第198回 吉川宏志『鳥の見しもの』

砂肝にかすかな砂を溜めながら鳥渡りゆくゆうぐれの空
吉川宏志『鳥の見しもの』
  掲出歌は一見すると叙景歌のように見えるが実はそうではない。上句の「砂肝にかすかな砂を溜めながら」は実景ではないからである。砂肝の中身は見えない。私たちは知識によって砂肝には砂が含まれていることを知っているにすぎない。だから上句は鳥を見て「あの鳥たちの砂肝にもきっと砂が溜まっているのだろうな」と思う〈私〉の思念である。また内臓に砂を蔵して空を飛ぶ鳥の姿にはかすかな悲しみが漂う。かくて上句は抒情となり下句の叙景と呼応してポエジー溢れる一首となる。このような作りの歌の背景には、〈私〉と〈世界〉との往還運動と相互規定を信じる信念が横たわっている。そして吉川はそのような信念を最も強く持っている歌人なのである。
 『鳥の見しもの』は今年 (2016年) 8月に上梓された吉川の第七歌集で、第21回若山牧水賞を受賞した。吉川は宮崎県の出身であり、ゆかりの深い牧水賞受賞は嬉しいことだろう。「橄欖追放」の前身「今週の短歌」では、2005年6月に吉川を取り上げたが、その時点ではまだ第一歌集『青蝉』、第二歌集『夜光』、第三歌集『海雨』までしか出ていなかった。あれから11年経過して再び吉川を論じることになったが、その間に第四歌集『曳船』、第五歌集『西行の肺』、第六歌集『燕麦』が出版され、永田和宏の後を襲って塔短歌会の主宰に就任したのは周知の通りである。この短歌コラムでは意識して歌集を出したばかりの若い歌人を論じるようにしているので、吉川のように評価の定まったベテラン歌人は取り上げる機会を逸することが多い。
 さて、『鳥の見しもの』だが、ひと言で感想を要約すると、「さすがの安定感」と「芽生えつつある新たな顔」となろう。
 「さすがの安定感」を感じるのは例えば次のような歌である。
石段の深きところは濡らさずに雨は過ぎたり夕山の雨
支社の人叱りていたり電話から小きざみの息感じながらに
白菊の咲く路地をゆく傘ふたつ高低変えてすれちがいたり
手に置けば手を濡らしたり貝殻のなかに巻かれていた海の水
立ち読みをしているあいだ自転車にほそく積もりぬ二月の雪は
ゆらゆらと雪の入りゆく足もとの闇をまたぎて電車に乗りぬ
 一首目、短時間で止む通り雨は石段の水平面と垂直面が交わる深い部分には届かないという吉川らしい着眼点が光る歌である。二首目は職場詠で、電話で支社の人を叱っている。その電話の向こうに叱られている人の息遣いを感じているという歌で、ほんとうに相手の息遣いが聞こえているかとは無関係に、叱りながらも叱られている人に想いを馳せている点がポイントだろう。三首目は狭い路地で傘を差した人がすれ違うとき、傘がぶつからないように一人は高く上げ一人は少し下げる様を詠んだ歌。些細な日常風景ながら他人への気遣いが感じられる。四首目、手に零れた水はもとは大海原の水であり、貝殻=死と海=生の対比に貝殻=小と海=大の対比が重ねられて広がりのある歌になっている。五首目のポイントは「ほそく」である。なぜ「うすく」ではないのか。それは自転車のハンドルやタイヤカバーが曲面だからである。鉄棒のような棒状の物体に雪が積もるとき、曲面部分の雪はすぐ落下するため積もらず、上面の細い部分、山で言えば尾根に当たる部分にしか積もらない。言われて初めて気づく観察である。六首目は雪が降る電車のホームの情景で、電車の車体とプラットホームの間に少し隙間があって、その闇に雪が吸い込まれて行く。足もとの闇が誤って落ちれば死ぬ闇であることは言うまでもない。日常に潜む不穏の歌と読むこともできて、「ゆらゆら」という擬態語が効果的だ。
 2005年に吉川を論じたときは、「一行空けの人」というキーワードを用い、吉川の直喩の嗜好を指摘したが、今回はもう少しちがう角度から吉川の短歌の巧さを見てみよう。それは歌の中の〈私〉の視点の確かさと、それを読者に感じさせる工夫である。
雨のあと光の沈む路をゆくムラサキシノブの枝は斜めに
向かいのビル壊されてゆく窓だったところに冬の雲がはいりぬ
