粒ひと粒が〈闇〉と観じられていることが目を引く。二首目は「五月」という自身の誕生に思いを馳せる連作の一首で、存在の傷と呼ぶべき原罪意識を詠んだものである。三首目も同じ連作から。「夕暮れは穴」というのは、朝に誕生した新しい時間が終息してゆく頃とも、早朝に昂揚した気分が夕暮れとともに落ち込んでゆくとも取れる。〈私〉はそこに壜が砕ける音を聞いているのである。四首目の「夕闇」、五首目の「暗き舌」も同様の〈闇〉の変奏だと言えるだろう。

 本歌集のもうひとつの特色は、何かに想いを寄せて想像力で作った連作が多いという点である。たとえばある日、どこかで開催されている展覧会に行く。例えば有元利夫展だとしよう。展示されている絵画や、画家の送った短い人生に着想を得て歌を作る。すると日常生活に題材を得る日々の歌とは次元を異にする、想像力による歌ができる。

 集中の「瞳」はナチスに抵抗して21歳で処刑されたゾフィー・ショルを描いた映画「白バラの祈り ゾフィー・ショル最後の日々」を題材とした連作である。事象の奥へと向かおうとする眼差しが印象的だ。

枝から枝へおのれを裂いてゆくちから樹につくづくと見て帰りたり

殺されてうすいまぶたの裡側をみひらいていた 時間とは瞳

そのひとは怒りをうつくしく見せる〈蜂起〉の奥の蜂の毛羽立ち

 「異形の秋」は中国の宦官に想を得た連作である。なぜそのように思ったのかは不明ながら、宦官の運命を自らに引き寄せて感じようとしているようだ。

暮れ残る浴室に来て膝つけばわが裡の宦官も昏くしゃがみぬ

蝿払う彼らの無数のてのひらがぼとぼととわが胸に墜ちくる

亡骸にふたたびそれを縫いつけよ もう声が軋むことはないから

 「サルヒ」はモンゴル帝国を築いたチンギス・ハンを詠んだ連作。チンギス・ハンには夭折した妹がいたようで、二人の関係が主題となっている。

兄というもっとも遠い血の幹を軋ませてわれは風でありたし

骨を煮る臭気のなかにまどろめばきみの子を産むぎんいろのゆめ

どんぶりで飲む馬乳酒のこくこくと今を誰かが黒き紫陽花

 これ以外にも近松門左衛門の「曾根崎心中」や、安珍と清姫に想を得た連作もある。このように文学作品や歴史的事件などを題材とする歌は、日々の生活に限定されがちな短歌の素材を広げてくれる一方で、想像のみで歌を作る危うさも孕んでいる。しかし大森の場合、「感性に基づく世界の把握」が現実世界を超えて、文学作品や映画や絵画にまで拡張したと考えれば、それほど不思議なことでもないのかもしれない。

いっしんに背骨は蒼く燃えながら何から逃れようとする線

肉体の曇りに深く触れながらカミーユ・クローデル火のなかの虹

〈死の床のカミーユ・モネ〉のカミーユもおそらくは寒い光のなかを

 「ダイナード」と題された連作から引いた。「ダイナード」とはロダンの代表作の一つであるうずくまる裸婦の大理石像である。ここには二人のカミーユがいる。一人はロダンの助手にして愛人でもあったカミーユ・クローデルである。ちなみにカミーユ・クローデルは、駐日フランス大使を務めた外交官・詩人のポール・クローデルの姉に当たる。もう一人はモネの異色作〈死の床のカミーユ・モネ〉に描かれたモネの最初の妻のカミーユである。「でもたぶん七月の雲のようなだイザベル・アジャーニの顔に嵌まって」という歌からわかるように、大森は1988年公開の「カミーユ・クローデル」という映画を観ている。ロダンとカミーユをジェラール・デパルデューとイザベル・アジャーニといういずれも重量級の名優が演じた濃い映画である。私はフランスで暮らしていたときに観たのだが、ものすごく長い映画だったと記憶する。あとがきで大森は、歌集題名の「カミーユ」は音の響きの美しさに惹かれて決めたと書いているが、それだけではあるまい。カミーユ・クローデルもカミーユ・モネも、幸か不幸か強い個性を持つ芸術家のパートナーだったという共通点がある。大森はこの点に引かれたにちがいない。

