第129回 天道なお『NR』

姉であることを忘れるウエハースひとひら唇に運んでもらう間
                      天道なお『NR』
 10月になると町中が香りに満ちる。金木犀の香りである。昔、熊本大学に集中講義に行ったとき、ちょうど10月初めの時期で、熊本の町には金木犀と同じくらい銀木犀があり、強い香りを放っていた。折しも今日 (10月6日) の朝日新聞の天声人語に次の歌を見つけた。
木犀のかをりほのかにただよふと見まはせど秋の光のみなる  窪田空穂
 いい歌だ。ポイントは「秋の光」である。現在の天声人語の筆者は短詩型文学に造詣が深いらしく、よく短歌や俳句を引用している。金木犀というと、2011年角川短歌賞次席の小原奈実の次の歌も思い出す。
いずこかの金木犀のひろがりの果てとしてわれあり 風そよぐ
 さて、掲出歌は書肆侃侃房の新鋭短歌シリーズとして出版された天道なお『NR』から取った。母親にウエハースを食べさせてもらっている幼児期の記憶が主題である。ウエハースの美味しさは姉であることを忘れるほど、つまり妹・弟の存在を忘れるほどだというのだが、この歌の魅力はウエハースと唇だけが焦点化されているところから生じる。俳句や短歌のような短詩型文学は言うまでもなく短いのが特徴だから、テーマや情景のどこを切り取るかというトリミングの芸術である。情景全体にピントが合っていると歌としての切れがない。穂村弘のお好みの言葉を用いるならば「短歌のくびれ」である。
 ウエハースの歌というとどうしても次の歌を思い出してしまう。
子の口腔くちにウエハス溶かれあは雪は父の黒き帽子うすらよごしぬ
                      小池光『バルサの翼』
「ウエハス溶かれ」という破格の文法と、「父の黒き帽子」の9音が強い印象を残す。口の中で溶けるウエハースと帽子の上で溶けるあわ雪の照応、子の無垢と父である自分の汚れの対比が見事としか言いようがない。
 さて、天道なおの歌集に話を戻す。天道は早稲田短歌会在籍中の2000年に『短歌研究』800号記念臨時増刊号『うたう』で作品賞候補となって注目された。この臨時増刊号は現代短歌のメルクマールとなった雑誌で、ここから盛田志保子、雪舟えま、佐藤真由美、石川美南、柳澤美晴、今橋愛(赤本舞名義)らが世に出た。私は今でもこの号を大切に保存している。
 天道なおはタイ旅行に想を得た「天使の都クルンテープへ」という連作を寄せた。「天使の都」はバンコクの雅名である。
落葉を重ねるようにシャツ脱げば雨の残香部屋中に満ちる
凍りたるマンゴスチンを溶かすため窓辺に置けば月光のこう
海月らが波のまにまに愛し合う 氷菓窓辺でくずれる夕べ
 作品賞を受賞した盛田志保子よりも、私は天道の連作に強い魅力を覚えた。旅行詠はややもすれば見聞の新しさに引き摺られ、珍しいアイテムを並べるだけの歌になりがちだが、天道の連作はその弊を逃れており、熱帯地方の空気感や熱を帯びた体感をよく表現している。
 それから13年の年月を経て、第一歌集『NR』が上梓された。歌集題名のNRは職場の予定表に書くノーリターン、つまり出先から会社に戻らずそのまま帰宅するという意味の略号だという。昔は直帰と書いたものだ。大学を卒業して就職し、結婚・出産を経てワーキング・マザーとなり、夫の転勤に伴い新しい町に住み、やがて退職するまでがほぼ時系列で綴られている。
恋文を読み上げるぎこちなさにて製品企画書読み合わせており
白シャツの衿尖らせて帰宅せり真水に浸しただ眠るべし
この土地に夫以外の知己はなく無地のカーテン揺れる休日
ひっそりとヒトのかたちにしずもりて熟れゆく果実わが宮にあり
ながながと午後の会議にブラウスの奥処で乳房ひとひと張りぬ
記すべきものを記していちまいの退職届用紙のかるさ
 一首目は会社勤めの職場詠だが、上句「恋文を読み上げるぎこちなさにて」に女性らしさが滲む。二首目では会社勤めの疲労感を「白シャツの衿」が形象化している。三首目、上に書いた短歌のトリミングに即して言えば、ここでトリミングされているには「無地のカーテン」で、まだ住み慣れない新居の味気なさを表しているのだろう。四首目は、「十月、十日」という妊娠期間を題とした連作にあり、ひと月に一首または二首を配して出産までの経過を詠んでいる。連作の最後は「みどりごは新世界より来たる人ましろき切符手に握りしめ」で終わる。五首目は子育てしながら働く母親の情景で、六首目は巻末の「離職の日」からの一首である。
 「天使の都」を読んだ目で眺めると、ご本人には申し訳ないが、物足りないと言わざるをえない。その印象はどこに由来するかと言うと、おそらく作者には「自分の気持ちをわかってほしい」という想いがあるのだろう。今、短歌を作る若い人たちの多くは同じ気持ちから作歌しているのではないかと思う。その想いは否定しないが、問題はそれをどのように歌へと形象化するかである。
 歌の二大分類である正述心緒と寄物陳思を持ち出すまでもなく、短歌では物に寄せて詠う。寄せた物が穂村の言う「短歌のくびれ」である。寄せた物が主題と離れていればいるほど歌は衝撃力を持つ。この点から見れば新生児と「ましろき切符」は付きすぎていると言わざるを得まい。
平穏無事に五月過ぎつつ警官のフォークを遁げまはる貝柱  塚本邦雄
 「警官」「フォーク」「貝柱」には本来何の連想関係もない。それらがひとつの歌に詠み込まれることによって、それまで存在しなかった意味が浮上する。これが文芸としての短歌の醍醐味である。そのとき歌人は既存の想いを歌で表現するのではなく、発見した新たな意味関係という磁場のなかで、新たな自分へと変貌する。短歌は自己表現ではなく、自己発見の旅なのである。