第180回 森井マスミ『まるで世界の終りみたいな』

(くが)しづみ国土ちひさくなる夏のをはりても咲きみだるる朝顔
            森井マスミ『まるで世界の終りみたいな』
 第一歌集『ちろりに過ぐる』に続く森井マスミの第二歌集『まるで世界の終りみたいな』は問題歌集である。問題歌集というのは、その意図・手法・成果に関して、世間の賛否が大きく分かれるだろうという意味においてである。まず歌集題名が目を引く。「~みたいな」というのはしばしば批判の的となる若者言葉で、それをわざわざ題名にしたのは、森井の意図してのポストモダン的シミュラークルだろう。表紙カバーは白地にオレンジ色で題名が印刷されているが、カバーを取ると一面のオレンジに白で同じ題名が印刷されていて、その図と地の反転がまるで網膜に残る残像のような効果を生む。栞文は第一歌集にも文書を寄せていた藤原龍一郎。
 次に歌集の構成だが3部に分かれた本体と、本体に入れなかった歌を集めた附録があり、巻末に制作年月と関連事項が置かれている異色の構成となっている。なかでも「制作年月」が本歌集の鍵となる重要な情報である。本歌集に収録された短歌は、2011年3月11日の東日本大震災とそれに伴う東京電力福島第一原発の事故をまたぐ期間に制作されているからだ。つまり、「あの日の前」と「あの日の後」とが、まるで深いクレバスのように時間をふたつに分断しているのだ。本歌集には、その分断された時間の狭間で苦しみに身を捩る作者の声が充満しており、読んでいて胸が苦しくなることしばしばであった。
 森井は評論集『不可解な殺意』のなかで、無差別殺人事件に象徴される現代日本社会の病根について論じ、このような社会状況のなかで文学はいかに可能かを真摯に考え続けている。そして次のように述べている。
「ところで、ポストモダンにおける物語の消滅は、一方では近代的な規範を内面化した『私』の消滅と平行している。そしてその後にやってくるものは、データベース的な想像力によって生成される、キャラクターとしての『私』であり、純文学からライトノベルへの移行が、不可逆的な流れであることは、先に述べた通りである」(p.89)
 論旨の妥当性についてはひとまず措くとして、この引用が示すように森井が文学(短歌)を取り巻く社会状況に極めて敏感であることに留意しておこう。だからこそ『まるで世界の終りみたいな』なのである。国内では震災被害と原発事故や幼児虐待、国外では戦争とテロという現実が森井をしてこの書を書かせたのであり、本書は森井が綴る現代の黙示録であると言ってよい。ポストモダン世代のアポカリプスといった観を呈している。
名も知らぬ花揺れてをり詩と歌と廃れてのちの危険区域に
kibouのキーがこはれてカーソルが点滅したまま二年が経った
悪夢なら覚めればよいが 現実と夢の境を漏れ出す汚染水
衛るべき国ほろぶれど 日本といふ棺にあまる紅白の布
「戦後」といふことばはるけしタワーマンション並びゐる卒塔婆のごとくに
 想いが溢れる余りに定型の枠をはみ出して韻律さえ失った歌も多い。
国家予算を費やせどももはや取り戻せぬ現実といふあのしるきもの
「想定範囲」外の危機など避けられぬ邦 民主主義が麻原を生んだ
踏みしめることのできない土地でなぜひとは戦ひ続けようとするのか
 その一方で、『ちろりに過ぐる』でも試みられていた過去の文学作品の換骨奪胎という手法による歌もある。次はカミュの『異邦人』に想を得た L’Etrangerという連作である。
けふ、ママンが死んだ ひとはいつ死ぬかわからぬ、いつ死んだかさへ
泥水の眠り中でけんめいに子を産み落とすママンのかはりの
棺の長すぎる釘 打つために渡された小石、彼岸に転げ た
 歌集の構成と内容の紹介はこれくらいにして、通読して感じたことを書き留めたい。ひとつは「大きな言葉で語ることの危うさ」である。「大きな言葉」とはすなわち「遠景を語る言葉」だ。