 一首目では初句「雨のあと」でまず空気感を出し、「光の沈む路」だからおそらく夕方だろうという時間設定がある。次に「路をゆく」で歌中の〈私〉の位置が確定される。一首すべてが歩行する〈私〉の視点からの光景として定位される。ムラサキシノブは初夏に花を付ける植物なので季節は初夏という季節感まである。道を歩く〈私〉の目の前にムラサキシノブの枝が斜めに張りだしている。このように歌の中での〈私〉の立ち位置と視線の方向が明確に描かれているため結像力が強い。二首目では「向かいのビル」で職場の窓から見る風景であることが示される。「窓だったところ」で窓硝子と窓枠がなくなりコンクリートに開いた穴であることがわかる。その穴を通して向こう側に冬の雲が見えるという歌である。この歌でも〈私〉の立ち位置と視線の方向がはっきりとしていて、こちらにいる〈私〉、向かいにある解体中のビル、その向こうにある空という、近・中・遠のパースペクティブが明快だ。吉川の歌が一読して意味がわかり、抜群の安定感を見せるのは、このような細かい工夫によるところが大きいのである。
 ではこの歌集はいつもの吉川かというとそうではないところがある。「芽生えつつある新たな顔」が随所に顔を出すからだ。
見るほかに何もできない 青海に再稼働を待つ大飯原発
反対を続けている人のテントにて生ぬるき西瓜を食べて種吐く
原発をなおも信じる人の目には我は砂男のごとく映らむ
透明の傘にて顔を薄めつつ列に加わる秋雨のデモ
耳、鼻に綿詰められて戦死者は帰りくるべしアメリカの綿花
 最初の四首は原発再稼働反対運動に加わった折の歌で、五首目は安保関連法案が国会を通過し集団的自衛権の行使が可能になったことを受けての歌である。吉川は近年社会派の傾向を強めており、2015年12月6日に早稲田大学で開かれた「時代の危機と向き合う短歌」という緊急シンポジウムの呼びかけ人にもなっている。『鳥の見しもの』にはこれ以外にも東日本大震災の被災地を訪問した折の歌も収録されている。果たしてこれらの歌は成功しているか。判断の難しい問題である。少なくとも吉川は「紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ」という態度には与しないということだ。本歌集には小高賢の訃報に接した時の歌も収録されており、その一連の中に「論争は死後も終わらぬ 原発をどう歌うか君に問いかけている」という歌がある。短歌は短い詩型であり、近代短歌は私性を基軸として展開して来たために、集団的自衛権とか原発のような「大きな問題」は不向きである。〈私〉を始点とする近景・中景が近代短歌の主領域であり、遠景にはなかなか手が届かない。著書『風景と実感』で実感の大切さを説いた吉川がこの課題をどのように解決するのか注目したい。
 『塔』の11月号には今年の8月20日に岡山で開かれた全国大会の報告が掲載されている。報告の冒頭にマンガ『ベルサイユのばら』の著者池田理代子と吉川と永田紅の鼎談の記録があり、なかなかおもしろい。永田はベルばらの熱烈なファンらしく、「暴走したら止めてください」と言っているが、吉川は少年マンガしか読んでおらず、ベルばらも読んでいないようだ。実にもったいないことである。萩尾望都や竹宮恵子や佐藤史生や吉田秋生らによって、少女マンガはテーマの拡大のみならず表現手段も多様化しており、それは少年マンガ以上と言える。吉川の短歌にはサブカル的要素はほとんど登場しないが、『鳥の見しもの』には次の歌が一首ポツリと置かれていて思わずニヤリとした。
空条くうじょう承太郎を共通の友として息子と暮らす冬深きころ
 空条承太郎は荒木飛呂彦のマンガ『ジョジョの奇妙な冒険』の主人公の一人である。わが家も愛読者でシリーズ全巻揃えてある。思春期を迎えた息子と父親はなかなか会話が成立しないが、愛読するマンガのことなら話せる。そんな家庭の雰囲気がうかがえる一首だ。
 最後に次の歌を挙げておこう。
さむざむと風は比叡を吹き越すも酢の華やかに匂える夕べ
 「物名歌」と詞書きがある。物名歌ぶつめいかとは物の名を詠み込んだ歌のこと。この歌では「越すも酢」に「コスモス」が掛けてある。技巧的な歌だが、そのことを忘れてもよい歌だ。