第128回 斉藤真伸『クラウン伍長』

デニーズをひとつ過ぎれば夕暮れのすべての海は死者たちのもの
                 斎藤真伸『クラウン伍長』
 書肆侃侃房の新鋭短歌シリーズ第2回配本で3冊の歌集が出た。斎藤真伸『クラウン伍長』、天道なお『NR』、笹井宏之『八月のフルート奏者』の3冊である。今回はまとめて読む時間がなかったので、斎藤の歌集を単独で取り上げる。
 斎藤真伸さいとう まさのぶは1971年生まれ。「みぎわ」短歌会と「未来」に所属。後に「未来」を離れて、今は「みぎわ」の活動に専念している。斎藤の師は「みぎわ」主宰であった上野久雄であり、上野との出会いが斎藤を短歌の道に導いたことがあとがきにある。解説は「未来」時代に斎藤が彗星集で選歌を受けていた加藤治郎が書いている。
 本歌集にはおびただしい人名が登場するのだが、歌集題名のクラウン伍長もそのひとつである。歌集にはていねいな注が付されており、クラウン伍長とは名作アニメ「機動戦士ガンダム」の敵軍ジオン軍の兵士の一人だという。主人公アムロ・レイがガンダムに乗って地球の大気圏に突入する際にガンダムに攻撃を仕掛けるも、大気圏の摩擦熱で燃え尽きる兵士である。そんな端役にも名前が付いていたことに驚くが、もうひとつの驚きはこれを歌集題名にするよう勧めたのが上野だったということである。端役であり、志なかばで死んだ人物であることに意味があるかと思う。解説を書いた加藤も、「かき上げのところどころに桜えび言うなれば死はすべて討死」という歌を引いて、「この雲のように掴み所のない現在、討死は、斎藤真伸の矜恃ではないか」と書いている。
 試みに固有名の詠み込まれた歌を拾ってみると次のごとくである。
郷土史にその名なけれど甲斐のひと説教強盗妻木松吉
たったひとつのやりかたとしてその夫のあたま撃ち抜くアリス・B・シェルドン
ケーキ箱脇に抱えて風を受く「杉野はいずこ、杉野はいずこ」
刑死せる勝蔵のゆめ四つ辻のねこやなぎに沿う馬頭観音
靴ひもがすぐにほどける間道を落ちのびてゆく劉備のように
 斎藤は山梨県の生まれである。一首目の妻木松吉は戦前に名を馳せた強盗で、押し入った家で防犯の心得を説いたことからこの名が付いた。二首目のアリス・B・シェルドンは、ジェイムズ・ティプトリー・Jr.の筆名で作品を発表した米国のSF作家。認知症になった夫をかねてよりの合意に基づき射殺し、自分も自殺している。三首目の杉野孫七は広瀬武夫とともに旅順港封鎖作戦に参加した兵士で、乗艦福井丸に爆薬を仕掛けて脱出用舟艇に乗り移ったとき、爆薬掛であった杉野の姿が見あたらず、広瀬は福井丸に戻り「杉野はいずこ、杉野はいずや」と呼ばわったことが文部省唱歌にもなっている。四首目の黒駒勝蔵は甲州出身の博徒で、戊辰戦争に官軍兵士として参加し後に刑死している。五首目の劉備は説明不要。
 これらの人物は有名無名を問わず、激しい生を生き、歴史にくきやかな影を残した人たちである。斎藤はこのような人物たちに心を寄せている。その動機を推察するのはそれほど難しいことではない。現代に生きる私たちは、もうそのような手応えのある生を生きることができない。彼らの残した影の濃さに較べて、私が舗道に落とす影のなんという薄さよ、というわけだ。そのことは上に引いた三首目に鮮やかに示されている。家族のためにケーキを買って帰るのはマイホームパパの象徴である。しかしそのかたわら、斉藤はまるで呪文のように「杉野はいずこ」と唱えるのである。次のような歌も同じ水脈にある。
いつの日かくびられかねぬ身とはいえ明日は歯医者へゆかねばならぬ
小雨降るホームにすするきつね蕎麦あるいは完全水爆のゆめ
サービス券数えていればだんだんと親しくなっていくんだ死は
一日のおわりにひとり麦チョコをたべている 猫が呼ぶこえ
爆弾を仕掛ける場所がないじゃない薄さを誇る液晶テレビ
