第181回 鳥居『キリンの子』

噴水は空に圧されて崩れゆく帰れる家も風もない午後
                鳥居『キリンの子』
 驚くべき本を読んだ。福沢将樹の『ナラトロジーの言語学』(ひつじ書房 2015)という本だ。著者の福沢は愛知県立大学で国語学の教授をしている。本の主たるテーマは表現主体の多層性である。日常言語で「私は今日は朝から晩まで忙しかった」と言うとき、文の主題句の「私」は発話者の〈私〉と正確に同一である。ところが文芸において「私は降りしきる雨の中を闇に沈む東京駅を目指して歩いていた」と書けば、この「私」は作者と同一ではない作中人物である。作者の〈私〉とは別に作中の〈私〉がいる、これは誰もが承知していることだろう。
 近代短歌ではこの事情はいささか複雑になる。「われのひかりに選ばむとしてのがしたる夏のひかりの潦あり」(荻原裕幸)の「われ」は、作者の荻原という現実世界を生きる生身の人物ではなく、作歌という創作行為を通して作り出され表現される〈私〉である。永田和宏が述べるように、「文体とは(…)日常的行為者としての〈私〉を、詩の構成要員たる〈私〉へ押し上げる梃子」(『表現の吃水』)なのであり、日常の私が文体を核とする創作行為によって歌の中の〈私〉へと変貌する。近現代短歌における「私性」の問題は古くて新しい問題であり、「短歌における〈私性〉というのは、作品の背後に一人の人の–そう、ただ一人だけの人の顔が見えるということです。そしてそれに尽きます。そういう一人の人物(それが即作者である場合もそうでない場合もあることは、前に注記しましたが)を予想することなくしては、この定型短詩は、表現として自立できないのです」(『現代短歌入門』)という岡井隆の言葉はあまりにも有名である。〈私〉即作者でない場合(いや、一見〈私〉即作者に見える場合も同断だが)、作者の〈私〉と詩の構成要素である作中の〈私〉があることになり、そこに〈私〉の多層性が認められる。
 福沢将樹の『ナラトロジーの言語学』では何と驚くべきことに、表現主体としての〈私〉が、作家-内在する作者-演ずる語り手-談話の語り手-文の語り手-文型の視点-判断の視点-知情意の視点-言及対象と、計9層にも分かれているのである。最後の「言及対象」は短歌に描かれる景物であるが、それが自己に及ぶときは9層となる。唖然とするほどの主体の分裂であり、もしこれが正しいとすると、言語表現において主体は、床に落としたクリスタルのグラスのように散り散りなっており、文内に響く声は決して一人のものでなく、いくつもの声が重なっていることになる。
 そのことはすでに1970年代の構造主義のテクスト論において盛んに論じられたことである。文芸批評家ロラン・バルトは、バルザックの中編小説『サラジーヌ』を解剖した名作『S/Z』の中で、声の多層性を鮮やかに描いてみせた。またテクスト論においてバルトが「作者の死」(la mort de l’auteur)を宣言したことはよく知られている。福沢の著者もまたテクスト論の延長上にある。
 ところがこのような賢しらなテクスト論など「しゃらくさい」とばかりに蹴り出したくなる迫力の歌集を読んだ。鳥居の『キリンの子』(KADOKAWA / アスキー・メディアワークス 2016)である。2016年2月3日付けの朝日新聞大阪版朝刊の「ひと」欄に、作者の写真入りでこの歌集が紹介されていた。曰く、母親が自殺、自分も自殺未遂をし、入れられた児童養護施設で壮絶な苛めに遭い、ホームレスとして公園の水を飲んで暮らす。中学校も満足に通っておらず、施設にあった新聞を辞書を引き引き読んで字を覚えたという。その後、穂村弘や吉川宏志の短歌に出会って歌を詠むようになったとある。義務教育の重要性を訴えるために、成人した現在もセーラー服を着て活動している。これはおもしろいと、さっそく歌集を注文しようとしたら、すでに版元品切れだ。やむなくAmazonで出品されているものを購入した。その後しばらく経って版元から献本が届き、奥付を見たら2016年2月10日初版、2月29日第2刷とあるではないか。発行から19日で増刷がかかったのである。こんなことは『サラダ記念日』以来のことではないだろうか。ネット情報では、予約だけで初版の発行部数を超えたらしい。帯には「美しい花は泥の中に咲く」という惹句が印刷されていて、解説の吉川宏志以外に、いとうせいこう、大口玲子が推薦文を書いているのも異例なことである。鳥居は2012年に現代歌人協会全国大会において、穂村弘の選により佳作入選を果たしているほか、本歌集のあとがきに代えて掲載されている「エンドレス、シュガーレス、ホームレス」によって第3回路上文学賞大賞を受賞している。
 さて、歌集の中身だが、構成とは別に大きく分けて、祖父母や母親と過ごした幸福な日々を詠った歌、母親の死とそれに続く虐待・ホームレス時代を詠んだ歌、それ以外の歌の3種類に分けられる。言うまでもなく最も胸を突かれるのは2番目のグループの歌である。
花柄の籐籠いっぱい詰められたカラフルな薬飲みほした母
冷房をいちばん強くかけ母の体はすでに死体へ移る
灰色の死体の母の枕にはまだ鮮やかな血の跡がある
いつまでも時間は止まる母の死は巡る私を置き去りにして
 小学校から帰宅すると、薬を飲んで瀕死の母がいた。ここで暮らせなくなると困るから騒ぎを起こさないよう言われていた鳥居は、救急車を呼ぶこともできず、死んで行く母と数日過ごしたという。冷房を強くするのは腐敗を遅らせるためである。「死体へ移る」という即物的表現に言葉を失う。母親の自死は小学生だった鳥居の時間の流れを止めてしまったようだ。
