第163回 五島諭『緑の祠』

大いなる今をゆっくり両肺に引き戻しつつのぼる坂道
                 五島諭『緑の祠』
 坂道を登っている。両方の肺に引き戻すことができるのは空気に限られるので、「大いなる今」と喩的に指示されているのは空気にちがいない。坂道の傾斜が急なので、息が切れているのである。しかしなぜ空気が「大いなる今」なのか。ここでは指示が微妙にずらされている。それが歌人の修辞である。空気自体が「大いなる今」なのではなく、ぜいぜいと息を切らせて坂を登っている〈私〉の交換不能な現在性が「大いなる今」なのだ。この感覚には見覚えがある。「実存」である。そう考えると五島の歌のほとんどが現在形で書かれており(正確には動詞の終止形。日本語動詞に現在形はない)、また不動の定点があるように感じられることにも納得がゆく。掲出歌は句跨がりもなく、定型にぴしっと収まっている点においても、秀歌性の高い歌だと言えるだろう。
 五島諭ごとう さとしは1981年生まれで、早稲田短歌会の出身。現在は同人誌「pool」に参加して、超結社のガルマン歌会のメンバーでもある。『緑の祠』は2013年に刊行された第一歌集である。前回のコラムで取り上げた中畑智江の『同じ白さで雪は降りくる』と同じく、書肆侃侃房の新鋭歌人シリーズの一冊で、跋文はシリーズ編者の東直子。
 五島と永井祐は同年の生まれで、堂園昌彦は2歳下なのでほぼ同年代である。三人とも早稲田短歌会に所属していて、現代短歌シーンにおいてほぼ同じストリームの中にいると言える。ニューウェーヴ短歌を主導した加藤治郎・荻原裕幸・穂村弘の三人のうち、荻原と穂村は1962年生まれだから、ニューウェーヴ短歌と五島たちの間には20歳の年齢の開きがあることになる。20歳と言えばもう少しで親子の開きである。世代論的に見ても、五島・永井・堂園はポスト・ニューウェーヴ短歌と見なしてさしつかえない。その特徴をおおざっぱに言えば、口語短歌・低体温・フラット性とまとめることができるだろう。キャッチコピーを作るのがうまい穂村は、「ゼロ金利世代の短歌」と呼んでいる。
 本歌集を短歌ブログ「トナカイ語研究日誌」で取り上げた山田航は、五島の歌を評して、「限界を突き破れない不全感」と「時に世界を破壊する反転攻勢」というキーワードを使っている。「不全感」はバブル経済崩壊以後の短歌シーンに広く漂っている特徴なので、五島独自のものとは言えないし、「反転攻勢」に見られる攻撃性については、いまひとつピンと来ない。ポスト・ニューウェーヴ短歌にはどこか批評しにくいところがあるようだ。
 このことは『短歌研究』の2014年5月号の作品季評にも見て取れる。穂村と花山多佳子と小島なおが『緑の祠』を俎上に上げて批評しているが、三人とも五島の短歌を捉えあぐねている。小島は「これまでの短歌の良し悪しの基準では、うまく捉えられない、評価の難しい、新しい印象の作品」と述べ、穂村も「もっとつかめるつもりで読み始めて意外に捉えられなくてちょっと焦った」と言い、それを受けて花山も「けっこうわかるなと思ったり、結局のところわからないと思ったり」と読みに迷いがあったことを告白している。なぜ五島の短歌は捉えにくいと感じられるのだろうか。小島は穂村の問いかけに答えて、具体的な生活の場面のような、読者との通路になるものが五島の歌には希薄で、「ひとり別の世界に住んでいるような」気がすると述べている。
 小島が言っていることをさらに進めると、今までさんざん議論されてきた「短歌における〈私〉」と「リアル」の変容をめぐる議論につながるのだが、ここではその方向は控えて別の観点から五島の歌を見てみたい。それはポエジーの力点という観点である。
 短詩型文学としての近代短歌は抒情詩であり、その基本構造は永田和宏の言う「問いと答えの合わせ鏡」にある。
