187:2007年2月 第1週 上野久雄
または、世界からの剥離感は隠されたもののなかに

沈むとき上下にくらくゆれたりし
     飯の茶碗を思うときあり
         上野久雄『夕鮎』

 単純に解釈すれば折々にふと頭をよぎる回想の歌である。しかしその内容が水に沈んでゆく飯茶碗だというから尋常ではない。飯茶碗は沈むとき上下に揺れるが、それはふつうのことである。しかし挿入された「くらく」という措辞が歌の風景を一変させている。飯茶碗が水に沈む様子に暗いも明るいもない。その様を「くらく」と捉えるのは、ひとえに作者が心の中に暗い物を抱えているからである。飯茶碗が水に沈む様子といい、それを「くらく」と表現した作者の心情といい、相当なものを抱え込んだ人の歌だとわかる。なまくらな人間とは覚悟の質がちがう。不用意にそばに近寄ると、裂帛の気合いでばっさり斬られそうだ。小心者の私はこういう人のそばには近寄らないようにしている。

 上野久雄は1927年(昭和2年)生まれで、現在は山梨にあって歌誌『みぎわ』を主宰しているが、それまでの道のりは決して平坦ではなかったようだ。年譜によると父親の影響で12歳から自由律俳句を作るとある。専門学校在学中に結核を発病し、療養所で作歌指導をしていた近藤芳美を知り短歌を作り始めている。当時結核は青年の宿痾であり、上野は療養歌人として出発したわけだ。病院で短歌を作り始める人は多いようで、近藤芳美らが熱心に病院で作歌指導していたことは短歌史において忘れてはならないことだ。上野はその後「アララギ」を経て当然のように「未来」創刊に参加。83年より『みぎわ』を拠点として活動している。私は知らなかったが、山梨はもともと短歌不毛の地なのだそうだ。飯田蛇笏・龍太父子の影響力が強すぎたせいか。三枝昂之・浩樹兄弟も山梨の産だが、上野も含めて「志」という文字が似合う倫理的な香りが強く感じられるのは風土のせいだろうか。私が暮している京都という町には絶えてないことである。

 上野を解説する人は例外なく「長身のダンディー」という言葉から始めているのがおもしろい。しかし出色の文章は、現代短歌文庫『上野久雄集』の巻末に収録され、その後『短歌と自由』に収められた山田富士郎の「倫理的遊戯人の肖像」だろう。山田は次のように書いている。「未来」には一般社会ではお目にかかれないタイプの毛色の変った人がたくさんいる。例えば近藤芳美や岡井隆はその合理主義・個人主義がふつうの日本人のレベルとは異なっているという意味で際立った存在である。そして上野もまた毛色の変った一人だが、近藤や岡井にはない謎めいたところと茫洋としたところがある、と。山田はその後、上野を「生き延びてしまった短歌の太宰治」とする論を展開するのだが、その内容には触れない。題名の「倫理的遊戯人の肖像」に肝心な点が尽くされているからである。山田自身が根底に倫理的地層を深く持つ歌人であることは別に述べた。その山田と上野のあいだで共鳴する地点が「倫理的」というキーワードであることに何ら不思議はない。しかしどうやら上野は単に倫理的なだけの人ではなく、生活においてすべてを蕩尽する過激な人でもあるらしい。石田比呂志に「黒鹿毛一つ花の曇りあるギャンブラーへの献辞」という上野論があるらしいのだが、この題名に暗示されているように、上野は競馬に入れ込むギャンブラーでもあるのだ。上野・石田・山田という取り合わせは相当な硬派であることはまちがいない。