 これらの歌に揺曳する気分を言い表せば、それは「生の不全感」だろう。一首目、「いつの日かくびられかねぬ身」とは、想像上で大胆なことをしでかしている自分だが、それは虫歯治療のため歯科医に通う日常に打ち消される。斉藤の文体の基本は口語なので、わざわざ時代小説のような物言いを擬している。二首目の立ち食い蕎麦と完全水爆の対比も一首目同様の構図である。三首目、行きつけの店がくれるサービス券は使わなければどんどん増える。「まだこれだけ使える」という未来は、「もうこれだけしか使えない」という有限性へとたやすく転化する。四首目、大の大人がひとりで麦チョコを食べている図には幼児性が漂うが、それは幼児回帰願望も混じっているのかもしれない。五首目、最近の薄型TV は薄すぎて爆弾を仕掛けることもできないという感慨には、もはやリクールの云う「大きな物語」を生きることができない現代の日常感覚がある。つまりは「どえらいことをしでかす」という生のあり方を、あらかじめ奪われているということだろう。
現実が油煙にかすむラーメン店バターが味噌のスープに溶ける
農協ののぼりを濡らすはだれ雪ひとは生きるか雑用のため
 ま、しかしそれでも人は生きねばならぬ。というわけで、今日も取り立てて何もない日常を生きているわけだが、 そんな日々にもささやかな楽しみがないわけではない。斉藤の場合、それは模型、サブカル、時代小説である。
とりあえず模型の市だといっておくぬるいコーラを売っているけど
ブルーシートの海原を征く艦隊は喫水線より下をもたざり
とりどりの仮装コスプレのなか献血のマイクロバスが日陰をつくる
頭巾にて顔を隠すはお銀様八ヶ岳やつの颪にとまどうばかり
 特に作者は中里介山『大菩薩峠』全41巻の世界に耽溺したようで、歌集巻末には「大菩薩峠」に想を得た50首が配されているほどである。それから、模型・サブカル・時代小説という三題噺に並べるのはあまりに失礼なので別扱いとするが、ともに暮らす妻もまた現実という砂漠に置かれた泉である。夫人を詠んだ歌にはどれも愛情がこもっている。「ラブプラス」とは恋愛シミュレーションゲームのこと。
生活の木のパンフレットは顔のした妻が居眠る午後のテーブル
ワインラベル剥がさんとしてこの妻はわれの知らざる器具を取り出す
わが妻に「ラブプラス」の講釈すなんという刑罰ぞこれは
妻というものが私の家にいてドーナッツなど食べる不可解
 私は初めての歌人の歌集を読むとき、最初のうちはダイヤル式のラジオのチューニングのように、ダイヤルを微調整してその歌人の波長を探り当てるように読む。しばらく読み進むと、だいたいその波長が掴めて、以後はその作品世界に苦労せず入ってゆくことができるのだが、それと平行して貼り付ける付箋の数が減るのが常である。それはその世界に私が慣れたということで、勢い類想が多く感じられるということをも意味する。しかし、『クラウン伍長』では思いがけずそのような予定調和的経路は辿ることなく、読み進むうちに逆に付箋が増えて来た。これはいかなることかと思うに、斉藤独自の韻律感覚に体が馴染んで来て、ローカル線に揺られているような快感を感じるようになったのではなかろうか。
透かし浮く和紙の面に天麩羅の衣のはじが残りて二月
歯ブラシの毛先はゆるくひろがって洗面台に春の朝かげ
西国のあらぶる神ぞ川底ゆ引き揚げられしサンダース氏は
かすかなるカルキが匂う脱衣場にたましいまで脱ぐわれかも知れず
わが指の隙をこぼれるとぎ汁のその行く末をいまは思うな
 歌の造りにも言葉遣いにも奇をてらうところがないので、すらすら読めてしまうのだが、こうして書き写してみると上手い歌だとあらためて思う。最初に読んだときより二度目の方が、二度目より三度目の方がよい歌だと感じる。文節と韻律の間の橋渡しの隙のなさがこの水準まで達成されているのは珍しい。
 集中でやはり心を打たれるのは師の上野の死に際しての連作である。
病院ゆ戻る夕べのくらきみち神の壊れた玩具かヒトは
死に髭を奪い取られて先生は白き布団にいま横たわる
柿よ柿なぜに実るか先生はもはやおまえを食えぬというに
 トレードマークであった髭を剃られ、好物の柿がもはや食べられなくなったという、普通の細かいことを詠いながら心に染みる。短歌の王道と言えよう。
 歌の完成度から言って、『クラウン伍長』が著者の第一歌集とはほとんど信じ難い。手練れの名人芸を見せられているようにすら感じる。瞠目すべき歌集であることはまちがいない。