曼珠沙華一むら燃えて秋陽つよしそこ過ぎてゐるしづかなる道
木下利玄『みかんの木』
木下利玄『みかんの木』
短歌の魅力のひとつにその映像性がある。例としてあげた掲出歌は極めて強い造画力を持っている。舞台は田園だろう。曼珠沙華は田のあぜ道や川の土手に多く咲くからである。秋の陽が強いから時刻は午後で、道端に一群の曼珠沙華が咲いている。季節は彼岸の頃で、まだ夏の暑さが消えていない。曼珠沙華の群れのそばを一本の道が通っている。無音の静謐な光景である。ただそれだけの歌だが、一度読むと忘れられない魅力がある。それはこの歌が極めて鮮明な映像を結ぶからではないだろうか。
おもしろいことに短歌より語数の少ない俳句は、さらに強い映像描出力を持っている。
なぜ短歌や俳句のような短詩型文学が映像性をひとつの魅力とし、また短歌や俳句が描き出す映像に私たちはかくも引きつけられるのか。この問題に解答を与えてくれそうな本が出た。熊谷高幸『日本語は映像的である』(新曜社、2011)という本で、「心理学から見えてくる日本語のしくみ」という副題が付されている。著者は言語の研究者ではなく、福井大学教授で自閉症を専門とする心理学者である。
熊谷がまず拠り所とする概念は「共同注視」である。もともと心理学で使われているのは「共同注意」(joint attention) という用語だが、熊谷は「注意」を「注視」に変えて用いている。幼児の発達過程のある段階において、母親が目の前にある玩具を指差すと、幼児もその玩具を視る。ここにおいて、母親(第1項)と幼児(第2項)が玩具(第3項)をともに視るという3項関係が成立する。これを共同注視という。手前に母親と幼児が横に並び、少し上方に両者から等距離に玩具があるという二等辺三角形を思い描いていただきたい。心理学において、発達段階における共同注意はその後の対人関係の発達の基盤であることが知られており、自閉症の子供は共同注意に障碍があるという。
熊谷の本書における主張は次のように要約できる。
共同注意から導かれる日本語の図式は、話し手(第1項)と聞き手(第2項)が眼前の映像枠の中にある対象(第3項)を視るというものである。二人がソファーに並んで座り、テレビの画像を見ている図を想像すればよい。この場合、テレビ画面が映像枠となる。二人は同じ画面を見ているのだから、相手にも見えているものはわざわざ表現するまでもないので省略される。日本語は省略の多い言語である。熊谷の例を挙げておく。二人が誰かを待っている場面である。
この対話は現場性の強いものだが、熊谷は日本語のしくみはこのような図式を基盤としていると主張する。したがって「りんごがほしい」のように現場性の希薄な発話においても、事情は同じだとされている。
ここで重要なのは話し手の「私」は言語化されないという点だ。なぜなら二人がソファーに並んで座りテレビの画像を見ているという構図を基本図式とする日本語では、話し手の「私」も聞き手の「君」も画像には含まれないからである。「私」も「君」も画像の外側にあり、画像の表現を暗黙のうちに支えている。これにたいして英語では、I want an apple. のように、話し手 I は表現されねばならない。それは映像重視の日本語とは異なり、英語は行為者と対象との力動的関係(ビリヤード・モデル)を基軸として組み立てられているからである。
「私」と「君」は画像(=言語で表現されたもの)の外部に立ち、共同注視という特別な関係性のもとにある。熊谷はこの仮説によって、日本語では「私」「俺」「わし」「手前」など人称代名詞が多いことや、ウチ(私と君)とソト(他人)とを区別する文化的習慣も説明できるとしているが、ここでは詳述は避ける。
眼前の対象への共同注視という図式から想起される国語学の問題がある。山田孝雄(やまだ よしお 1875-1958)の提唱した喚体句という概念である。山田は国語の文には述体句と喚体句の二種があるとした(山田の「句」は文のこと)。述体句は「月明るし」「これは花なり」のように主述関係がはっきりとあるもので、喚体句は「うるはしき花かな」「三笠の山に出し月かも」のように述語を持たず、〈体言+終助詞〉の形式のものをいう。山田の言う喚体句をさらに推し進めると体言止めになる。体言止めは現代の文章でもよく使われる。
「日本語は人と人とが相並んで目の前の映像を注視するという形を基本とする」という熊谷の仮説から帰結するもうひとつの重要な点は「視点性」である。眼前の映像を注視するからには、映像枠の外にあって映像を見る視点の存在が不可欠になる。このため日本語には視点が内在化されている。映像枠の「外部に」あるということと「内在化」されているということは同じことである。