 短歌から浮かび上がる上野の肖像には、「孤」と「無頼」の文字がつきまとう。例えば次のような歌を見てみよう。

 この重み離さば焉(おわ)りゆくらんと一つ石塊を吊せり吾は

 ああ、ああと答えていしがどちらかが酔いつぶれたる冬物語

 パイパスに出て喰う店の三つほど思いめぐらしていたるさびしさ

 いずれ又俺を探すさというように芝生に埋もれいたる刈鎌

 許せとて妻に手をのべ息絶えし主人公よりいくらか悪し

 我はもち彼はもたざるものとして口髭さむく猿と真対(まむか)う

 みな吾を拒まん今朝は頭上なる時計の鳩が息絶えていつ 

一首目の石塊は作者をこの世に繋ぎ止めている何かの比喩だと思うが、「これを離したら俺は終わり」という切迫感がまるで絶壁の上に立っているかのようだ。三首目は昼飯をどこで食べようかと思案している場面だが、とてもそうは思えない悄然感が漂う。措辞的には「三つほど」という数の絶妙さと、「思いめぐらして」という表現が効果的。五首目のような露悪的な歌も多く見られるのだが、ほんとうには懲りていないような雰囲気がどこかに漂う。六首目のような猿の歌は世に数多いが、そのほとんどが孤猿に自己を投影したものである。ここでは自分を髭あるものとして、猿を髭のないものとして対置しつつ、それが鏡の関係になっているところが独自である。七首目にはどこか石川啄木の香りがし、「世に容れられぬ人」という肖像が浮かび上る。

 シクラメン選りいる妻をデパートに見て年の瀬の街にまぎるる

 銀行の混み合う午後に一途なる瞳(め)にあいしかどはやく忘れつ

 しずしずと駅前の木に雪降ると告げいたりしが電話は切らる

 戻り来し家にシナモンの香はのこり常におそらく妻子らは留守

 家のためにはならない父の朝食を今朝も待ちいし甲州タマゴ

 スリッパもタオルも家のものら決めて隔離患者のごと父は居る

 これらの歌に詠われているのは疎外感だろう。妻子に苦労ばかりかけて家のなかでは居場所がない父親という肖像が見えてくるが、それだけではない。一首目や二首目には世の人や家族から疎外されるのではなく、作者自身がふっと人混みを離れてどこかへ去ってしまうような頼りなさがある。そこに独特の浮遊感と軽みが感じられ、歌が過度に深刻なものになることから免れている。これを「世界からの剥離感」と呼んでみたい。この「世界からの剥離感」が時に浮遊と漂泊の色合いを歌に付与し、ときにかすかなユーモアとして働いている。これは上野が自由律俳句からスタートしたことと関係しているのかもしれない。この剥離感はときに次のようなおもしろい歌を生み出す。

 吾が部屋より子の部屋に這うコードあり或る朝音もなく動き出づ

 前方(まえ)を行く乗用車(くるま)の窓に手が出でて眼にはとまらぬ物捨て落す

 ものの音絶えたる夜半激しくも棚より落下したる一冊

 液状の糊こんもりと冬の夜の机に洩れていることのある

 何ということのない情景を詠んでいるが不思議な味わいのある歌である。現代短歌文庫『上野久雄集』に「身体のはかなさ/隠す歌」という文章を寄稿した吉川宏志は、「液状の糊」の歌を取り上げて、「結果だけが明確に描写されていて、その途中がまったく消去されている」という特徴を指摘し、上野の歌を「隠す歌」だと分析しているが、的確な指摘である。例えば二首目では、道路に物を捨てる手だけがクローズアップされていて、手の持ち主である人間は隠されている。しかし一首目の歌などを読むと、どうもそれ以上のことがあるのではないかという気もしてくる。ここには世界が自分とは関わりのない所で動いており、自分はその結果だけを見せられているという感覚があるのではないか。「液状の糊」の歌についても同じことが言えるように思う。もしそうだとするならば、この感覚は上に指摘した「世界からの剥離感」とどこかで繋がっていると考えられる。

 我が儘なテリヤを連れてくるときの老美容師を吾は好めり

 畑堀りて湯の出ずる待つ一人に折々会いに来る女あり

 口さむく歯科医出てきて公園にパン喰う父子の傍を過ぐ

 ステーキにナイフを当ていて想う犬がくわえていたハイヒール

 ここにあげた歌を読むとやはり何か大事なことが隠されている気がする。一首目の我が儘なテリヤを飼っている老美容師という描写はキャラクターが立ち過ぎて、その分背後に物語を想定させる。老美容師をなぜ作者が好むのかも説明されていない。二首目は畑で温泉を掘っているのか、そこに会いに来る女とはいかにもいわくありげである。三首目も何でもない光景でありながら、何かが隠されている気がするのは「口さむく」のせいか。四首目のハイヒールをくわえた犬からも物語を紡ぎ出せそうな気がするが、作者は何も語らない。このようなあえて語らない歌の作りが一首の意味作用に微妙な余韻を付け加えているのである。それが上野の歌にどこか意味の器に収まりきらない不思議な味わいを生み出している。