老けてゆくわたしの頬を見てほしい夏の鳥影揺らぐさなかに

時間っていつも燃えてる だとしても火をねじ伏せてきみの裸身は

揚げ餃子ホーショール手づかみで食む指の間を油が〈今〉が滴り落ちる

痛いほどそこに世界があることをうべなうごとし蝿の翅音も

 集中のいろいろな所から引いた。これらの歌の背後に感じられるのは、せつないほどに流れる〈今〉である。鳥は死者の魂を運ぶとされており、窓を一瞬よぎる鳥の影に時間の経過を思い出させられる。時間が燃えているのは、触れることができず、消すこともできない火だからである。耳に響くかすかな蝿の羽音すらも〈今〉を生きる豊穣な世界を感じさせてくれる。

 読み応えのある第二歌集である。

 

第122回 大森静佳『てのひらを燃やす』

忘れずにいることだけを過去と呼ぶコットンに瓶の口を押しあて
               大森静佳『てのひらを燃やす』
 この歌は集中白眉の歌ではないかもしれないが、本歌集の底深く流れる主題をよく表している。それは「時間」である。より正確に言うと「流れ去る時間に触れる悲しみ」である。「時間」は私もあなたも均並みに過去へと押し流す非情な客体であり、本来、私はそれに触れることはできない。私が触れることができるのは、私に操作可能な客体だけである。時間は私を支配するが、私は時間を支配できない。ここに何人も覆しえぬ非情な非対称性がある。
 私たちは時間に触れることはできないが、時間の流れを感じることはできる。これが〈私〉と時間とが取り結ぶ唯一の関係性である。掲出歌の上句「忘れずにいることだけを過去と呼ぶ」が意味するのは、時間はいずこかへと流れ去り消滅し、〈私〉の記憶に保存した情報のみが過去と呼ばれるということである。つまり過去とは記憶に他ならない。〈私〉が消えれば過去もまた消失するのだ。「コットンに瓶の口を押しあて」の下句が上句の観念性を希釈して、時間の流れを体感している〈私〉を押し上げる。よく出来た短歌的構造だと言えよう。
 作者が時間を強く意識していることは、次のような歌を見ればよくわかる。
蛍光ペンかすれはじめて逢えぬ日のそれぞれに日没の刻あり
日付から思い出せないものもあり柱にもたれる角度を真似る
浴槽を磨いて今日がおとといやきのうのなかへ沈みゆくころ
 大森静佳は1989年生まれ。「塔」「京大短歌」に所属。大学在学中の2010年に「硝子の駒」で角川短歌賞を受賞。審査員がほぼ満票に近い高評価を与えたことも記憶に鮮しい。その後、本人は大学院に進学し、現在は「塔」編集委員として活躍している。『てのひらを燃やす』は今年(2013年)の5月に刊行されたばかりの第一歌集。刊行から間がないのでまだあまり書評されてはいないだろう。前回取り上げた山崎聡子の歌集題名が『手のひらの花火』で、大森の歌集題名とよく似ているのは偶然とはいえおもしろい。この偶然の一致に現代の若手歌人の心の希求を読み取ることもできるかもしれない。
 角川短歌賞を受賞した「硝子の駒」50首では見ることができなかった歌人の資質が、歌集一巻を通読すると実によく見える。やはり歌集を持つのは大事なことなのだ。
 大森の短歌は現代では珍しいほど端正な定型短歌だが、『てのひらを燃やす』を特異な歌集としているのは、ほぼ全歌が相聞だということである。これは珍しい。
