第133回 藤島秀憲『すずめ』

置時計よりも静かに父がいる春のみぞれのふるゆうまぐれ
                  藤島秀憲『すずめ』
 『すずめ』は第一歌集『二丁目通信』で現代歌人協会賞を受賞した藤島秀憲の第二歌集である。『二丁目通信』という町内会紙のような題名も散文的だが、こんどは「すずめ」だ。ありふれて色も地味な鳥である。岩手医科大学の三上修くらいしか研究者がおらず、寿命もよくわかっていないという。表紙には「す」と「ず」の横棒に一羽ずつすずめが止まっている。すずめに代表される日常卑近な小さきものに向ける藤島の愛情がぎっしり詰まった歌集である。
もうみんな大人の顔つき体つき冬のすずめに子供はおらず
 歌集巻頭の歌である。よくすずめを観察していることがわかる。すずめは晩春から夏にかけて何度か産卵する。わが家のベランダにもよくすずめが来るが、巣立った子供を連れた親鳥が来ると、もうそんな季節かと感じる。巣立ったばかりのヒナは羽毛がボサボサですぐわかる。自分で餌をついばむことができないので、羽根をバタバタさせて親鳥に餌をねだる。やがて羽毛も生え替わり、冬になるともう一人前である。確かに冬のすずめに子供はいない。
 『二丁目通信』の出版時には父親の介護をしていた作者の身に大きな変化が訪れる。19年にわたった父親の介護が父の死をもって終了し、作者は住み慣れた家を離れて新しい町に住む。そこは団地が多くすずめがいない町だという。あとがきで作者はもう今までのような歌は作れないと書いている。今までの自分に別れを告げる歌集となっている。
 目線低く小さなものに目を向け、また自分を実際よりも少し小さく描く歌の詠み方は第一歌集と変わらないが、通読して第一歌集よりも切実なものを感じた。それはこの歌集が失われて行くものを丹念に描いているからだろう。それは「濃密な空間」である。
 私は散歩が唯一と言ってよい運動なので、家の近所をよく歩き回る。好んで歩くのは大きな道路ではなく、民家が建ち並ぶ狭い道で、なかでも路地・袋小路・切り通し・階段を好む。街路樹の根方に花が植えられていたり、民家の玄関先にプランターが置かれて葱が栽培されていたりする場所を見ると、そこが濃密な空間だとわかる。生活臭が漂い、人が長く暮らして来た跡があちこちにある。灯点し頃には外で遊んでいる子供を呼ぶ母親の声が聞こえ、あたりに味噌汁の匂いが漂う。
水仙の薫る小路を抜けてゆく朝の焼きたてコッペパンまで
かすみ草の種はいずこに蒔かんかなここ百日草ここ金魚草
焦げているとなりの煮物春の夜の窓と窓とが細目にひらく
青梅雨のひかる路地裏すれ違うたびに左の肩先は濡れ
あついあついと隣の家族帰り来て、となりはこれがいいという声
父の匂い、わが家の匂い、わが匂い、分かちがたくて蝉しぐれ聞く
 作者が40年暮らしたという家もやはり濃密な空間に囲まれている場所である。植物の好きな作者はとりわけ庭に愛情を注いでいたようで、上に引いた二首目のように花の種を蒔いていた。そこは三首目が示すように、隣家の煮物の匂いがわかるくらい家と家とが寄り添うように建てられている町内である。まさに濃密な空間なのである。
 濃密という意味は単に狭い空間に暮らしているということではなく、空間の隅々までが意味化されているということである。まだ人が住んでいない新築のマンションを思い浮かべてみよう。建築家の設計によって、玄関・台所・トイレ・浴室などはあらかじめ用途が決められた空間なので、最低限の意味化を受けてはいる。しかしそれ以外の空間は、住む人が「ここは居間」「ここは夫婦の寝室」「ここは子供部屋」と決め、新聞やTVのリモコンや財布などの置き場所が決められることで、細かく意味化されてゆく。空間に住み手にとっての意味が生じ、他の場所と差別化されるのである。高齢者が長く住んだ住宅は怖ろしいほどに意味化されている。これに対して郊外の団地は、室内もそうだが建物周囲の空間も意味化が希薄である。そんな場所にあまり住みたいとは思わない。上に引いた藤島の歌が描いているのはまぎれもなく濃密な空間なのである。
 作者はそこで認知症の父親の介護をして最後を看取る。
鳥籠に小鳥のいない十二年 父の記憶を母は去りたり
今朝からは冬場のコース「ふじさん」と父が何度も立ち止まる道
家じゅうに鍵かけ父を閉じ込めてわれは出掛ける防犯パトロール
たばこ屋のおばさんがもう泣いている路地より父が運び出される
太田光に似ている医師の腕時計正確ならん父は死したり
二年後に父のお骨を取りに来んわたしは二歳老いた私は
 自宅で心停止して救急車で病院に運ばれた父親は病院で死亡が確認される。遺体の献体を申し出たらしく、最後の歌はそのことを述べているのだが、献体が二年後に遺骨となって返還されるとは知らなかった。父親の死とその後を描く歌は冷静ながらも慟哭に満ちていて心を打つ。
 藤島が描く濃密な空間は自宅とその周辺に留まらない。
西洋人ふたりだけいる仲見世の猿がしゃかしゃかシンバルを打つ
権太郎坂ののぼりの日面で赤いバイクに三度抜かれつ
道のほとりのほたるぶくろをのぞきこみ谷中に合った時間を歩く
ゆうがおの咲きても暮れぬ墨東に賀茂茄子田楽あつあつが来る
名の由来聞けばなるほど炭団坂五十二段を並ばずおりる
 仲見世、権太郎坂、谷中、墨東、炭団坂など、これらの歌に詠まれた地名は単なる地名に留まらず、歴史や関わりのある人名を連想させる意味の塊でもある。若手歌人の現代短歌には地名や固有名が少なく、それがしばしば具体性のあるイメージ喚起力の欠如となっているように感じることが多い。藤島の短歌はその逆で、地名や固有名を詠み込むことで具体性を出していると言えるだろう。
 『すずめ』は濃密な空間とそれに結び付いた意味性への挽歌のように立ち現れるのである。