冷蔵庫にほのかに明かき鶏卵の、だまされて来し一生のごとし
                  岡井隆『神の仕事場』
 上句の「冷蔵庫にほのかに明かき鶏卵(の)」までが問いである。もう少し正確に言うと、それは〈私〉の外部に対象化された物や事象で、物や事象自体は問いを発することはない。〈私〉がそれに注ぐまなざしが問いを浮上させるのである。だからほんとうを言えば問いは〈私〉の内部にある。そして下句の「だまされて来し一生のごとし」が答えである。答えは〈私〉の感情・感慨であり、問いである物や事象が鏡のように〈私〉の感情を照射するところに抒情詩が成立する。読者はこの過程をみずから辿ることによって、作者の感情を追体験し、それに共感したりカタルシスを感じたりするのである。岡井の経歴を知る人ならば、下句を読んで日本共産党の六全協を思い浮かべたりするかもしれない。近代短歌におけるポエジーの力点は、問いとしての物や事象が〈私〉の感情を前景化するその関係にあり、それは同時に歌におけるリアルの源泉としても働くのである。
 このような近代短歌の読みに慣れた人にとって五島の歌が捉えがたく感じられるのは、ポエジーの力点が異なるからに他ならない。穂村の表現を借りると、同じOSのヴァージョンちがいではなく、そもそもOS自体が異なるということである。
美しくサイレンは鳴り人類の祖先を断ち切るような夕立
触れることのできるあたりに喋らない鸚鵡と水泳少年がいる
くもりびのすべてがここにあつまってくる 鍋つかみ両手に嵌めて待つ
息で指あたためながらやがてくるポリバケツの一際青い夕暮れに憧れる
はじめから美しいのだこの手からこぼれていったポップコーンも
 歌集冒頭の「サウンドトラック」という連作から引いた。いずれもなかなか美しい歌だと思う。一首目は近代短歌のOSでもいちおうは読める。それは「人類の祖先を断ち切るような」という喩があるためである。喩は問いと答えの合わせ鏡構造における答えの受け皿として働く。激しい夕立を見て、人類の祖先を断ち切るようだと〈私〉が感じたと読むことができ、そこから作者が抱いていると想像される孤独感や断絶感を感じ取ることができるからである。ところが残りの歌についてはそのような読みは成立しない。二首目は一首一文の形式で鸚鵡と少年の存在を述べるに留まり、仮にその全体が問いだとしても、その問いが照射すべきもうひとつの鏡がない。読者は鸚鵡と少年をはいと差し出されて、それをどうすればよいのかわからない。短気な関西人なら「どうせえちゅーんじゃ」と怒り出すところである。他の歌にもほぼ同じことが言える。
 ポエジーの力点がちがうのである。五島の短歌のポエジーの力点は、問いが答えを照らし出すという関係性にあるのではない。「五島さんの歌には、感情の浮き沈みや喜怒哀楽がほとんど出ていない」という小島なおの感想は鋭く本質を突いている。五島の短歌には、問いの鏡が照らすべき答えの鏡が不在なのだ。対象化された物や事象が〈私〉の心に問いを生み出し、その問いによって〈私〉の感情が照射されるという構造が欠けている。岡井隆が言った意味での、短歌の背後にいるたった一人の〈私〉という構図が成立しないのである。
 では五島の歌においてポエジーの力点はどこにあるのか。それは端的に言って言葉の組み合わせが生み出す美である。ここでもう一度上に引いた歌を見てみよう。一首目のポイントは美しく鳴るサイレンと激しい夕立の取り合わせである。何か危機的な状況が連想されるが、それは語られていない。二首目は喋らない鸚鵡と少年の組み合わせがポイントで、この歌は映像的にもとても美しい。鳥籠に入れられた極彩色の鸚鵡と、プールで一人黙々と泳ぐ白帽の少年の取り合わせは、まるでシュルレアリスムの絵画のようである。三首目は、雷の実験をしたフランクリンか、ニコラ・ステラを連想させる。