第142回 照屋真理子『恋』

箸茶碗こともなく持ち両の手の互に知らぬ左右の世界よ
                 照屋眞理子『恋』
 黄金週間の間に不覚にも左腕を負傷して、短歌コラムを一週落としてしまった。腕を負傷したからといって、平出隆の『左手日記例言』のような名作が書けるわけでなく、ただただ不自由なだけである。おまけに負傷の原因が書斎の椅子からの転落とあっては、言うべき言葉がない。
 さて、照屋眞理子の『恋』は、『夢の岸』(1991)、『抽象の薔薇』(2004)に続く第三歌集である。前歌集以後、著者の人生には、御母堂ならびに句誌「季刊芙蓉」の主催者だった須川洋子の死という大きな出来事があった。須川の意志により、著者は「季刊芙蓉」の代表となり今日に至っている。人は誰しも長く生きていると、こちら側にいる家族・友人・知人よりも、あちら側にいる人数のほうが増えてゆく。いたしかたのないことである。そのことが本歌集に収録された歌に深い陰翳を与えている。
 第二歌集『抽象の薔薇』を取りあげた際に、照屋の短歌の特徴として、「存在にたいする理知的懐疑」と「短歌に詠われた世界の構造の複雑さ」を挙げた。この特質は本歌集でもいささかも変わらない。例えば掲出歌は、私たちが日常の食卓で、何も考えることなく右手に箸を持ち左手に茶碗を持つという事実に着目し、左右の手が独立に動き別の世界に属しているかのような不思議を詠んだもので、まずその着眼点に驚き、確かにそうだと得心する。しかし前歌集に較べてこのような形而上学的な歌が少ないのは、作者が歩んで来た人生に訪れた変化の故であろう。
 前回も触れたことだが、照屋の歌を論じるにあたって、「夢」という言葉を避けるのは難しい。「一期は夢」との認識が歌集全体にわたって通奏低音のように低く響いている。
美しい夢であつたよ中空ゆ振り返るときこの世といふは
つと視野を過ぎし螢のかの夜よりこの世を夢と思ひ初めにき
永き永き約束の果てかりそめに我と呼ばるる生命いのちなつかし
 この感覚は照屋の句集『やよ子猫』ではもっとストレートに表現されている。
神様に寸借の身を泳がする
ああわたしたぶん誰かの春の夢
 「この世は夢」と思い定めるということは、ひるがえって「あの世」が現実味を帯びてくるということである。この世が実であることが減れば、ある世が虚であることも減る道理だ。すると何が起きるか。この世とあの世を隔てる壁が限りなく薄くなり、それと連動して、虚と実、「我」と「我にあらざるもの」の境界線もますます曖昧になる。
万物ものみなのいのち夢見る春は来て死は朧生なほなほおぼろ
わたくしはもとよりあらぬものにしてある日は君でありさへもする
私のやうな君が来て言ふ君のやうな私に逢へる夢のはかなさ
 照屋の中には自分が人の形をしてこの世に生を受けたのは偶然にすぎないという感覚が強くあるようだ。次のような存在をめぐる形而上学的歌を読むと、あらぬ空想はリルケの詩歌やモランディの静謐な絵画へとふと誘われるのである。
秋冷の玻璃のかたはら行くときも人間われに人間の影
鳥けものはた人間のかたちしていのちはあそぶ春光のうち
心ここに在らざる夕べわが猫はずしりと膝に来て「在り」と言ふ
 「我」と「我にあらざるもの」の境界線が曖昧になると、一見すると短歌を支える〈私〉の溶解を招くと思えるかもしれない。ところが逆説的なことに、照屋の歌の背後には強く一貫した〈私〉が存在する。それは「生と死は等価である」と観じ、「我と我にあらざるものは逆の関係になっていたかもしれない」と思い定める〈形而上的私〉が照屋のなかにしっかりとあるからである。
 以下、目に留まった歌を取りあげてみよう。
現し世をわが眠るときあらぬ世にたれか目覚めて汲む朝の水
 現世を生きる〈私〉の影のようなもう一人の〈私〉が別の世にいる、いや別の世の〈私〉の方がほんとうの〈私〉で、今の〈私〉はその影にすぎないのかもしれないという無限遡及の問が美しい歌となっている。
つひに言葉となるたる人が雨の日のポストに来たり遺句集『信次』
 一読してこの表現に驚いた。俳句や短歌を残してこの世を去った人は「つひに言葉となりたる人」なのである。ボオドレエルも中原中也もこの世にはいないが、言葉となって残っている。
太虚おほぞらをしづかに紺は深みつつ物に立ち来る夕暮の貌
 これまた美しい歌である。美しすぎるかもしれない。夕の訪れはまず物に表れるという発見の歌でありながら、それを発見と感じさせないほどに措辞に溶け込んでいる。「太虚を」の助詞「を」が動かしがたいほどに決まっている。
たましひを戴くごとく桃に刃をあてをり外はかがやく真昼
 桃はよく短歌に詠われる果実であり、その形状の故か「たましひ」になぞらえられることもよくある。島田幸典に「たましいを預けるように梨を置く冷蔵庫あさく闇をふふみて」(『no news』)という歌がある。照屋の歌ではほの暗い室内と屋外の真昼の明るさが、危ういまでのコントラストを作っている。
追憶の彼方の恋や夕暮れの空へ振るため人は手を持つ
 これまで歌集タイトルに触れなかったが、『恋』とは大胆な命名である。歌集なかほどに「恋」と題された章があり、上の一首のみが配されている。作者は数年間病気の母親と暮らし、その日々は「見飽かぬ夢の繭籠もりの幸せ」であったという。この歌の恋は別れた人への追慕の気持ちであろう。
まぼろしの夏至りなばおもかげに人こそ恋ひめ夢の渚を
 最後に上の歌を取りあげたい。この歌では意味が洗い流されて、言葉だけが暮れなずむ夕空にかかる薄雲のように、いつまでも中空をただよっている。ほとんど意味を失った言葉を支え、中空に浮かせているのは短歌定型である。いつぞや照屋は、「自己表現のために短歌を作りたいと思ったことは一度もない」、「定型という楽器を最大限に歌わせるために歌を作る」と語っていたことがある。「まぼろしの」一首はまさに照屋の言葉どおりの歌であり、本歌集の白眉としたい。