祈るようにビニール傘をひらく昼あなたはどこにいるとも知れず
痩身の父親として君がいつか立つという夏 カンナが光る
ワイシャツの背を流れゆく濃き葉陰わたしにばかり時間はあった
ビー玉の底濁る昼 くちづけて顔から表情を剥がしたり
栞紐のさきをほぐしぬ一月の心に踏みとどまる名前あり
 これらの歌を読んだだけでも大森の歌人としての資質がよくわかる。それは過度に自己主張しない、どちらかと言えば控えめな〈私〉と、感性に基づく世界の把握である。このうち前者は「ひとの背中を眺めるのが好きで、図書館ではいつも窓際の一番後ろの席に座っていた」という角川短歌賞受賞の言葉がよく物語っている。前に出るのではなく、後ろに下がって背中から世界を見るのを好むのである。また後者は角川短歌賞選考会で選者の永田和宏が何度も口にした「感性の重み」「感性の錘」という言葉に表れていよう。その意味するところは、自分の感性に頼ってしゃにむに突き進んだり、ただ言葉の組み合わせによってポエジーを立ち上げるのではなく、細部の具体性が感性の錘として働いて、歌に重みと具体性が加わっているということである。
 たとえば上に引いた一首目を見てみよう。下句の「あなたはどこにいるとも知れず 」は心のつぶやきで、これだけでは歌にならないが、上句のイメージの具体性が効いている。「ビニール傘」という詩的からはほど遠いアイテムと「祈るように」との組み合わせが、下句のつぶやきを発した主体の個別性を担保する。このイメージの具体性は、他の歌では夏に光るカンナであり、ワイシャツに背を流れる葉陰であり、底濁るビー玉であり、ほぐした栞紐である。
 では大森はこのような眼前の個別性にのみ目を注ぐのかというと、そうではない。
ハルジオンあかるく撓れ 茎を折る力でいつか別れるひとか
われの生まれる前のひかりが雪に差す七つの冬が君にはありき
くちと唇合わすかなしみ知りてより春ふたつゆきぬ帆影のように
遠い先の約束のように折りたたむ植物園の券しまうとき
後戻りするものだけがうつくしい枇杷の種ほど光る初夏
 ここには冒頭に指摘した大森の時間意識が色濃く滲み出ている。一首目には今自分の隣にいる人と別れることになるかも知れない未来の時間が詠まれている。つまりこの歌には「今」と「未来」のふたつの時間があり、自分はその間を漂う存在だと意識されているのである。二首目は恋人が自分より7歳年上であることを詠んだ歌だが、それを光差す7つの冬と美しく表現している。ここにあるのは未生の時間への眼差しである。三首目でふたつの春が帆影に喩えられているのは、時間の流れは捉え難いからである。四首目にはおもしろい時間の転倒がある。折りたたんでいる植物園の入場券は使用済みの券だろう。ふたりで植物園に行ったのである。だからこの券は過去に属する。しかしそれを遠い約束と意識するのは、過去と未来とを架橋するものとして自分を捉えているからである。また五首目の「後戻りするもの」とは過去にほかならない。
 このように大森の眼差しに捉えられるものは、眼前に今として存在し体感することができるものという狭いリアルだけではなく、〈私〉を流れる時間でもあるのだ。この時間意識が大森の短歌に奥行きを与えていることに注意しておこう。
 本歌集にはよい歌がたくさんあるのだが、特に印象に残った一首だけをあげておこう。
喉の深さを冬のふかさと思いつつうがいして吐く水かがやけり

