第153回 齋藤芳生『湖水の南』

大鳥よその美しき帆翔を見上げずに人は汚泥を運ぶ
               齋藤芳生『湖水の南』
 平成19年に角川短歌賞を受賞し、第一歌集『桃花水を待つ』で日本歌人クラブ新人賞を受賞した齋藤芳生さいとう よしきの第二歌集が出た。
 この歌集ほど日付が重い意味を持つ歌集はなかろう。齋藤の故郷は福島県であり、この歌集は東日本大震災を挟んで、その前と後に作られた歌を収録しているからである。東日本大震災の津波による被害と、福島第一原子力発電所の事故による放射線被害によって、福島の人々の生活は根底から覆された。私たち遠方に住む者はこの事件の推移をTV報道によって知るしかなかったが、大学で数年間原子核工学科に籍を置いていた私は、一般の人よりも少しだけ原子力発電所について知識がある。東京電力と原子力安全・保安院のスポークスマンが、一貫して事故 (accident)ではなく事象 (incident)という用語を使って出来事を矮小化しようとしたことに、私は今でも憤りを禁じ得ない。冷却水の供給が絶たれた時点で、炉心溶融が始まっていたことはわかっていたはずだ。
 大事件は人を変える。第一歌集『桃花水を待つ』と今回の『湖水の南』を読み比べると、そのトーンの違い、なかんずく歌の深度の違いに驚かされる。齋藤は3年間中東のアブダビに日本語教師として赴任し、第一歌集はその折りの体験が核になっている。気候風土も言語も宗教も異なる土地に暮らした体験が歌の素材だが、作者は現地ではあくまでよそ者であり、物事を見る視点が内部にまで食い込むことはなく、外からの視点に留まる。海外詠の大きな問題はそこにある。『湖水の南』に収録された震災前の歌にも、依然としてそのようなことが濃厚に感じられる。
砂と風に耐えるテントに一塊の肉切り分けて家族はありき
黒衣には香を焚くべしおとこには沈黙すべし アラブの女
髭の濃きアラブの男たちの着る白き衣に日は照り返す
描かれし風のようなるアラビアの文字を見る金色の砂の上
夢に手を伸べるさみどりふるさとの音たてぬ雨よき香りして
ふるさとのやわらかき水に手を洗い香り豊けき桃を剥くべし
チョコレートの銀紙をもて鶴を折る指先より日本人に戻る
 最初の4首は2010年5月、残りの3首は5月2010年夏とあり、いずれも震災前に作られた歌である。風と砂の土地から日本に戻ったときの身体的落差は大きく、作者は故郷の豊かな緑と水に癒されている。「やわらかき水」は比喩ではなく、海外生活を経験した人はわかると思うが、日本の水はほんとうに手に柔らかい。しかしこのような美しく懐かしい故郷はあの日を境に一変するのである。
引っ越しするわけにはゆかぬ人あまた「汚染地域」の土けずるなり
紙飛行機のような軽さに燕落つふるさとの窓すべて閉ざされ
茫然と我は見るのみ墓石はすべて倒れて空を映せり
除染のためにつるつるになりし幹をもて桃は花咲く枝を伸ばせり
慟哭は慟哭としてふるさとの雨に解かるる草木の種子
木々の根が掴みて離さざる土の確かさに春の虫眠りおり
かなしみのように糖度は増してゆく桃の畠に陽の傾ぐとき
 このようなことを書くのは酷なことで気が引けるのだが、震災前の歌に見られる、故郷においてもうっすらと漂うよそ者感が一掃され、それまでの外の視点は内からの視点に変換されて、齋藤は紛れもない当事者と化している。それと同時に歌の深度が増している。心も体も出来事の内部に入り込んだからである。そのような歌の変化を目の当たりにするのは驚きであり、また同時に哀しみでもある。上に引いた歌からは、汚染地域とされてしまった故郷に暮らす人たちの労苦と悲嘆が伝わってくるが、特に二首目の「紙飛行機のような軽さに燕落つ」に、一瞬にして故郷の姿が変わってしまった衝撃が表現されており、また六首目の「木々の根が掴みて離さざる土」には、海外詠には欠けていた出来事の内側へと食い込み止まない視線があり、すごみを感じる。
 もうひとつ大きな変化がある。第一歌集『桃花水を待つ』には、いまだ人生の目標が見えない作者の自分探しという雰囲気が濃厚に漂っていた。
店頭に並ぶブーツは職業を捨てたの我の背中に尖る 『桃花水を待つ』
海ではなく大都市に流れ着くこのどうしようもなき両手を洗う
埃まみれで撤去されない自転車のように商店街に我のみ
アブダビより持ち帰り来し砂の壜ことりと光らせて家を出る
 この点においても大事件は作者を変えたのである。歌集表紙裏には「祖父たちへ。祖母たちへ。」という献辞があり、湖水の南に暮らした祖父母を詠んだ歌が歌集の中で大きな比重を占めている。
ガラスケースの中に軍用手票あり祖父おおちちの指の跡見えねども
祖父おおちちの記憶は両の腕にあり月の照る猪苗代湖を泳ぐ
ハイカラな祖母なりきああ、数百のハイヒール履かぬまま土蔵くらに積み
祖父おおちちを思えば瞼震うなり猪苗代湖に雷様らいさまが来る
祖父のつくりし幼稚園今日閉じられてペンキの剥げし遊具を運ぶ
大地震に屋根崩されし土蔵より祖父の帽子も転がり出たり
祖父おおちちに会いたし夏の農道に逃げ水浮かび近づけば消ゆ
 『桃花水を待つ』の評の中で私はかつて次のように書いた。
「自己に不全感を抱いている人は何らかの方法で自己拡大を図る。それには大きく分けて二つの方法がある。地理と歴史である。空間軸と時間軸と言ってもよい。斎藤が選択したのは空間軸の方である。」
 アブダビへ赴任したのが空間軸における自分探しであったとしたら、大震災という事件は齋藤をしてもうひとつの方法である時間軸を選ばせたのである。そのことは「祖父たちへ。祖母たちへ。」という献辞が雄弁に物語っている。この歌集は湖水の南に暮らした眷属としての自覚を宣言したものなのだ。この作者の覚悟が本歌集に収録された歌の数々に、作り物では決して出すことのできない重さと力強さを与えている。それがこの歌集の意味である。
 東京の小さな出版社で働いていた時の動物図鑑をめぐる歌や、民族学者イザベラ・バードに想を得た歌などもおもしろく、歌集に多様性を与えているが、それも上に書いた意味には及ぶまい。最後に祈りのような一首を。
欅の芽空にほどきて大いなる神の指我のまなぶたに来る