第177回 大口玲子『桜の木にのぼる人』

樹皮削られ水かけられて除染といふ苦しみののちのりんご〈国光〉
                 大口玲子『桜の木にのぼる人』
 今年(2015年)の9月に刊行された大口玲子の第5歌集である。2012年から2014年に制作された歌が編年体で並ぶ大部の歌集だが、読み進むにつれて次第に引き込まれてゆき、最後まで一首一首味わいながら読了した。旅をして豊かな時間を過ごした感がある。最近読んだ歌集のなかで最も心に深く響いた歌集と言ってよい。それは大口の思索と歌の世界が深化しているからである。
 宮城県に暮らしていた大口にとって、2011年に起きた東日本大震災と、東京電力福島第一原発の過酷事故は、生活を根底からひっくり返す大事件であった。幼い子を持つ大口は、水素爆発によって撒き散らされた放射性物質の被爆を逃れるために、宮崎県に移住した。だから『桜の木にのぼる人』は震災後の世界、原発事故後の世界を生きる作者の歌なのである。
 大口が樹木にことのほか愛情と共感を寄せていることはよく知られている。掲出歌は、放射性物質にまみれてしまった東北のリンゴの木を詠んだものである。樹皮を削られ水をかけられるという試練に遭ったにもかかわらず、例年と同じ果実を実らせたリンゴの木を愛おしく感じているのだが、この歌の歌意はそれに尽きるものではない。樹木にこのような苦しみを与えた当事者への怒りがもちろん根底に流れている。しかし私はそれ以上に、リンゴの木が経験した試練を〈受難〉として捉える視線を感じる。それはこの歌集に多く収録されているキリスト者としての歌のせいでもある。
 歌集を出すたびに何かの賞を受賞している大口の歌力の確かさは今更言うまでもないのだが、大口の歌の何が人を引きつけるのかを考えると、なかなか答えを出すのが難しい。私はそれは「ためらい」と「受け止める力」ではないかと思う。赤瀬川原平の『老人力』以来流行している「…力」を使って造語するなら、「ためらい力」と「受け止め力」と言ってもよいかもしれない。
宮崎への移住を迷ひ泣く人に触れえずコップの縁を見てをり
「福島から来たお母さん」「宮崎のお母さん」どちらでもなくわれは立つ
 私はこのような歌に大口の「ためらい」を感じるのである。移住すべきか迷って泣いている人の背中をなでてあげたり、励ましてあげたりするのが良き行いなのかもしれないが、作者はそれをためらっている。また自分は福島から来た母でもあり、宮崎に住む母でもあるのだが、自分をそのどちらかの立場に規定することをためらっている。「ためらい」は決断の回避であり迷いであるので、ふつうは脱すべき心理状態で、否定的価値を付与されるものだろう。しかしためらうことにも肯定的な価値がある。憎い人を殴ることをためらったり、人に安易にラベルを貼ることをためらうのは、短絡的な行動を抑制し理性的な行動を促して、「ひるがえって自分はどうなのだろう」と自問する自己省察に導く道でもある。
倒さるる木々のいつぽんいつぽんがわが内に倒れ込みくる真昼
 この歌には大口の「受け止め力」が感じられる。この歌の前には「全体重かけて樹木を押し倒す刹那の人を間近に見をり」という歌があるので、樹木伐採の現場を見ているのだろう。切り倒される木が自分の内に倒れ込むという発想をふつう人は持たないが、大口はまるで自分の中に飛び込んで来るかのように受け止めるのである。大口にはこの他にも「何かが自分の中に入って来る」という感覚を詠んだ歌が散見される。「受け止める」というのが作者の基本的なスタンスになっているようだ。
 「3.11後の世界」を生きる大口の大きなテーマは、3.11後の東北と避難して暮らす宮崎での生活である。短歌研究賞を受賞した連作「さくらあんぱん」の冒頭には、「悩みのパンを食べなければならない。あなたが急いでエジプトの国を出たからである」という聖書の申命記の一節が置かれている。被爆被害を避けるために宮城県を離れた自分と重ねているのは明らかである。
宮崎より遠望すればスローガンの〈「東」は未来〉今もまぶしき
「福島を返せ」と叫ぶほかなしとデモに三人子(みたりご)を伴ひきたる
まだわれに声あらば声あぐるべし春の虹立ちたちまちに消ゆ
おびただしき取材の中で仙台に戻らぬ理由はつひに問はれず
容赦なく美談にからめとられゆく脇の甘さに酔ひて気づける
 これらの歌には、東北の被爆による健康被害を訴えたいという気持ちと、自分だけが遠く離れた宮崎にいるという後ろめたさと、震災・原発事故報道や被災者支援に対する違和感などがないまぜになって表れている。大口の場合、それが激情や声高な非難攻撃とはならず、自己省察を交えた理知的な歌として表出されているところが大きな特徴と言えるだろう。
 とはいえ内に秘めた熱い思いがないわけではないことは、本歌集に登場するジョバンニ・パスコリ、ディートリッヒ・ボンヘッファー、フランシスコ・ザビエルという三人の人物を見ればよくわかる。
肉親の死の痛み降りそそぎけむジョバンニ・パスコリその生の綺羅
国家ではなくキリストに従へとただキリストに従へときみは
総統は三週間後に自殺して五月この世の夏のはじまり
聖フランシスコ・ザビエル日本語に苦しみて周防の夏の雲仰ぎけむ
 パスコリは社会主義に傾倒したイタリアの詩人、ボンヘッファーはヒットラー暗殺を企てて死刑になったルター派の牧師で、ザビエルは言うまでもなく布教のために来日したイエズス会の神父である。世界を動かそうとしたこれらの人々に作者が静かに思いを馳せるのは、ただ単にその事蹟を忍ぶためだけではなく、自分を鼓舞するためでもあるだろう。
 入信してキリスト者となった大口は、本歌集にキリスト教に関係する歌を多く入れている。
復活のイエスに手首つかまれて立ち上がり春の汗ぬぐふべし
わが聖書へ投げ込むやうに強引にはさみこまれし木の栞あり
花の水かへむと今宵近づけば蛇踏みて立つ聖マリア像
信仰の薄き者よと言はれたる夕べのわれは鍋を焦がして
となふるべき祈りのことば今日はありて黙祷はせず声揃へたり
 静かで内省的な本歌集が、にもかかわらず弱さではなく、逆に強さを感じさせるのは、大口が得た信仰のためかもしれない。最後に特に心に残った歌を挙げておこう。
きみが摘み子に渡したる野の花を子はためらはずわれに渡しぬ
突風に煽られながら低く飛ぶとんぼの影がわが影に入る
マスクしてわれを見る人の目がすこし遠くなりたる朝をかなしむ
光撒くやうにおがくづをこぼしつつ木を切る人の孤独鋭し
はなびらが桜を離れ地に落つるまでの歓喜よ人に知らゆな
寒月の大きくひくくのぼる夜の狩られゆく鹿の声に覚めたり
桜のみ冴えてくぐもる人の声すでに銃後の町を歩めり
 今年一年を振り返り、来たるべき新しい年に思いを馳せる歳晩のこの時期に読むのに相応しい一冊である。