池上嘉彦の『「日本語論」への招待』で有名になった実験がある。川端康成の『雪国』の冒頭の文章「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」を、サイデンステッカーは The train came out of the long tunnel into the snow country.と英訳した。英語話者にこの文章を見せて絵を描いてもらうと、彼らは一様にトンネルから出て来る列車を上空から俯瞰した絵を描いたという。しかし原文から私たちが受ける印象はこれとは異なる。原文では視点主体である読者は、主人公のそばに身を置いて、暗いトンネルの内部から明るい雪原に出る映像変化を感じるにちがいない。
なぜ短詩型文学が映像性を表現の強力な手段として用いるのか、もはや明らかだろう。話し手・聞き手・対象という共同注視の3項関係を基軸とし、それがために視点性の濃厚な日本語は、もともと映像性の強い言語なのである。語数の限られた短詩型文学が説明的に傾く主述関係を避けて体言止めを多用するのは、限られた語数の中にひとつの世界を屹立させんとするからである。
おもしろいことに短歌より語数の少ない俳句は、さらに強い映像描出力を持っている。
乳母車夏の怒濤によこむきに 橋本多佳子一句目では、真夏の炎天下に大波が打ち寄せ崩れる白さと、浜辺に置かれた籐製の乳母車に掛けられた幌の白さが夏の光に映えて眩しい。二句目では、大振りの金魚鉢の中を悠然と泳ぐ金魚と燃えるような夕焼け空が幻想的に二重写しになる。語数の少ない俳句の方がより強力な造画力を持つのは、考えてみれば不思議なことである。
金魚大鱗夕焼の空の如きあり 松本たかし
なぜ短歌や俳句のような短詩型文学が映像性をひとつの魅力とし、また短歌や俳句が描き出す映像に私たちはかくも引きつけられるのか。この問題に解答を与えてくれそうな本が出た。熊谷高幸『日本語は映像的である』(新曜社、2011)という本で、「心理学から見えてくる日本語のしくみ」という副題が付されている。著者は言語の研究者ではなく、福井大学教授で自閉症を専門とする心理学者である。
熊谷がまず拠り所とする概念は「共同注視」である。もともと心理学で使われているのは「共同注意」(joint attention) という用語だが、熊谷は「注意」を「注視」に変えて用いている。幼児の発達過程のある段階において、母親が目の前にある玩具を指差すと、幼児もその玩具を視る。ここにおいて、母親(第1項)と幼児(第2項)が玩具(第3項)をともに視るという3項関係が成立する。これを共同注視という。手前に母親と幼児が横に並び、少し上方に両者から等距離に玩具があるという二等辺三角形を思い描いていただきたい。心理学において、発達段階における共同注意はその後の対人関係の発達の基盤であることが知られており、自閉症の子供は共同注意に障碍があるという。
熊谷の本書における主張は次のように要約できる。
「日本語は、人と人とが相並んで目の前の映像を注視する、という形を基本として、ことばが組み立てられている」熊谷はこの主張を、日本語の指示詞コ・ソ・アの用法や、人称代名詞の豊富さや、過去・未来の表現や、助詞の「は」と「が」の用法などによって証明しようと試みている。本書は一般向けに平易に書かれたものであり、熊谷が展開している証明は必ずしも万全とは言えないが、なるほどと膝を打つことが多い。
共同注意から導かれる日本語の図式は、話し手(第1項)と聞き手(第2項)が眼前の映像枠の中にある対象(第3項)を視るというものである。二人がソファーに並んで座り、テレビの画像を見ている図を想像すればよい。この場合、テレビ画面が映像枠となる。二人は同じ画面を見ているのだから、相手にも見えているものはわざわざ表現するまでもないので省略される。日本語は省略の多い言語である。熊谷の例を挙げておく。二人が誰かを待っている場面である。
A1 : なかなか来ないね。A1の主語が省略されているのは、誰かを待っているという場面性による。B1の主語も同じである。B1で話し手Bは待ち人の到着に気づいているが、まだこの段階では共同注視は成立していない。A2の質問にたいしてB2が「あそこ」と答えて、共同注視が成立する。この対話の表現のすべてが眼前の映像枠に支えられている。
B1 : あ、来た。
A2 : どこ?
