キャベツ色のスカートの人立ち止まり風の匂いの飲み物選ぶ
竹内亮『タルト・タタンと炭酸水』
竹内亮『タルト・タタンと炭酸水』
最近立て続けに書肆侃侃房の新鋭短歌シリーズの歌集を取り上げているが、今回も同シリーズの一冊である。プロフィールによれば、著者の竹内亮は1973年生まれで、東大の国文科を出て新聞社に勤務した後、弁護士に転身した人である。東直子の短歌講座を聴いたことがきっかけで短歌を作り始めて4年になるという。歌集題名のタルト・タタン (tarte Tatin)はフランス風のアップルパイで、皮が下にあり上にリンゴが載っている。言い伝えによれば、タタン姉妹がアップルパイを作った時に、うっかりひっくり返したのがきっかけで誕生したという。生クリームをホイップしたものを添えて食べることが多い。タルト・タタンの横にペリエか何か炭酸水を注いだコップがある風景は実にお洒落である。
お洒落と言えば、この歌集全体がお洒落な雰囲気を身にまとっていて、東直子の筆による海と黒白猫の表紙の絵もなかなか洒脱だ。このお洒落さは最近あまり見ない貴重なものなので、今回取り上げることにした。
バブル経済崩壊以後の短歌はとにかく「不景気」(by荻原裕幸)で、穂村弘が「ゼロ金利世代の短歌」と呼んだように、お洒落からはほど遠い。「どこへゆくためのやくそく水色のオープン・カーではこばれる犬」(山崎郁子『麒麟の休日』1990)のようなキラキラした歌は遠い過去である。ところが『タルト・タタンと炭酸水』には光と色が溢れていて、モノトーンか淡色の印象の歌集が多い昨今では異色と言ってよい。冒頭に挙げた掲出歌にはキャベツ色のスカートが登場する。あまりキャベツ色とは言わないところがかえってユニークだ。薄緑色のスカートだろうが、ここは春キャベツのひときわ淡い緑がよかろう。そんな人が風の匂いの飲み物を選ぶのだ。他にも次のような歌がある。
収録された歌のなかでは、細部に目を止めた歌と喩が効果的な歌がよいように思う。
上に引いた歌は着眼点がよく、それを言語化して定型に収めるのもうまく行っている。しかし歌歴が浅いせいか未熟な歌も多い。「夏の田の緑の中で君を待つ栞の紐の紫の色」は「の」が多すぎる。「白い空坂を登って橋の上並んで歩き声に出す『あの』」には動詞が4つもあるがこれも多すぎる。一首に動詞は最大3つまでである。おまけに結句の「あの」が意味不明。また「吹く風は地面の草を燃え立たせ口ずさむのはみことのりです」の「みことのり」は天皇の詔勅なので誤解だろう。その前には神社に参拝する歌があるので、それを言うなら「祝詞」か「真言」か「マントラ」ではなかろうか。一首だけ「石段に一枚残る花びらに触れむとすれば飛び立てり蝶」という文語の歌が混じっているのも違和感を覚える。
竹内も口語短歌を作っているのだが、前回も述べたのと同じことが当てはまる。結句が体言止めか倒置でなければ、すべてル形で終わっているのである。
それはさておき、『タルト・タタンと炭酸水』は今時珍しいキラキラ感のある青春歌集になっている。作者の実年齢よりも若い時代が詠われているためか、いささかの懐旧感もある。作者が中年の屈折を味わったときにどんな歌を詠むのか見てみたい気もする。
お洒落と言えば、この歌集全体がお洒落な雰囲気を身にまとっていて、東直子の筆による海と黒白猫の表紙の絵もなかなか洒脱だ。このお洒落さは最近あまり見ない貴重なものなので、今回取り上げることにした。
バブル経済崩壊以後の短歌はとにかく「不景気」(by荻原裕幸)で、穂村弘が「ゼロ金利世代の短歌」と呼んだように、お洒落からはほど遠い。「どこへゆくためのやくそく水色のオープン・カーではこばれる犬」(山崎郁子『麒麟の休日』1990)のようなキラキラした歌は遠い過去である。ところが『タルト・タタンと炭酸水』には光と色が溢れていて、モノトーンか淡色の印象の歌集が多い昨今では異色と言ってよい。冒頭に挙げた掲出歌にはキャベツ色のスカートが登場する。あまりキャベツ色とは言わないところがかえってユニークだ。薄緑色のスカートだろうが、ここは春キャベツのひときわ淡い緑がよかろう。そんな人が風の匂いの飲み物を選ぶのだ。他にも次のような歌がある。