孤児たちの墓場近くに建っていた魚のすり身加工工場
全裸にて踊れと囃す先輩に囲まれながら遠く窓見る
虐げる人が居る家ならいっそ草原へ行こうキリンの背に乗り
次々と友達狂う 給食の煮物おいしいDVシェルター
遮断機が上がれば既に友はなく見れば遠くに散った制服
 児童養護施設を詠んだ一首目では、「魚のすり身加工工場」の生々しさが印象に残る。二首目は養護施設でのいじめを詠んだ歌で、四首目は駆け込んだDVシェルターの歌である。五首目は目の前で鉄道自殺した友人を詠んだもの。最近あまり使わない「遮断機」という字面からして重々しい言葉が効果的で、切れ切れに散った紺の制服という余りに鮮明な情景にも言葉が出ない。
コロッケがこんがり揚がる夕暮れの母に呼ばれるまでのうたた寝
鳩たちへ配って遊ぶ出掛けぎわ母が持たせてくれたクッキー
壊されてから知る 私を抱く母をしずかに家が抱いていたこと
みんなまだ家族のままで砂浜に座って見つめる花火大会
大花火消えて母まで消えそうで必死に母の手を握りおり
 母親が死ぬ前の幸福な子ども時代の歌では、一転して直截な表現は影を潜め、甘やかな世界が描かれている。まだ時間が流れていた時代だが、「みんなまだ家族のままで」という言い回しが悲しい。
 「海のブーツ」から「紺の制服」までの第I部は鳥居が経験した辛い体験を中心とする歌で、吐き出して表現することにある種のセラピー効果があるものと見てよい。これに対して第II部は、歌人としての自覚のもとに特異な体験から離れた歌を集めたものと思われる。分量としては第I部の4分の1程度しかないが、歌人としての鳥居の新たな歩みを示すものとして重要である。
海越えて来るかがやきのひと粒の光源として春のみつばち
噴水が止まれば水は空中に水の(かたち)を脱ぎ捨てて散る
やがて街を去りゆく蒼き春雷がかたき卵の殻にひびけり
屋上へつづく扉をあけるとき校舎へながれこむ空のあお
鉄棒に一回転の景色あり身体は影と切り離されて
デモ隊にまぎれて進む女生徒がうすく引きゆく林檎の香り
亡き祖父の庭に立ちいし柿の木のある日は夕焼け空に触れたり
 第I部の歌には、表現が稚拙なものもあり、言葉の選択が適切でないものも散見されたが、第II部に来てこの変わりようである。「けり」「たり」など文語も駆使するようになり、とても中学校すらまともに通えなかった人とは思えない。ほんとうに鳥居は頭が下がる努力の人だ。ていねいに読んでいこう。
 一首目、蜜蜂を春の光源に喩えたきれいな歌で、「来るかがやきの」の句跨がりまでマスターしている。二首目は以前から集めている「噴水の歌」に加えた。噴水は現代短歌で好まれる素材である。この歌のポイントは噴水の水が止まる瞬間を捉えた点にある。水のかたちが幻にすぎないことに改めて気付かされる。三首目ではまず「春雷」と「卵」の組み合わせに感心する。初句の七音も効果的で、俳句に仕立ててもよい好きな歌である。四首目は完璧な青春歌。校舎の屋上は様々なドラマが繰り広げられた青春のトポイである。五首目も感心した歌。確かに鉄棒をするときは、足が地面から離れるために、通常は接続している身体と影が切り離される。ジャンプしても同じことが起きるが、鉄棒の方が持続的に切断される。「一回転の景色」もよい。六首目、デモ隊の通過するときふと漂うリンゴの香りとは、まるで60年代のようだ。七首目では「ある日」と「触れたり」が表現として秀逸である。
 吉川も解説で書いているが、最初のうちは見よう見まねでぎこちなかった鳥居の歌は、急速に短歌のリズムを獲得するに至っている。その進歩の跡には瞠目すべきものがある。鳥居は今後も、母親の自死や施設で受けた虐待やホームレス生活など、少女時代の経験の特異さによって注目を浴び続けるだろうが、それは歌人としての鳥居を正しく遇することにはならない。
 さてここで最初の話に戻ろう。「表現主体の多層性」、「作者の死」、「一人の〈私〉へと収斂することのない分散する〈私〉」というテクスト論の考え方を短歌に適用することができるか。短歌も言語による文芸の一種である以上、適用することは可能だろう。問題はそれが妥当か否かである。『キリンの子』のように、一読して言葉を失うような迫力に満ちた短歌を読むと、テクスト論の鋭利さは急速に色褪せてしまい、「いやいや、やっぱり短歌は人生と切り離すことはできないでしょう」とつぶやいてしまう。短歌の〈私〉とは、つまるところ岡井の言う「作品の背後に見えるたった一人の顔」なのではないか。少なくとも『キリンの子』を読む限り、その背後に見えて来るのは鳥居という個性溢れる一人の歌人なのである。

【注記】
 ロラン・バルトの『S/Z』は1970年刊行、翻訳はみすず書房刊で読むことができるが、フランス語の細部にわたる分析なので、原文で読まないと理解の難しい部分もある。「作者の死」は『物語の構造分析』(1979)所収。この本はバルトのいくつかの論文をまとめた日本独自の編集。
 鳥居については、岩岡千景『セーラー服の歌人 鳥居 拾った新聞で字を覚えたホームレス少女の物語』(KADOKAWA / アスキー・メディアワークス)という本も出ている。また「不登校新聞」に鳥居のインタビューが掲載されていて読むことができる
 なお『キリンの子』の著者印税の10%は慈善団体に寄付されるという。鳥居のブログは こちらにある。鳥居への援助・寄付の送り先も書かれている。