B2 : あそこ。
この対話は現場性の強いものだが、熊谷は日本語のしくみはこのような図式を基盤としていると主張する。したがって「りんごがほしい」のように現場性の希薄な発話においても、事情は同じだとされている。
ここで重要なのは話し手の「私」は言語化されないという点だ。なぜなら二人がソファーに並んで座りテレビの画像を見ているという構図を基本図式とする日本語では、話し手の「私」も聞き手の「君」も画像には含まれないからである。「私」も「君」も画像の外側にあり、画像の表現を暗黙のうちに支えている。これにたいして英語では、I want an apple. のように、話し手 I は表現されねばならない。それは映像重視の日本語とは異なり、英語は行為者と対象との力動的関係(ビリヤード・モデル)を基軸として組み立てられているからである。
「私」と「君」は画像(=言語で表現されたもの)の外部に立ち、共同注視という特別な関係性のもとにある。熊谷はこの仮説によって、日本語では「私」「俺」「わし」「手前」など人称代名詞が多いことや、ウチ(私と君)とソト(他人)とを区別する文化的習慣も説明できるとしているが、ここでは詳述は避ける。
眼前の対象への共同注視という図式から想起される国語学の問題がある。山田孝雄(やまだ よしお 1875-1958)の提唱した喚体句という概念である。山田は国語の文には述体句と喚体句の二種があるとした(山田の「句」は文のこと)。述体句は「月明るし」「これは花なり」のように主述関係がはっきりとあるもので、喚体句は「うるはしき花かな」「三笠の山に出し月かも」のように述語を持たず、〈体言+終助詞〉の形式のものをいう。山田の言う喚体句をさらに推し進めると体言止めになる。体言止めは現代の文章でもよく使われる。
誰もがくつろいだひととときを過ごしている。元気に遊ぶ子供たち。木陰で繕いをする女たち。スキマスイッチの「奏」にも「突然ふいに鳴り響くベルの音 焦る僕 解ける手 離れてく君」という歌詞がある。体言止めは映像的なのである。この歌詞でも「ベルの音」「焦る僕」「解ける手」「離れてく君」という4つの場面が、まるで紙芝居かパラパラ漫画のように眼前に次々と展開する印象を受ける。なぜか。細かい議論を省略して結論だけ述べると、喚体句や体言止めは述語を持たず、名詞概念のみを提示するので、その意味解釈を場面性が支えて文として成立する。このため喚体句や体言止めは強い現場性を帯び、ゆえに映像的になるのだと考えられる。
ほおずき市の賑わいの中で佐助は小春を見つける。立ちすくむ佐助。
「日本語は人と人とが相並んで目の前の映像を注視するという形を基本とする」という熊谷の仮説から帰結するもうひとつの重要な点は「視点性」である。眼前の映像を注視するからには、映像枠の外にあって映像を見る視点の存在が不可欠になる。このため日本語には視点が内在化されている。映像枠の「外部に」あるということと「内在化」されているということは同じことである。
池上嘉彦の『「日本語論」への招待』で有名になった実験がある。川端康成の『雪国』の冒頭の文章「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」を、サイデンステッカーは The train came out of the long tunnel into the snow country.と英訳した。英語話者にこの文章を見せて絵を描いてもらうと、彼らは一様にトンネルから出て来る列車を上空から俯瞰した絵を描いたという。しかし原文から私たちが受ける印象はこれとは異なる。原文では視点主体である読者は、主人公のそばに身を置いて、暗いトンネルの内部から明るい雪原に出る映像変化を感じるにちがいない。
なぜ短詩型文学が映像性を表現の強力な手段として用いるのか、もはや明らかだろう。話し手・聞き手・対象という共同注視の3項関係を基軸とし、それがために視点性の濃厚な日本語は、もともと映像性の強い言語なのである。語数の限られた短詩型文学が説明的に傾く主述関係を避けて体言止めを多用するのは、限られた語数の中にひとつの世界を屹立させんとするからである。
駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮れ 藤原定家歌を読むと、詠まれた光景があたかも眼前に在るかのように私たちは感じる。それは日本語のしくみに導かれて、私たちがコトバが開く共同注視の3項関係に身を置くからである。映像枠に描出された対象を契機として、私たちは共同注視者としてもう一人の注視者である作者と一回性の2項関係に立つ。私が腰掛けているソファーの隣には作者がいて、私たちは共同注視の関係性の中で時空を超えて同じ対象を視るのである。ここに至って映像は一つの契機に過ぎず、私たちが導かれる一回性の2項関係こそが歌の本質であることが露呈する。そこに短詩型文学の奥深い魅力があるのだ。
【注と参考文献】
ここで論じた日本語の特質は、国語学では伝統的に「陳述論」と呼ばれて議論されてきた。日本語の本質に触れる議論である。もっと詳しく知りたい方は次の文献を読まれるとよい。
- 阪倉篤義「陳述」、『日本の言語学』Vol.3「文法 1」, 1978、大修館書店
- 渡辺実「叙述と陳述」『日本の言語学』Vol.3,「文法 1」, 1978、大修館書店
- 尾上圭介「語列の意味と文の意味」、尾上圭介『文法と意味』くろしお出版、2001
- 仁科明「人と物と流れる時と – 喚体的名詞一語文をめぐって」、森雄一他編『ことばのダイナミズム』くろしお出版、2008