夏の午後に君の瞳のコンタクトレンズの縁の薄さ見つめる螺旋のパスタといい、サイドミラーに映る青空といい、ジェリービーンズの鮮やかな色彩といい、わたせせいぞうの原色を多用したイラストを思い浮かべてしまった。私の世代の人間にとって、わたせせいぞうのイラストに登場するオープンカーや洒落たカフェや白いワンピースを着た女性は「明るく豊かな青春」の象徴のように思えたものだ。本歌集にはどことなく似た空気を感じるのである。
キッチンで知らない歌を口ずさみ君は螺旋のパスタを茹でる
川べりに止めた個人タクシーのサイドミラーに映る青空
左手のライ麦パンは光ってて猫は何度も瞬きをする
なめらかな布で磨かれそのまんま夜道を照らすジェリービーンズ
ジーンズの裾に運ばれついてきたあの日の砂を床に落として
収録された歌のなかでは、細部に目を止めた歌と喩が効果的な歌がよいように思う。
試着室で君と選んだシャツを着る羽化してすぐの蝉が鳴く夏一首目では、「羽化してすぐの蝉が鳴く夏」が、上句の試着室でシャツを着る様子の喩となっている。季節は夏の初めで、「羽化してすぐ」が恋の初めであることを表し、同時にその恋の脆さをも表現している。二首目は祖父の法要のために田舎を訪れた折の歌で、「みな丸顔になっている国」がユーモラスだ。田舎の女子高校生は丸顔で頬が赤かったりする。三首目のポイントは「足音のよい道」だろう。何も話さないのは話す必要もないほど満ち足りているからである。四首目は青春グラフィティの一場面のようだ。少年は片足立ちで、体を支えるために片手を少女の肩においているのだろう。それにしても女子校の制服以外に今どき私服でカーディガンを着る少女がいるだろうか。その意味でも昔懐かしい青春を思わせる。五首目は他とやや趣のちがう幻想的な歌だ。ほんとうならばかすかな光を探すときには瞼を大きく見開くだろうに、逆に瞼を閉じるという。心眼で探すのだろうか。ちなみに魚には瞼がないので、いっそう幻想的な歌である。六首目は地面に青い柿が落ちていたという光景だが、それが誰かが置いたように見えたのがミソである。しかし「静止する」はやり過ぎだ。
水色のジャージで歩く女子たちのみな丸顔になっている国
旧市街を何も話さず歩きたい足音のよい道を選んで
カーディガンの少女の横で少年は片足立ちで靴はき直す
夜の海でかすかな光探すとき夏の魚は瞼を閉じる
涼やかな朝の地面に静止する誰かが置いたような青柿
上に引いた歌は着眼点がよく、それを言語化して定型に収めるのもうまく行っている。しかし歌歴が浅いせいか未熟な歌も多い。「夏の田の緑の中で君を待つ栞の紐の紫の色」は「の」が多すぎる。「白い空坂を登って橋の上並んで歩き声に出す『あの』」には動詞が4つもあるがこれも多すぎる。一首に動詞は最大3つまでである。おまけに結句の「あの」が意味不明。また「吹く風は地面の草を燃え立たせ口ずさむのはみことのりです」の「みことのり」は天皇の詔勅なので誤解だろう。その前には神社に参拝する歌があるので、それを言うなら「祝詞」か「真言」か「マントラ」ではなかろうか。一首だけ「石段に一枚残る花びらに触れむとすれば飛び立てり蝶」という文語の歌が混じっているのも違和感を覚える。
竹内も口語短歌を作っているのだが、前回も述べたのと同じことが当てはまる。結句が体言止めか倒置でなければ、すべてル形で終わっているのである。
線香を両手でソフトクリームのように握って砂利道を行く「ある」「いる」のような状態動詞のル形は現在の状態を表すが、動作動詞のル形は習慣的動作か、さもなくば意思未来を表す (ex. 僕は明日東京に行く)。このためル形の終止は出来事感が薄い。何かが起きたという気がしないのである。口語短歌の多くが未決定の浮遊状態に見えるのはこのためかもしれない。
海水の透明な水射すひかり大きな鳥が陸を離れる
水苑のあやめの群れは真しづかに我を癒して我を拒めり高野の歌では完了の助動詞「り」が使われているため、きっぱりと何かが起きた感がある。文語には過去の助動詞「き」「けり」、完了の助動詞「ぬ」「つ」「たり」「り」があり、感動助詞の「かな」や「はも」など、文末表現が多彩である。現代口語では文末が「る」でなければ「た」しかない。文末表現の貧弱さが現代口語の大きな欠点なのである。現代の口語短歌はこの課題を解決できるだろうか。
高野公彦『水苑』
それはさておき、『タルト・タタンと炭酸水』は今時珍しいキラキラ感のある青春歌集になっている。作者の実年齢よりも若い時代が詠われているためか、いささかの懐旧感もある。作者が中年の屈折を味わったときにどんな歌を詠むのか見てみたい気もする。