第62回 56回角川短歌賞雑感

 『短歌』11月号に恒例の角川短歌賞の受賞作が掲載された。今年の短歌賞は「塔」「京大短歌」所属大森静佳の「硝子の駒」が受賞した。平成元年生まれ21歳の若い歌人の受賞をまずは喜びたい。永田和宏、三枝昂之、小島ゆかり、梅内美華子の4人の選考委員全員が丸を付け、うち2人が二重丸つまり一位に推したというほぼ満票の受賞であることが、大森の歌の質を証明していよう。「時分の花」という言葉があるが、若い時にしか作れない歌というものがある。「硝子の駒」50首のように静かで控え目な恋の歌は、青春時代にしか作ることのできない歌だろう。
冬の駅ひとりになれば耳の奥に硝子の駒を置く場所がある
カーテンに遮光の重さ くちづけを終えてくずれた雲を見ている
祈るようにビニール傘をひらく昼あなたはどこにいるとも知らず
 大森の短歌は基本的には口語ベースでときどき文語が混じる文体で、きちんとした定型のなかに、一首目の三句六音、二首目の二句切れ一字空け、三首目の初句六音など、一本調子にならないように工夫がされている。端正で品のよい歌風で、選考委員の全員が推したのも無理はない。
レシートに冬の日付は記されて左から陽の射していた道
返信を待ちながらゆく館内に朽ちた水車の西洋画あり
一年と思う日の暮れ樹の匂う名前の駅で待ち合わせれば
 大森の巧さはこのような歌によく表れている。レシートにある冬の日付は過ぎ去った時間を表しており、そこに心の痛みがあることが暗示される。また「左から」の具体性がこの歌によく効いていることも見逃せない。俳句や短歌は微小な具体性に拘泥して広大な普遍に到る詩型である。二首目でメールの返信を待っている相手はもちろん恋人で、作者は美術館にいるのだが、目にしたのは朽ちた水車の絵で、それが恋の行方を暗示している。ここでは「水車」を選んだ選択と、「西洋画」というやや古風な言葉が効いている。三首目は恋人と出会って一年目の記念日なのだろう。「樹の匂う名前の駅」という表現に若さとおだやかな感情が感じられる。
 大森本人の責任ではないのだが、このような口語ベースの歌の欠点は、結句の文末表現が単調になるという点だろう。「場所がある」「雲を見ている」「君と見に行く」「背中を照らす」のような動詞の終止形は単調で、これは現代日本語の大きな欠点とされている。この単調さを避けるために体言止めにしたり、「海を呼びつつ」「壁にもたれて」「川へのバスに」など工夫がされているが、これにも限界がある。口語短歌について一考を要する課題だろう。
 今年度の角川短歌賞は水準が高かったと思うが、私が吃驚したのは次席に選ばれた小原奈実だ。
カーテンに鳥の影はやし速かりしのちつくづくと白きカーテン
仰向けに蝉さらされて六本の鉤爪ふかし天の心窩へ
水溜まりに空の色あり地のいろありはざまに暗き水の色あり
 一首目では室内からカーテンを鎖した窓を見ているのである。庭を鳥が飛び鳥の影がカーテンをよぎる。影が去った後にカーテンの白さが一層際だつという情景を詠んだものだが、その着眼点もさることながら「はやし速かりし」の疾走感のある措辞が見事である。二首目は夏が終わって路上で屍骸をさらす蝉を詠んだ歌。「心窩」とはみぞおちの部位と辞書を引いて初めて知った。極小の蝉と極大の天の対比が残酷さを際だたせる。三首目は雨が上がった後の水溜まりを三層に分けているのである。表面に空が映り、底に地面の土の色があり、その中間に溜まった水があるという。いったい誰が水溜まりをこのように三層に分けて観察することなど考えつくだろうか。つくづく感心してしまう。おまけに小原は平成3年生まれで弱冠19歳なのである。19歳にしてこの文語能力もなかなかのものだ。大塚寅彦、紀野恵らは若くして文語を駆使した短歌を作ったが、その後そのような歌人は絶えて久しい。小原には大いに期待したいものだ。
いずこかの金木犀のひろがりの果てとしてわれあり 風そよぐ
てのひらのくぼみに沿いしガラス器を落とせるわが手かたちうしなう
切り終えて包丁の刃の水平を見る目の薄き水なみだちぬ
 一首目の〈私〉を花の香りが風にのって届く境界線とする把握も秀逸である。二首目は選評で永田和宏が絶賛した歌。高校の化学実験の情景だが、フラスコかビーカーを持っているとき掌はある形をしているが、ガラス器を落としてしまうと掌が形状を保てなくなるという点に着目したのがすばらしい。また韻律もとてもよく、一読して記憶に残る。私がいちばん驚いたのは三首目の歌。俎で何かを切った後の包丁を水平に持ち鋭い刃を凝視する。そのとき眼球の表面を覆っている涙の水分が波立ったというのである。ありえないことである。しかし現実にはありえないことでも詩的真実を伝えることがある。小原はふつう人の気づかない細部に着目する能力があることに加えて、細部から一種の幻視を拡げる異能もあるようだ。頼もしい限りである。
 今年度の角川短歌賞で最も異彩を放つのは平田真紀の「サムシング」だろう。選評で永田が「選者に対する挑戦だ」と言い、審査員特別賞をあげたいとして大いに推した人である。その作風は特異という他はない。
唐茄子に見えなくもなし六畳にかれこれ三日放置されいる
剥いたまま放っておいて干からびてある日茶匙のようになりたり
やわらかになるまで長くかかりたり先端は原形をとどめず
 平田はわざと主語の「何が」を隠して作っているので、全体がなぞなぞのような不思議な感触の歌になっている。50首全部この調子なのがすごい。これで歌集を一冊編むのは苦しいだろうが、類例のないおもしろさなのは確かである。また「何が」を隠すことによって、放置された物体の不気味な存在感や茶匙のように変色した物の質感などだけが前面に出ることもおもしろい。ふつう属性は対象に帰属する。リンゴという対象が「赤い」という属性を持つのである。対象を離れて属性はない。ところが平田の歌では対象が消されているため、属性だけが空中に浮遊しているかのごとき不思議な感覚がある。異才と言えるだろう。本年度と昨年度の短歌研究新人賞に応募したフラワーしげると並んで、今後注目すべき歌人と言えよう。