曇天の日に丘の上に登って、両手に鍋つかみを嵌めて、まるで超自然の力を呼び寄せようとしているかのような場面が目に浮かぶ。四首目は修辞的にも凝っている。「やがてくるポリバケツの一際青い夕暮れ」の「やがてくる」は「ポリバケツ」に係るかと思えば、そうではなく「夕暮れ」に係るし、「ポリバケツの一際青い夕暮れ」は「ポリバケツの(ような)一際青い夕暮れ」の大胆な省略だろう。この修辞の工夫によって歌の言葉は日常語の地平を離れる。五首目は「あらかじめ失われている不全感」というキーワードを用いて近代短歌のOSでも読めそうな作品だが、ここでもやはり眼目は「手からこぼれたポップコーンが初めから美しい」という表現自体にあると思われる。
 堂園昌彦の『やがて秋茄子へと到る』を読んだときに、堂園の短歌と絵画の親近性を感じたが、五島の短歌も同じ匂いがする。別な比喩を使うと、からっぽの室内のどこにテーブルを置くか、そのテーブルは何色にするか、ソファーはどこに配置するか、白い壁にはどんな絵を掛けるかというインテリア計画を入念に考え抜いて、美しい室内を作る、そして出来上がった室内に座って静かな時間を過ごす。そんな感じと言えばよいだろうか。五島の短歌はこのようにして選び抜かれた詩語によって組み立てられた小世界である。
 五島はたぶんジョゼフ・コーネルが好きだろう。コーネルは繊維商のかたわら美術作品を作り続けた日曜美術家で、アメリカのシュルレアリスムの元祖とも言われている人である。コーネルの作品は、木製の小さな箱の中に、雑誌から切り抜いた写真やどこかで拾って来た人形などを配したコラージュで、手作り感の溢れる作品ながら、その前に立つといつまでも眺めていたい気になる不思議なものである。2010年に千葉県の佐倉市にある川村記念美術館で展覧会が開かれた。高橋睦郎が讃を寄せ、フランス装の凝ったカタログが作られた展覧会で、企画したキュレーターの意気込みが感じられた。
 失われたもの、美しいものの探求。魂の都市、ニューヨークと同じ空間を占める見えない都市を往くコーネル=オルフェウス。
 ネルヴァルは言った。「人類は永遠の美をじわじわと千もの断片に破壊し切り刻んでしまった」。コーネルはそれらの断片を都市のなかで見つけ、組み立て直した。
          (チャールズ・シミック『コーネルの箱』)
 コーネルの箱の中に〈私〉はない。ゴッホの厚塗り絵の具のうねるようなタッチを見ると、そこにまぎれもない画家の個性が感じられるが、コーネルはあちらこちらで見つけた郷愁を感じさせる品物を組み合わせて配置して独自の小宇宙を作った。
 五島にとってのポエジーの力点が〈私〉の前景化による抒情にはなく、詩語の選択と配置による作品世界の構成にあると思って読めば、本歌集にはたくさん美しい歌があることがわかる。
どこか遠くで洗濯機が回っていて雲雀を見たことがない悲しさ
寄せてくる春の気配に文鳥の真っ白い風切羽間引く
デニーズでよい小説を読んだあと一人薄暮の橋渡りきる
死のときを毎秒察知するようにホースの中を水が走るよ
頬から順に透きとおりつつ八月の水平線を君が歩くよ
目玉焼きを食べられないでいる間にも印刷されてゆく世界地図
やがては溶けるかき氷にも向けているひと差し指の先の銃口
雨の日にジンジャーエールを飲んでいるきみは雨そのもののようだね
 確かにゼロ金利世代のムードがうっすらと作品全体に漂っているのは事実であり、発火しにくい低体温と、試みる前から諦めているような諦念が滲んでいるのも事実である。遠くに押し殺した悲鳴が聞こえるような気もする。その点に着目すれば、山田の言うように、今まさにそのような青春を送っている若者が五島の短歌を支持しているのはもっともである。そのような読み方を否定するものではないが、ポスト・ニューウェーヴ世代に属する五島の歌が目指しているのは、詩語の組み合わせによる新しい美の創出にあるように思えてならないのである。