 〈私〉を取り巻く世界の構造は「近景」「中景」「遠景」に分けられる。「近景」は日々を暮らす〈私〉のごく身近な世界で、それを構成しているのは家族・友人・職場などであり、そこに流れる時間の単位は「一日」である。たとえば次の歌に描かれた空間と時間は典型的な近景と言ってよい。近代短歌は自我の詩であり同時に生活の歌であったので、近代短歌が最もよく描いた世界である。
校正室のわれに幾度も来る電話かかる忽忙をいつよりか愛す 大西民子
 「中景」は近景よりもう少し大きな空間と長い時間を持つ位相で、暮らしている地域、故郷、あるいは国がそれに含まれる。時間は数十年の単位で、家族や友人以外の見知らぬ人々を含む一人称複数の「われら」がそこに関わる。中景を描くのは例えば次のような歌である。
碓井嶺を過ぎて雪やま濃きあはき縁曳きゆくちちははのくに  島田修二
 これに対して「遠景」は、イデオロギーと世界情勢の領域であり、空間は地球規模で時間は数世紀という単位となる。SFの世界ならば、規模はさらに拡大して宇宙全体、さらにはパラレルワールドにまで広がるだろう。
 『まるで世界の終りみたいな』所収の「創世記2013」という連作に次のような歌がある。
あのひとはノアに命じて箱船を造らせるべきだつたあの時
まさかあの大事な時にあのひとがモバゲーやつてゐたなんて信じられない
ドバイ、クウェート聳えたつビル 洪水を神を呪ひて建てし塔あり
鳩はまだオリーブをくはえ帰り来ず 水がひいても線量が高い
 これらの歌の下敷きにF1苛酷事故があるのは確かだが、手法そのものは「セカイ系」である。「セカイ系」とは、アニメ「機動戦士ガンダム」に典型的に見られるように、主人公である〈私〉がひょんなことから戦闘に巻き込まれ世界の命運を背負わされるというようなストーリーで、〈私〉が近景や中景をすっ飛ばしていきなり遠景へと接続する世界観を指す。
 短歌においては、景の遠近に応じて〈私〉の大きさと言葉の大きさが反比例の関係に立つ。近景では〈私〉が大きく言葉が小さい。「言葉が小さい」というのは、身近で卑近な出来事やちょっとした感情の揺れを表す語彙だということである。一方、遠景においては言葉が大きくなり〈私〉が小さくなる。大きな言葉とは、「民主主義」とか「大衆消費社会」とか「グローバル化」のように、政治的もしくは経済学的な「概念」を表す言葉を言う。概念とはそもそも一般化であり、その前では〈私〉は小さくならざるをえない。一般化されれば〈私〉は消滅する。一般化とは私とあなたの差を捨象することであり、〈私〉とは他と交換のきかない存在論的「例外」だからである。
 よく言われることだが、短歌はその短詩型としての制約から、小さなものをすくうのに適した器である。小さなことばが歌のなかで〈私〉を押し上げる。『ちろりに過ぐる』の評において、私は森井の短歌における〈私〉の位相の危うさに触れたのだが、『まるで世界の終りみたいな』においても、異なる経路からではあるが、同じことを指摘せざるを得ない。「大きな言葉で語る」ことには常に危うさがつきまとう。そのことに留意するべきだろう。
 その意味でも本歌集で気になるのは、巻末におまけのように置かれた附録である。ここには主に3.11以前に作られた歌が配されている。「ゴーギャンあるいはParadise Lost」、「火だるま槐多」、「俊徳丸」、「凍る」、「おとうと」といった連作は、展覧会や演劇に足を運び、それらの作品に触発されて作られた歌である。あとがきのなかで森井は、「『附録』は全くの蛇足になってしまったかもしれない」と書いている。つまり森井は一首の歌の価値ではなく、歌を作るに至った背景・状況という外的要因に基づいてこれらの歌をほとんど無価値と判断したのだ。
 これらの歌の中にも小さな言葉がすくい上げたものがあるはずだ。そういうものを大事にしなければ、短歌という短詩型は存在意義をなくしてしまう。そう思えてしかたがないのである。